『ゲーデル、エッシャー、バッハ』はスゴ本
一生モノの一冊。
「スゴ本=すごい本」の何が凄いのかというと、読んだ目が変わってしまうところ。つまり、読前と読後で世界が変わってしまうほどの本こそが、スゴ本になる。もちろん世界は変わっちゃいない、それを眺めるわたしが、まるで異なる自分になっていることに気づかされるのだ。
『GEB(Godel, Escher, Bach)』は、天才が知を徹底的に遊んだスゴ本。不完全性定理のゲーデル、騙し絵のエッシャー、音楽の父バッハの業績を"自己言及"のキーワードとメタファーで縫い合わせ、数学、アート、音楽、禅、人工知能、認知科学、言語学、分子生物学を横断しつつ、科学と哲学と芸術のエンターテイメントに昇華させている。
ざっくりまとめてしまうと、本書のエッセンスは、エッシャーの『描く手』に現れる。右手が左手を、左手が右手を描いている絵だ。「手」の次元で見たとき、どちらが描く方で、どちらが描かれている方なのか、分からない。互いに描きあう手は自己言及を繰り返し、その環の中で閉じている。「絵」の次元で見たとき、その背後には、右手と左手の両方の創造者である、エッシャーの描かれてない「描く手」が控えている。さらには、この絵を描くエッシャーを写真に撮って、エッシャーの絵をさらにエッシャー化することもできる(『3つの球体』の試み)。「手」の無限ループからいったん離れ、自分のしていることをメタ的に眺めることができるのは、人と機械(AI、論理構造、システムetc...)の最大の違いだというのだ。
DrawingHands From Wikipedia
この違いは、矛盾の取り扱いに如実に現れる。人は、自分の考えに矛盾した点を見つけても、全精神が崩壊したり、思考活動を停止してエラーを吐き出すようなことはしない。その代わりに、矛盾を引き起こしたと思われる信念や前提、推論方法を吟味しはじめる。すなわち、その中で矛盾が生じたと思われるシステムから外に出て、それを修復しようと試みるのだ。このアナロジーをゲーデルやバッハに適用する。
たとえば「数学は、考えられるどんな世界でも同じだろうか?」という刺激的な問いが投げかけられる。数学の"確からしさ"は、現実との対応により信念のような形で経験的に信じられているのではないか―――という恐ろしい疑念が湧きあがる。よしんばゲーデルにたどり着いたところで、「どの数論が正しいか」という疑問が突付けられる。"バッハの渦"として、『音楽の捧げもの』の果てしなく上昇するカノンが説明される。一オクターブ「上がった」とき再び自身へ合流するよう計算された演奏だが、それを楽しむことができるのは、音楽を再帰的に聴けるから。カノンの中にいたのなら、相違の中の同一性に気づくことはなく、永久に上がっていくだけだろう。
あるいは、フーガの技法をエッシャーの地と図の反転になぞらえる。フーガは、一度に単一の声部についていくか、もしくはそれらを切り離そうとせず、すべて一緒になった全体の効果を聴くか、どちらかの様式で聴くことができる。各声部の道をたどりながら、同時に効果全体を聴くことができない。一方の様式から他方の様式へと行きつ戻りつ、自然に無意識にそうなる。黒いカニに注目すると、白地は背景となるし、白いカニに着目すると、さっきまで黒いカニだったものが地になってしまう『蟹のカノン』は、エッシャーとバッハが緊密に縒り合わさったものだろう。
本書は、わたしに新しい「目」をもたらしただけでなく、さらに次元が上の、メタな意味でスゴい一冊となっている。なぜなら、本書を読むために予習した本がスゴ本だったから。著者・ダグラス・ホフスタッターは、それぞれの学術研究を丁寧に解説するつもりはない(自身が"遊ぶ"のに夢中だから)。そのため、読み進めるためのサブテキストを、自力で探し出す必要がある。この探索が、わたしの読書傾向をまるで変えてしまったのだ。
今なら、[東大教師が新入生にすすめる100冊]で強力にお薦めされてる理由が分かる。本書だけ読んで分かる程度の知性が求められているか、あるいは、本書を読破するくらいの下準備ができるか望まれているのだ。わたしの場合、準備と実践と行きつ戻りつしながら格闘することとなった。わたしがどのような「回り道」をしてきたかをご紹介することで、本書の魅力をあぶりだしてみよう。
