内田篤人 単語

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サッカー選手 > 内田篤人

内田篤人について語るスレ#63

内田篤人Atsuto Uchida, 1988年3月27日 - )とは、日本の元プロサッカー選手サッカー導者である。
サッカー日本代表ローモデルコーチ。元サッカー日本代表

ポジションはDF(右サイドバック)。称はウッチーだが、ドイツではウシダと呼ばれていた。

概要

現役時代は日本を代表する右サイドバックであり、J1リーグ鹿島アントラーズドイツシャルケ04で活躍。鹿島では高卒ルーキーながらもすぐにレギュラーを掴み、クラブJ1リーグ三連覇に貢献。シャルケ時代の2011年には日本人として初めてUEFAチャンピオンズリーグ準決勝のピッチに立っている。

日本代表には19歳でデビューしており、当時の日本では数少ないゲームメイクのできるサイドバックとしてブレイク。特にアルベルト・ザッケローニ監督の時代には長友佑都との両として一時代を築いている。FIFAワールドカップには2度出場しており、2014 FIFAワールドカップでは低調なまま敗退したチームの中で孤軍奮闘し、高く評価された。

選手生活の晩年は怪との戦いとなり、まともにピッチに立てない時期も続き、結局32歳の若さで現役を引退引退後は、日本代表ローモデルコーチを務めながらメディアで活躍。DAZNで自身の冠番組も持っており、欧州で活躍した経験と鋭い視点からの解説話題となる。

プレイヤーとしての実力だけでなく、甘いルックスで女性ファンから絶大な支持を得ており、若い頃は女性向けファッション雑誌の表にも起用された。独自の視点による鋭いコメントには定評がある

経歴

生い立ち

静岡県田方函南町出身。父親中学校の体育教師で、母親は元陸上の短距離選手。がおり、長友佑都いわく「めっちゃかわいい」。

小学校1年の頃からサッカーを始めたが、きっかけは特になく、なんとなく始めたとのこと。自宅から近いSSSに入団していたが、小学校の頃は遊び感覚でサッカーをやっており、本格的に打ちこむようになったのは中学校に入ってから。それでも、中学時代は立った活躍をしておらず、全的には名の選手だった。

卒業後、サッカーの名門校であり偏差値66の進学校である清水高校入学。もっともこの頃は、将来に向けての大学進学を視野に入れて高校を選んでいる。高校へは、毎5時に起床し、自宅から1時間半ほどかけて通学していた。入学当初は快足を売りにしたウインガーだったが、高校2年に入ってから右サイドバックコンバートされて素質が開アンダー代表に呼ばれるようになったことでプロスカウトから注を集めるようになる。戦区の静岡県で在籍中に高校選手権に出場することはできなかったが、本人はメキメキと頭を現し、高校有数のサイドバックと評価され、複数のJリーグクラブからオファーを受けるまでになる。

鹿島アントラーズ

清水高校卒業後、鹿島アントラーズへ入団。当時監督だったパウロアウトゥオリに高く評価され、2006年Jリーグ開幕戦サンフレッチェ広島戦にスタメンとして出場しプロデビューを果たし、ドリブルで先制点となるPKを獲得するなど活躍。鹿島での高卒ルーキーの開幕スタメンは史上初であり、以降元日本代表の名良から右SBポジションを奪う形となる。第4節のヴァンフォーレ甲府戦では、クラブ史上最年少得点となる17歳11か22日でのプロ得点記録。さらにこの試合では2点アシストしている。プロ1年で28試合2得点記録

2007年は退団した名良から名される形で背番号「2」を引き継ぐことに。この年に初めて日本代表に選出されたこともあり、注度が増す中、リーグ戦31試合に出場。シーズン後半戦の鹿島の快進撃に貢献し、初めてのJ1リーグ優勝を経験。さらに2008年1月1日に開催された第87回天皇杯全日サッカー選手権決勝では、広島を相手に前半8分先制ゴールを決め、優勝に貢献。プロ2年にして、力として2冠を獲得。

2008年には、初めてAFCチャンピオンズリーグに出場。J1リーグでも怪で離脱した時期はあったものの代表との二束わらじとなりながら常勝軍団力としてプレー11月23日J1第32節大分トリニータ戦ではおよそ2年ぶりとなるゴールが決勝ゴールとなり、優勝へ大手をかけている。最終的に、この年のJリーグベストイレブンに初めて選ばれる活躍を見せ、リーグ戦連覇に貢献。

