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『このホラーがすごい!2024』の国内編1位と海外編1位が面白かったので、私のお薦めを紹介する

N/A

ホラーのプロが選んだ「本当に怖いベスト20」が紹介されている。

ホラーのプロとは、ホラー作家だったり編集者だったり、海外ホラーの翻訳家だったりホラー大好きな書店員だったりする。ベスト20のラインナップを見る限り、相当の目利きであることが分かる。

これがtwitterの人気投票だと、どうしても「売れてるホラー」に偏る。ベストセラーとは普段読まない人が買うからベストセラーになるのだから仕方がないのだが、どこかで見たリストになってしまう。

「売れてる」要素も押さえつつ、なぜそれが怖いのか、どうしてそれが「いま」なのかといった切り口も併せて説明しているので、流行に疎い私には重宝する一冊だった。

いまのホラーはモキュメンタリー(Mockumentary)が一大潮流だという。実際には存在しないものや、架空の出来事を、ドキュメンタリー形式で描くジャンルだ。実話系怪談や、ファウンド・フッテージ(撮影されたフィルムが発見された設定の映画)などになる。『新耳袋』や『食人族』『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』などが有名だね。

この流れがきており、モニュメンタリー・ホラーを代表する『変な家』(雨穴)、『近畿地方のある場所について』(背筋)、『かわいそ笑』(梨)の鼎談が特集されている。

面白いと思ったのは、作家にとって、モキュメンタリーは器(うつわ)であること。最初から目指していたのではなく、使えるリソースを選んでいたら、結果的にモキュメンタリーになったという指摘だ。

ウェブ記事で文章を書こうとすると、フィクションではなくルポ形式になる傾向があるという。さらに、youtubeでフィクションを作るなら、役者を雇って映画のように撮るよりも、一人称カメラでのドキュメンタリー形式になるか、あるいはカメラに向かって語る怪談形式になる。もちろん、カクヨムなどでフィクションを書く場合もあったが、ネットで表現しようとすると、ドキュメンタリー寄りになるというのだ。

確かにこの傾向はある。ネットで目にする形式は横書きが多く、結果、ルポ形式になる(レポート用紙っていうくらいだし)。あるいは、私がフィクションを読む場合、単行本や文庫の縦書きの書籍になる。もちろん例外もあるが、縦書き・横書きの違いと、フィクション・ノンフィクションの親和性が、怪談を入れる器を形作ったと考えると面白い。

ネットならではの怖い話もある。

たとえば、奇怪な現象のレポートを集めたSCP財団はネットで読むからゾワゾワするのであって、書籍にすると「あの雰囲気」が失せてしまうだろう。未読の方に解説すると、SCP財団とは、ネット上での「ごっこ遊び」になる。SCP財団の職員のフリをして、奇妙な現象をレポート「ごっこ」をする(読むほうはそうした報告書を盗み見しているような気分になる)。

あるいは、2chオカ板の死ぬ程洒落にならない怖い話を集めてみない?になる。「きさらぎ駅」とか「八尺様」とかが有名だが、語り手が状況を説明し、他の人が質問したり解釈する形で話が進んでゆく。これもレポート形式のホラーの一種といっていい。書籍化・映画化もされているが、やはりこれはネットで読むほうが怖い、と感じられる。

このホラーがすごい!国内編1位『禍』

お薦めされたので『禍』を読んだ。結論から言うと、これはすごい。

N/A

『禍』は、7つの短編が収録されている。それぞれの短編にはモチーフがあり、それに因んだり、そこを契機として物語が転がったりする―――思いもよらぬ方向に。

モチーフは、口、耳、目、肉、鼻、髪、肌と、どれも人体にまつわるものばかり。

私にも、あなたにもある、ごくありふれたパーツだ。そして、普通の人の日常から描かれるのだが、最初は微細な違和感だったものが、どんどん嫌悪感に膨らんでいって、どうしようもないほど「汚された」気分にさせられる。なんとも言えず気持ちが悪く、胸の奥がえずくようにモヤモヤする。

例えば、耳がモチーフの短編を読むうちに、知らず知らず自分の耳を触りたくなるだろうし、肌がモチーフの短編だと、服の布地と触れている私自身の肌が粟立ってくるのが分かる。鼻の話を読みながら、何度も鼻をつまんで「ある」ことを確認した。物語に感覚が侵食されていくのがたまらなく嫌らしい。この汚物感、短編を読み終えるごとに増してゆく。「怖い」というよりも薄気味悪い小説なり。

もう一つ。ここに出てくる女がいい。吐息の湿り具合やむっちりした肉感、全裸に点々と浮かぶ黒子が生々しく伝わってくる。バスに乗り合わせた女が押し付けてくる肉の重みと温みを感じるシーンや、深夜のエレベーターにうずくまって甘い匂いを立てているところなんて、一歩間違えると恐怖以外の何物でもない。

ふと、二の腕や腰に女の体がねっとりと柔らかく押しつけられるのを感じた。気づかぬうちにバスが発車してロータリーを回りはじめており、遠心力で女の肉が重たく押しよせてくるのだ。しかもその感触は、まるで女が故意に溢れんばかりの肉をこちらにあずけてきているかのようだったが、そんなはずはない。こちらが意識しすぎているのだろう。そうおのれに言い聞かせつつも、女と触れあっているあたりに籠もる、じりじりと炙ってくるような温みを無視することができなくなっていた。

