「なぜ悲劇を観るのか?」ヒュームの悲劇のパラドクスから物語の効用を考える
愛する人の死や、不幸な運命を描いた悲劇を、なぜ観るのか。
それも、絶頂からどん底までの落差が激しいほど、悲しみの振れ幅が大きいほど、より一層、好んで観たがる。これを「悲劇のパラドクス」と呼ぶ。イギリスの哲学者ヒュームは「悲劇について」でこう述べる。
巧みに作られた悲劇を観ている人たちが、悲しみや恐怖や不安その他の、それ自体においては不快で嫌な気持ちになる情念から受け取るものは、説明のつかない快楽のように見える
ヒューム「悲劇について」(『道徳・政治・文学論集』所収)
ここでは、ヒュームの主張を軸に、様々な角度から悲劇のパラドクスについて考える。
人の心は動きたがる
まず、芸術作品に触れたときの情念について。
ヒュームはこう主張する―――怠惰で気乗りのしない状態ほど、精神にとって不愉快なものはないという。たとえ不愉快で陰鬱なものであっても、平坦で無味乾燥なものよりはうんとマシなのだ。圧迫感に苦しむ人生にとって、悲劇は気晴らし、息抜きの一つなのだという。
つまり、人の心は動きたがるのだ。「感動する」という言葉に「動」が入っているように、”move”は「感動する」と同時に「動く」という意味を持つ。あるいは、心揺さぶる”stir”は「かきまぜる」、感激させる”impress”には「押し付ける」など、動きの意味が含まれている。
これに加え、喜びや美しさといった幸福に関連したものよりも、危険や苦悩や死、殺人、残虐といった不幸に関するものの方が多い。つまり、幸福のバリエーションよりも、不幸のバリエーションの方がより豊かであり、より多くの観客や読者の心を虜にする。
アンナ・カレーニナの法則
この原理は、ヒュームの死後ちょうど100年後に書かれた、トルストイの大作の冒頭に記されている。
幸せな家族はどれもみな同じようにみえるが、不幸な家族にはそれぞれの不幸の形がある。
幸福や成功となるパターンは少なく、不幸や失敗となるパターンは多い。小説のタイトルに由来して、この法則のことを、「アンナ・カレーニナの法則」と呼ぶ。考えてみればすぐに分かるように、平穏で幸せな毎日が永遠に続くような物語は存在しない(いわゆる日常系の物語ですら、何かしらイベントは発生する)。ずっと幸せだと、聞くほうが飽きるからだ。
だから、平穏で幸せで成功したパターンよりも、それ以外のパターンの方が必然的に多くなる。世の中のありとあらゆる物語を床にぶちまけて、任意の物語のある箇所を拾い上げると、それが幸せである可能性は少なく、「幸せ以外」である確率は非常に高い。放っておくと秩序は無秩序になるエントロピー増大の法則に、物語は準拠しているのだ。
もし、「幸せ」を持ち込むのであれば、幸せな日々が壊されるような物語か、あるいは、困難を乗り越えて幸せをつかみ取る物語になる。そうすることで、物語のバリエーションが増え、キャラクターの運命が動き、ひいては読者や観客の心を動かすことになるから。
心地よい悲しみ?