2009年コンスタントに稼働し、史上初となるJ1リーグ3連覇を成し遂げ、自身2年連続となるJリーグベストイレブンに選出される。この活躍ぶりは、ドイツスカウトのにも止まっていた。

2010年は半年ほどの在籍になったが、3月30日ACLペルシプラ・ジャヤプラ戦で試合を決定づけるゴールを決めている。

シャルケ

2010年7月1日ドイツブンデスリーガシャルケ04へ3年契約で移籍。背番号は5年間在籍し入れ替わるように退団した元ドイツ代表のケビンクラニィが着けていた22番。その事もあってか当初はシャルカーシャルケサポーター)やドイツメディア等から「内田の獲得は失敗だった」と言われていたものの、11月頃には、鬼軍曹と言われるフェリックス・マガト監督に認められ、右サイドバックレギュラーに定着。ザンクトパウリ戦ではラウール・ゴンザレスに見事なアシストをするなど徐々に活躍を見せはじめる。バイエルン・ミュンヘン戦ではブンデスリーガサイドアタッカーであるフランク・リベリマッチアップし、見事シャットアウト。2-0での完封勝利に貢献し、チームメイト、そしてサポーターの信頼を見事に掴み取った。UEFAチャンピオンズリーグでも、グループリーグ第5節のリヨン戦でDF3人を鋭く抜きながらのアーリークロスでヤン・フンテラールのゴールアシスト。準々決勝のインテル戦では長友佑都との日本人対決も実現した。ファーストレグでは右サイドバックとしてベストイレブンに選出され、「(当時世界最高峰のSBであったブラジル代表)マイコンを上回るパフォーマンスを披露した」と評された。その後クラブ史上初であり日本人初の準決勝進出を果たすが、クラブマンチェスター・ユナイテッド敗した。2011年5月21日には、DFBポカール決勝のデュースブルク戦に途中出場し、移籍後初タイトルを獲得する。

2年2011-12シーズンは、度重なる監督交代や怪、不調によって幾度も定位置を失いかけ、ベンチにすら入れない日々が続いたものの、チームメイトの負傷により巡って来たチャンスで見事なパフォーマンスを披露し、終盤はスタメン起用された。

3年となる2012-13シーズンは序盤からスタメンの座を確保。3年となる右サイドでのジェフェルソン・ファルファンとの息の合ったコンビは「チェコレートライン」と呼ばれ、チームの大きな武器となり、この年好調だったチームの原動力となる。同時にチーム内でもトップクラス人気選手となっていた。11月13日の第13節ホッフェンハイム戦でブンデスリーガゴールを決めている。また、2年ぶりのUEFAチャンピオンズリーグ舞台でも強アーセナルを相手に敵地で完封勝利を収めるなどの活躍を見せている。3月9日の宿敵ドルトムントとのレヴィア・ダービーでは、2アシストの活躍を見せ勝利に貢献。5月にはブンデスリーガ公式HPが選ぶシーズンベストイレブンに選出される。一方で前年度に負った右太もも裏の離れが慢性化し始め、何度かチームを離脱することがあった。

2013-14シーズンも負傷で出遅れながらも、復帰後は攻守両面で安定したプレーを見せ、ブンデスリーガ公式による前半戦のベストイレブンにも選出された。しかし、2014年2月にまたも右太ももを痛めて戦線離脱し、シーズン内に復帰することができず、シーズンの試合出場数も17試合にとどまった。

2014-15シーズンは、右膝の怪を繰り返し、何度か離脱することがあったが、チームからの信頼は変わらず、コンディションが整えば右サイドバックファーストチョイスとして起用されていた。しかし、2015年3月8日ブンデスリーガ第24節ホッフェンハイム戦で後に選手生命の危機に立たされる右膝膝蓋腱を負傷し、戦線を離脱。そのままシーズンが終了するまでピッチに戻ることはできず、6月に手術を受けることになる。ここから辛く険しい怪との戦いが始まることになる。

2015-16シーズンは、オフに受けた手術のため治療とリハビリに励む日々を送ることになる。しかし、2014年頃から右膝の状態が思わしくなかったのを手術を回避してだましだましでプレーを続けていた、さらに膝蓋腱の怪は症例が少なく、治療法の選択が難しいこともあって十分な回復に至らなかった。とうとう公式戦に1試合も出場しないままにシーズンは終了してしまう。