『禍』「柔らかなところへ帰る」より

現実ではありえない感覚へ連れていかれるのは小説ならではの醍醐味だろう。映像化やコミカライズは可能だろうが、おそらく、どことなく間抜けな絵面になるかもしれぬ。読み手の想像力を振り回し、とんでもないところに投げ飛ばす奇天烈な短編でもある。

このホラーがすごい!海外編1位『寝煙草の危険』

ぶっちぎりで1位だったのがこれ。去年私も読んだのだが、私もダントツでこれを推したい。

N/A

ふつう、物語って、現実から逃避するために読む。現実はそれだけで酷い世界であり、頭の弱い女は利用され、貧乏な老人は虐げられ、居場所のない子どもは食いものにされる。ポリティカル・「イン」コレクトネスな世間だから、物語の中に逃げこみたくなる。

せめて物語のなかだけは、予定調和に進んでほしい。ご都合主義と言われてもいい、悪いものが潰えて、弱き人、良き人が救われる、そんなストーリーになってほしい。

そんな現実逃避を踏みにじってくるのが、これだ。

頭のイカレた老人が、通りでいきなり排便する(しかも下痢気味)。通り一帯に悪臭がたちこめ、近所の人が袋叩きにするのだが、どちらも救われない。ホームレスの老人も、正義感に満ちたその人も、その通りに住む全ての人が、救われない。

一応、老人の呪いという体(てい)で話は進むのだが、それを目撃した人たちは次々と不幸に遭う。強盗に遭って破産する、飼い猫を殺して食べた後自殺する、解雇される、店をやっていけなくなる、大黒柱が事故で死ぬなど、酷い運命が待っている。

悪いことがおきるとき、それに釣り合うカウンターが用意されているのがセオリーだ。だが、何のバランスもない。そんなに非道なことをしていないのに、したこと、していないことに見合わない非道な目に遭う。

そして、物語なら、なぜそんなことになったのか、因果の説明がある。本当に「呪い」なら、呪う側の出自や呪われる側の過去が語られるはずだ。だが、無い。

悪いことが起きることに何の理由もない、これが最も恐ろしい。なぜなら、それは現実で嫌というほど味わっているから。

これが最初の短編「ショッピングカート」のお話だ。20ページに足らないのに、ひどく嫌な気にさせられる。ラストの救いようのないナナメ上の展開にゾッとするあまり、引き攣った笑い声が漏れる。

こんな話が次から次へと畳みかけられる。世界が狂っているのか、私が狂い始めているのか、確かめてみたくなるストーリーばかりなり。

私のホラーベストと、最近怖かったやつ

私のホラーベスト

「ホラーベスト」と言っておきながら、お薦めしたいホラーがありすぎる。

最近の怖いやつは、BRUTUSのホラーガイド444を使って最も怖い作品を探すにまとめているし、珠玉のホラーベスト10は『ホラー小説大全 完全版』から選んだホラーベスト10に書いた。

いま、一冊だけ挙げるなら、エヴンソン『遁走状態』になる。

N/A

一行目から、「何かがおかしい」と引き込まれ、不安定でグロテスクな状況に巻き込まれた人物の視点で追っていくうちに、現実を確固たるものにしているはずの境界―――私とあなた、生と死、記憶と現実など―――が曖昧にされてゆく。

そんな場合、登場人物を「信頼できない語り手」とみなすことで、読み手である"わたし"を護ろうとする。だが、すぐに分かる。どんどんズレてゆく世界は、それはそれで一貫している。悪夢のように「おかしい」が、その夢の中では、限りなく明晰で合理的だ。

しかも、登場人物が再帰的にふるまうため、展開がループしはじめる。ひょっとすると、信頼できないのは話者ではなく、物語世界でもなく、"私"自身なのかもしれない。世界が壊れているのではなく、登場人物が狂っているのではなく、世界を認識する方法がズレはじめており、現実とうまく折り合わなくなっている。

この「世界」は、小説世界だけでなく、読み手の現実世界も含まれる。文字である、身体がある、"私"であることは分かっても、何が書いてあるのか、自由に動かせるのか、そもそも"ある"のかすら、確信がもてなくなる。死そのものよりもおぞましい、生ける屍状態なのだ。

そういう、嫌な話が全部で19編ある。どれもすばらしく厭な話ばかりだ。

そこでは、登場人物は何かを失われる。それは光だったり言語だったり、記憶や人格そのものだったりする。そのどれもが、"一貫性のある私"を成り立たせなくさせるため、人が世界を感知して「意味あるものにする」機構が壊れた場合、いったいその人に何が起きるのか、つぶさに体感することができる。

私が狂うのは、こんなんだろうなとつぶさに思い知らされる一冊。

すぐれたホラーを読むと、「生きてるッ」って実感できる。これは、登場人物が酷い目に遭えば遭うほど、「生きてるッ」って思う。現実にすり潰された心に、まだ、怖いと思える場所が残っていることに、ホッとする。

よいホラーで、よい人生を。

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