戦国時代での朝倉氏の飛躍のきっかけは 朝倉氏七代目当主だった朝倉孝景だったけど その孝景に対し 幼少時から英才教育かつ 当主になってからも長きにわたり後見を務めたのは 孝景の祖父で五代目当主だった朝倉教景ということですよね。 孝景だけでなく孝景の弟たちである経景、光玖、景冬、 さらに孝景の嫡男である氏景にたいしても同じく英才教育を施したものですか。 孝景が当主の頃の朝倉氏は 応仁の乱などで戦場での強さなどを如何なく発揮し、 越前国内では元々は守護代という立ち位置ながら 下剋上に依る国主の地位を手中に収めようとしていたものでしたが、 孝景をはじめ、 みんな戦場でのやり働き、国内の内政、対外勢力との外交、敵勢力への調略などなど、 個人差はあるけどいずれも有能ぶりをしっかりと発揮し成果を出してたもの、ですよね。 このあたり、孝景の祖父の教景の英才教育かつ後見による 朝倉氏興隆のための土台作りが大いに功を奏したものとみるべきですか。 それゆえか、教景の諱は朝倉氏の主要人物の中で一時的な名乗りも含め 使いまわしが成されたのでは、ですか。 もちろん、朝倉氏興隆のために尽くした教景に対する敬意というものですか。