2016年に入ってからは日本に帰し、古巣である鹿島の施設をリハビリ活動の拠点としていた。7月にようやくシャルケチーム練習に合流できたものの、8月に入って状態の悪化が発表され、再び日本に戻って治療を受けることになる。紆余曲折したリハビリの日々を乗り越え、12月8日UEFAヨーロッパリーグレッドブルザルツブルク戦で途中出場をし、1年9カぶりとなる復帰を果たす。だが、長くピッチを離れていたためコンディションが整わず、右膝の状態も安定しなかったためブンデスリーガでは2シーズン連続で出場機会が訪れなかった。復活のために出場機会をめ、7年所属したシャルケを退団することを決意する。

ウニオン・ベルリン

2017年8月21日ツヴァイテリーガ(2部)のウニオンベルリンへの全移籍が発表される。シャルケ時代の実績から歓迎されての移籍となり、第5節のフォルトゥナ・デュッセルドルフ戦で移籍後初出場を果たす。クロスから同点ゴールとなるオウンゴールを演出するなど活躍したが、10月17日に左太もも裏の負傷のために戦線を離脱。その間にポジションも失い、ウニオンでのリーグ戦出場は2試合のみとなった。

鹿島アントラーズ復帰

2018年1月2日古巣である鹿島アントラーズに8年ぶりに復帰することが発表される。背番号はかつて背負っていた「2」2月25日J1開幕戦の清水エスパルス戦に出場し、2853日ぶりにJ1ピッチに立つ。しかし、コンディションが整わず、全盛期フォームを取り戻すことができず西大とのポジション争いに負けてベンチに座ることが多くなっていた。10月3日ACL準々決勝1st leg水原戦で逆転ゴールを決めたが、復活とは言えない不完全燃焼シーズンとなる。

2019年は、引退した小笠原満男からキャプテンを引き継ぐことになる。しかし、第5節のジュビロ磐田戦で負傷したで離脱。その間にポジションを失い、2020年1月1日天皇杯決勝では敗れたチームベンチから見守ることになる。

2020年シーズンも出場機会を得られず、8月20日契約途中ながら現役引退を表明する。現役最後の試合となった8月23日ガンバ大阪戦では、広瀬陸斗の負傷によって前半16分から急きょ出場。14年間の現役生活ピリオドを打つ。

日本代表

清水高校在学中の2004年日本サッカー協会催したU-16のセレクションに呼ばれ、そのスピードが関係者に評価されてU-16日本代表に選出。9月日本で開催されたAFC U-17選手権2004に出場。当時はSBコンバートされる前であったため右SHとして2試合にスタメンで出場するが、立った活躍はできずにグループリーグ敗退となっている。

2006年10月調子乗り世代」と呼ばれたU-19日本代表の一員として、インドで開催されたAFCユース選手権2006に出場。すでに鹿島レギュラーを獲得していたこともあり、チーム力として活躍。右SBとして決勝までの6試合全てにフル出場し、U-20ワールドカップ出場権獲得に貢献。

2007年には、フル代表補の合宿に初めて招集される。U-20日本代表としては、7月カナダで開催された2007 FIFA U-20ワールドカップに出場。ここでもベスト16までの4試合全てにフル出場し、PK戦で敗れたチェコ戦も含めて1敗もせずに大会を終える。U-20代表の活動が終了した後、北京オリンピックU-22日本代表に合流。9月8日アジア最終予選サウジアラビア戦から参加し、その後の試合全てにフル出場。すぐにチーム力となり、北京五輪出場権獲得に貢献。

2008年1月日本代表メンバーに選出されると、26日のチリ戦でスタメンに抜され、Jリーグ発足後は4番若さとなる19歳と305日でフル代表デビューを果たす。岡田武史監督は、「こういうボールの持ち方ができるSB日本にも出てきたか」と内田を評価し、南アフリカW杯アジア3次予選、東アジアサッカー選手2008といった公式戦でもレギュラーとして起用。6月22日アジア3次予選バーレーン戦では、代表初ゴール記録する。また、U-23日本代表として8月に開催された北京オリンピック本大会に出場。グループリーグ最初の2試合にスタメンで出場したが、第3戦のオランダ戦は怪のため欠場。チームも3連敗でグループリーグ敗退となり、世界の壁を痛感することとなった。