ヒュームは、快楽と苦痛の原因はそれほど異なってはいないという。
例えば人をくすぐるときだ。やり方が適切だと、くすぐりは喜びをもたらすが、行きすぎると苦痛になる。また、苦痛をもたらしているものを和らげると喜びになる。
これと同じように、弱められ和らげられた悲しみが、「心地よい悲しみ」になるという。人の心というものは、本来感動させられ、影響されるのを好む。憂鬱で悲惨なものであっても、適切に和らげられるのであれば、それに心は迎合し、気持ちの良い悲しみを味わうことができるという。
舞台の光景は、あたかも現実のように見える。しかし、劇場で上演されるものは現実のものではないと、私たちは心のどこかで知っている。英雄の悲運のために目に涙を浮かべる同じ瞬間に、これがフィクションに過ぎないことを思い起こし、安心して涙を流す。
どんなに恐ろしい物語だろうとも、我が身に危険が及ぶことはなく(かつそれを知っているからこそ)、安全に怖さを楽しむことができるのだ。
悲劇の役割
同じような発想は、『物語の役割』(小川洋子、ちくま新書)にある。タイトル通り、「なぜ人が物語を必要とするのか?」というテーマのエッセイだ。
物語の役割とは何か?それは「受け入れがたい現実を、物語の形に構成しなおして、受け入れる」ためにあるという。
ナマの現実は、ただでさえ苛烈だ。私にとって大切な人の死は耐えがたく、立ち直るためには長い時間を要した。大型トラックと接触しそうになったら、私は恐ろしさのあまり小便をもらすかもしれない。
『物語の役割』では、一つの例として、エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家のエピソードを紹介している(「愛の対義語は無関心」という言葉で有名な人)。
1944年にナチス・ドイツの侵攻を受け、ヴィーゼルは家族と共にアウシュヴィッツ強制収容所に送られる。母と妹はガス室で、父は過酷な生活に耐えられず命を落とす。
ヴィーゼル自身、過酷な労働と飢餓の中で、徐々に人間性を喪失してゆく。少年の公開処刑や父親の死ぬ瞬間を目の当たりにして、正気を保つため、自分の体験をいったん物語として再構成しようとする。そうすることで、めちゃくちゃで理不尽な現実に意味を見出し、向き合おうとする。
行動には意味があり、理由があるからこのような結果になったという、物語のフォーマットに落とし込むことにより、現実を理解することができる。
私がヴィーゼルのような過酷な体験をすることは、おそらく無いだろう。だが、それでも辛い現実に向き合わなければならない瞬間は、必ず来るはずだ。だから、物語の形に再構成された悲嘆や恐怖を味わい、シミュレートすることで、いわば現実の予習ができる。
そう考えると、キツくて辛い物語であればあるほど、一種の「悲しみ免疫」「辛さ耐性」のようなものがつくられ、現実の過酷さをある程度バッファリングすることが可能になるかもしれぬ。
あるいは、大切な人を亡くして泣き叫ぶキャラを見ていれば、実際に自分が同じ目に遭った時に「泣き叫ぶ」という選択肢があることが分かる。ショックのあまり自殺する人もいるのだから、その時に思い出すかどうかは別として、「選択肢がある」というのは重要だ。そしてそれは物語で予習できる。
この意味で、物語は(辛い)現実の予防接種たりうる。
遅延の効用
悲劇とは離れるが、ヒュームは「遅延」の重要性を説く。
物語から得られる快楽について最も重要な要素は「遅延」だと述べている。
何らかのネタを明かすことで観客や読者の心を大きく動かしたいのであれば、その効果を増す最善の方法は、できるだけ巧妙に遅らせることだ。
つまり、物語が提示する謎が解かれることへの「予期」が、先を知りたいと思わせ、その解決が引き伸ばされ、遅延すればするほど、解決したときの喜びは大きくなる。
不気味な影の正体はなかなか掴めないだろうし、(鑑賞者だけは分かっても)主人公は気づかないかもしれない(そして鑑賞者はイライラするはずだ)。さらに、たとえ正体が分かったとしても、「どうやって倒すのだろう?」という謎は残り続ける(おそらく、物語のラストまで)。影との対決がクライマックスになるのは、こういう理由なのだ。
そして、謎を宙吊りにしつつ物語を進めるなら、登場人物たちを不運な状態に突き落とし、越えるべき壁に直面させ、厄介ごとを起こさなければならない。なぜなら、物事がスルスルと進むなら、謎の方も遅滞なく解かれてしまうだろうから。
快楽をもたらす遅延を引き起こすためにも、不幸な出来事は必要なのだ。
こうやって考えていくと、私たちは不幸な悲劇を好むというよりも、むしろ、物語を面白くさせる要素として不幸な出来事がついてまわるのかもしれない。そして、好むと好まざるとにかかわらず、物語を通じて不幸慣れしていくことで、現実の不幸を予習していくことができるのかもしれぬ。
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