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回答(10件)
考え方はいろいろ出来るんですが、ともかく「万里の長城」というのは、千年以上という時間をかけて今の形になってきた部分はある訳です。 当然そういう期間の間には「積極的に建設が進んだ時代」と「放置された時代」がある訳です、国家能力もいろいろに変化しますからね。 んで、基本的に「建設が進んでいる時代」=「遊牧民の侵攻を防いでいる時代」でもある訳ですよ。 基本的に「国を守る力」ってのは、機械や城の力ではない「人間の力」でしかない訳です。 んで、そういう「北辺の守備に力を割ける時代」には、長城も補修、強化されている、つまりは「現在、見事な存在を残している」ということは、長い歴史において「それなりに中国は防衛されていた」という証でもある訳です。 もちろん「ボッコボコにやられた時代」が無数にあることはご指摘の通りです。 でも、モンゴル人も満州民族も、結果的に中国文明に飲み込まれてしまった部分が大きい訳だし、強大な遊牧民族国家は、歴史上、一時的には大変に高度な文化を形成しながら、それらを後世にはあまり残せてない部分もある訳です。 俗に「難攻不落の要塞」というのは有り得ないんです、本当にそういう風にしていくと要塞は人間活動に不要な僻地となって根本的意義を失うんです。 そういう意味では「万里の長城」も、常に侵攻を防げなかっただけで、まあ「当たり前の話」だってことです。
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既にご回答もあるので、蛇足ですが。 万里の長城の存在と、それがある地域というのは、中国を中国であらしめる「中原の地」と、その周辺であり、それは「漢民族の住まう地」(東西と北)を示すモノであり国境のようなモノです。 そして、歴史的に漢民族の多く住まう「中原の地」と、その周囲は、今は”省”ですね。 つまり、漢民族の住まう地というのは.... ・南は長城のようなモノがなくて、明確な区分もなく南に行くほどジャングルとなりつつ、ほんとに別の地域なので曖昧ですが、少数民族も多く住まう地もあり、自ずと中原の地の南限となります。 南は、甘粛省と海南島がある一方で(漢民族が古くから進出)、コワンシーチョワン族自治区があります。 長城は無いけど、漢民族の住まう地の南限が見えてきます。 南は、明確な区分もあいまいだからこそ、中華の王朝が滅亡(都が陥落)すると、南に都を移して存続もあったし、中華民国も内戦に敗れると、台湾や香港に逃れつつ、中国の南に逃れて命脈を保ってますね。 中国とビルマとの国境不付近は、どこも属さない無法地帯となってます。 ・万里の長城の東端は海に繋がるりますね。 自ずと東の端っこととなります。 ・万里の長城の西端は甘粛省ですね。 漢民族の住まう”省”がある一番西です。 これよりも西は、ウイグル人やチベット人の住まう地域です。 ・万里の長城よりも北は、まさに北方の異民族が住まう地であり、後は、女真族(満州族)、モンゴル人の住まう地域です。 東西の端がありつつ、北に作ったというのは、それほどに北の異民族への恐怖とも、畏怖とも言えるでしょうけど、あれだけ長大で複数は、自ずと維持が難しくなります。 現在だと、航空写真、衛星写真などの技術もあり(また、赤色地図で、旧来わかりにくかったところが見えてきたりで)、複数(多重)の要塞線(国境線)があり、それらが全てが繋がるでも無いので(ぶつ切りされているところもある)、長大な一つの城壁である「万里の長城」というのを構成ではなくて、中原の地の北側に、東西に散らばる複数ある要塞線全体を包括して「万里の長城」です。 添付にあるとおり、研究と発見がありつつで、ホントにあちこちに散らばっています。 逆に言えば、北端や東端の変化は、漢民族の版図が広がった歴史も垣間見えます。 時代が変化すると、漢民族の住まう地は拡大しつつ、本来の国境ともいえる、万里の長城を超えて(中華の王朝が、国境を超えて侵略をする側になり)、本来は中国ではない、異民族の住まう外国である地域、西はウイグルやチベットを支配下にして、北は満州(内満州)とモンゴルを支配下としてます。 でも、元々漢民族の住まう地では無いから、伝統的な”省”という区分でなく、(実際は”自治”は無いけど)、区分としては、〇〇自治区となってますね。 〇〇自治区は、本来なら異民族の住まう外国ですが、そういうところまで中国は侵略で版図を広げたと(途中から、攻める側で「俺のターン」です)。 モンゴルの中でも外蒙古は、ソ連の後押しもありつつ中ソの緩衝地帯としてて、モンゴルは独立した国になってますけどね。 内蒙古は中国の自治区です。 また、外満州は、力を得た帝政ロシアに取られて今にいたる。 万里の長城は、ほんとに異民族の防波堤となり、防衛線を展開というよりは、拡大しつつある程度広がった(そして歴史を紡いだ)、漢民族の住まう地を示してるとも言えるでしょう。
漢民族の王朝が強い時期はそうでもないが、 西晋の滅亡にしろ、唐の安史の乱にしろ、 遊牧民族による大規模の侵攻は長城の内側から発生したものです、 そもそも漢民族と遊牧民族はそんなに隔絶してなかった。 後漢の朝廷も烏桓の異民族部隊を使って涼州の反乱を鎮圧しようとした、 清に至ってはそもそも建州女真の武装化は明が関外で設置した建州三衛が始まりだった。 ほかの時代はそもそも異民族が長城の内側で建国してた(モンゴルの時代はこれ、南宋は北方の領土をほとんど失ってる状態です)ので、 長城は思ったより機能してなかったのが実情です。
万里の長城は、皇帝を安心させるための只のお札でしかありません 6千㌔もの長さの国境線を長城だけで守るなら、最低600万の兵員が必要です しかし攻める側からすれば攻め易い長城の一点だけに全兵力を集中する事で いとも容易に之を突破する事が出来ます まして匈奴は騎馬民族であり、何処を攻めてくるか判らないように陽動を 繰り返すことで守備側を疲労困憊させることができます そのうえで手薄になった3千㌔彼方の真の目的の長城を猛攻撃すれば容易に 突破できることはお分かりでしょう
本当に長城で敵の侵入を食い止めるつもりなら、薄っぺらい壁だけではなく マジノ線のように一線陣地の背後に何重にもトーチカや地雷原に砲兵陣地を 幾重にも組み合わせて守る必要があります 流石のドイツ軍もこの要塞線への正面攻撃を避け、アルデンヌの森に 迂回し中立国のベルギーからの側面攻撃にも変更しました 近代的で長距離までカバーできる火力が強大になった事で可能となった 防御方法であって当時の火力では夢物語です マジノ線の砲台群
現存する万里の長城は3000㎞。 1mに1名の兵を配すれば、300万人。 唐帝国で人口6000万人ですから、人口の5%も配せねばなりません。 民衆の負担が大きすぎます。し、300万人もの兵を辺境におくのは、ものすごく危険。将の一部が遊牧民族と和を結んだら、王朝の危機ですな。 結局、長城は下の方の書く通り、「国境の策定」なんですな。