日本代表では、すでに右SBポジションを獲得しており、左の長友佑都との若いSBコンビチームとしての売りになりつつあった。この頃はまだ未熟だった内田の守備について批判が多かったが、岡田監督内田の攻撃力を買い、2008年9月から2009年6月までの南アフリカW杯アジア最終予選でも8試合中7試合にスタメンで起用。ただし、一欠場となった試合は本大会出場を決めたアウェイウズベキスタン戦で、発熱のためにベンメンバーから外れていた。9月5日におこなわれたオランダとの善試合では、マッチアップしたアリエン・ロッベンとのスピード勝負で互に渡り合っている。

2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップに出場するメンバーに選出される。しかし、本番直前にチームが守備重視の戦術に変更したことでレギュラーの座を駒野友一に奪われ、試合に出場する機会はく、ベンチで日本ベスト16進出を眺めることとなった。後に岡田武史内田レギュラーから外した理由を「ボール際が物足りなく感じた」と本人に語っている。

南アフリカW杯後、アルベルト・ザッケローニ日本代表監督に就任すると、再び右SBレギュラーに返り咲く。2011年1月カタールで開催されたAFCアジアカップ2011に出場。チームが攻撃スタイルとなったこともあり、持ち味の攻撃力が発揮しやすくなり、全試合にスタメンとして出場。力として日本の2大会ぶり4度優勝に貢献する。以降、所属するシャルケで怪を負ったこともあり、若手の酒井宏樹ポジションを争うことになるが、ゲームメイク力とドイツで培った守備力で一歩リードし、怪で離脱していた時期以外はレギュラーとして質の高いプレーを見せていた。2012年から2013年ブラジルW杯アジア最終予選でも8試合中5試合にスタメンで出場。

2014年2月に負った右太もも負傷のが心配されたが、6月ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップメンバーに選出。直前のキプロスとの強化試合で7年ぶりとなるゴールを決めるなど復調をアピール。2度ワールドカップは全試合フル出場。チームは1勝もできずにグループリーグ敗退となったが、自身は3試合を通して安定したプレーを披露。攻撃の形を作れず苦しんだ日本において、数少ないゴールを奪うための筋を提示し、大会中もっとも可性を見せていた。大会後、大半のメンバー批判される中、ファンメディアからの評価は高かった。

ブラジルW杯後、代表からの引退を示唆し、一時期招集を見送られていたが、2014年11月14日ホンジュラス戦で復帰。2015年1月から開催されたAFCアジアカップ2015メンバーに選ばれるが、右膝の怪によって出場を辞退。その後、ヴァヒド・ハリルホジッチ監督からも招集されるが、前述した長期離脱のにより2015年3月31日ウズベキスタン戦が代表としての最後の試合となった。

日本代表74試合2得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2006 鹿島アントラーズ J1リーグ 28 2
2007 鹿島アントラーズ J1リーグ 31 0
2008 鹿島アントラーズ J1リーグ 25 1
2009 鹿島アントラーズ J1リーグ 31 0
2010 鹿島アントラーズ J1リーグ 9 0
2010-11 シャルケ04 ブンデスリーガ 26 0
2011-12 シャルケ04 ブンデスリーガ 18 0
2012-13 シャルケ04 ブンデスリーガ 24 1
2013-14 シャルケ04 ブンデスリーガ 17 0
2014-15 シャルケ04 ブンデスリーガ 19 0
2015-16 シャルケ04 ブンデスリーガ 0 0
2016-17 シャルケ04 ブンデスリーガ 0 0
2017-18 ウニオンベルリン ツヴァイテリー 2 0
2018 鹿島アントラーズ J1リーグ 12 0
2019 鹿島アントラーズ J1リーグ 10 0
2020 鹿島アントラーズ J1リーグ 2 0

個人タイトル

引退後

2020年9月13日日本サッカー協会JFA)が新設した「ローモデルコーチ」に就任。アンダー代表の練習に参加するなどし、若年層の強化・普及に関わる活動を担うこととなり、9月14日から16日までのU-19日本代表の合宿に参加している。

2020年10月1日からはDAZNにおいて初の冠番組となる「Atsuto Uchida’s FOOTBALL TIME」がスタート。特に、アイドルとは思えない専門的なサッカー知識を持つ日向坂46影山優佳とのコンビ視聴者の好評を得ている。ちなみに内田影山のことを「カゲ」と呼んでいる。

2021年1月4日には、フジテレビ系列において中継されたルヴァンカップ決勝の解説を務め、3月31日からはテレビ朝日報道ステーション」のスポーツコーナーキャスターとして出演するなど、メディア方面でも活躍。2022 FIFAワールドカップアジア最終予選ではピッチレポーターとして選手への遠慮のない鋭い視点でのインタビュー話題となる。

2021年5月21日、このシーズンに2部降格が決まった古巣であるシャルケ04アンバサダーに就任。

2023年5月にはU-20日本代表ローモデルコーチとしてアルゼンチンで開催されたFIFA U-20ワールドカップに参加。

2024年10月4日、同25日の韓国との善試合までの限定でなでしこジャパンコーチに就任することが発表される。

プレースタイル

日本代表の左サイドバック化物じみた運動量と速さを持つ長友佑都ということもあり、何かと較されているが、スプリントもく、スタミナに関しても1試合あたりの走行距離は10km前後とサイドバックとしては申し分ない身体力の持ちである。基本的にはクレバープレーが持ち味の選手であり、サイドバックでありながらゲームメイクが出来る稀有な選手で攻撃の起点になることも多く、これは長友にはない長所と言える。シャルケ時代は、驚異的な突破力を持つファルファンと抜群のコンビを披露した。

鹿島プレーしていた時期は守備の軽さが問題視され批判が多かったが、シャルケ移籍後はディフェンス力も向上し、体格に恵まれていない分、俊敏性や危険察知ポジショニング、周囲との連携、相手の嫌がるファール等で見事にカバーしている。意外なことに中戦も強い。フランク・リベリーネイマールといったワールドクラスウインガーとのマッチアップしたときでも完封できるほどの守備力を備えている。

近年、ドイツ仕込みのエグいディフェンスが増えてきているが、何故かあまりカードを貰わないため、近い将来、2代目さわやか893を襲名するとかなんとか

人物、エピソード

ベビーフェイスイケメンというジャニーズ顔負けのルックスの持ちのため、女性ファンが非常に多く、日本代表でもトップクラス人気を持っていた。2014年には、女性向けファッション雑誌『an・an』において上半身裸で表を飾る。また、自身のカレンダートップアイドルに匹敵するレベルの売り上げを記録。もっとも、本人はファッションには疎いらしく、普段はジャージを着用することが多いとのこと。

インタビューなどのコメントが理知的で、的確であることでも知られ、自分の出場した試合であっても俯瞰的に分析し、確信を突くような発言が多い。基本的にはを行くタイプの性格で、槇野智章や安田理大がチームメイト調子乗り世代と呼ばれたU-20日本代表においても、あまりはしゃぐチームメイトの輪に参加せず、第三者的に眺めていることが多かった。チームメイトを弄る発言が多く、長谷部誠さを「長谷部か!」とネタにしたり、禁断の岡崎慎司頭髪の話もネタにしていた。

日本代表吉田麻也とは非常に仲が良く、当時ドイツイングランドと離れた場所でプレーしていたにも関わらず吉田ブログにかなりの頻度で登場。独身だった頃は、あまりの密さに2人の怪しい関係を疑う者もいた。

後に世界的な名GKとして名を馳せるマヌエル・ノイアーと同僚だった頃は非常に仲が良く、シャルケに在籍していた頃は内田ドライブに誘っていた。2011年3月11日東日本大震災の際、試合前に内田ユニフォーム日本へのメッセージを書いているのを撃したノイアーは、「それを見せるの?」と尋ね、内田が「勝ったら見せる。負けたら見せない」と返答。すると、ノイアーは「が守って勝たせる。問題ない」と返答。実際、このときのフランクフルト戦でノイアーロングフィードで逆転ゴールアシスト。そして、試合後メッセージの書いたユニフォームを掲げる内田に対し、ノイアーカメラに映るようにエスコートし、日本勇気づけたあのシーンが実現するのだった。

2015年5月25日小学校中学校同級生であり、幼馴染である一般女性との入籍を発表。多くの女性ファン奈落の底に突き落とす。ちなみに、交際する際、ドイツから告白して一度フラれている。また、まだ2人が交際する前に、内田が出演したテレビ番組に地元の幼馴染の一人として出演している。

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最終更新:2024/12/23(月) 20:00

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