わたしの失敗は、不完全性定理を本書から学ぼうとしたところ。これは『GEB』のテーマの一つでもあるが、その理論を説明する本ではない。むしろ、これをダシに思考を弄び、知性を妄想しているのだから。不完全性定理を学ぶため、岩波文庫から攻めたが撃沈したので、高橋昌一郎『ゲーデルの哲学』から攻略する。数式を使わずアナロジーを用いることで、不完全性定理のイメージを上手く伝えている。同時にゲーデルの生涯を追いながら、不完全性定理の哲学的帰結までたどっており、数式なしで「わかった」気分にさせてくれる。その哲学的帰結は、下記の通り。
全数学を論理学に還元することは不可能である
全数学を公理化することも不可能である
面白いことに、不完全性定理に接近することで、数学を何か確固とした絶対的な知だと考えていたことに気づく。数学を疑っているわけではない。「疑う」というよりも、信じるわたしをメタな目で眺めるような感覚で、数学は積み重ねた証明を体系化したものの一つなのだと向き合うようになった。
そして、意味としての数学から形式的な知の体系としての論理学へ拡張してくれたのが、小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』になる。アフォーダンスの観点から数学を問い直しているところがユニークだ。アフォーダンスは、環境に実在し、人が生活していく中で獲得する意味(価値)と定義されているが、これを「数学のつまづき」の中に見つけ、こう喝破する。
あなたが数学でつまずくのは、
数学があなたの中にすでにあるからだ
単純な記号と簡単なルールを組み合わせることで、一つの論理体系(MIUシステム)を作り上げてしまう。学校数学をいったん捨て、純粋に形式的な「お約束ごと」だけで公理系を構築する件は、とてもスリリングだ。しかもこれは、現実世界と一切対応していない。わたしの経験や直感に邪魔されない、完結した論理体系のフィールドになる。
これは、『GEB』の第一部で紹介される重要な概念「MUパズル」そのもの。議論の前提となるための形式的な言明にすぎない「公理」、そこから演繹的に導出された「定理」は、必ずしも自明の理であるとは限らない。数学の「正しさ」は数学の中にあるのであって、わたしの中にあるとは限らない―――これを理解するためのMIUシステムの解説は、『GEB』よりも『数学でつまずくのはなぜか』の方が分かりやすい。
さらに、結城浩『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』から攻略する。馴染み深い「意味の世界」から、公理と推論規則だけで成立した「形式の世界」を渡るのは、ちょっと怖くて愉しい経験だったが、肝心の定理の理解には及ばなかった。
原因はわたしの理解力不足。ウォーミングアップである、「ウソつきのパラドクス」や「0.999…は1に等しいか」、「数学的帰納法」あたりは楽しく読めたが、「ペアノの公理」「イプシロン・デルタ論法」あたりになると、ついていくのがやっとだった。とはいえ、これがどういう定理であり、どのような攻略法があるかを知ることはできた。むしろ本書では、にわか勉強の底の浅さが見透かされたようでガツンとくる。
『数学というもの』は、絶対的に確かだと思っていたんです。でも、第一不完全性定理の結果からは…証明も反証もできないものがあるわけですし、第二不完全性定理の結果からは…他の助けを借りなければ矛盾がないことを示せないわけです。だから、やはり『数学の限界』が証明されたように感じてしまうんです。
なんとなく現実と対応づけができ、自明のように思える「数学っぽいもの」と、厳密に定義できて形式的に表現できる「数学というもの」の違いがつきつけられる。両者はともに数式を扱うから、同じように思えていたが、ここで明確に異なることに気づかされる。『GEB』では「数学における意味と形」というキーワードで示されている。数学を、いったん現実から引き剥がす必要がある。
「回り道」のご紹介おわり。著者がアドバイスするとおり、このペダンチックな議論は頭の良い若者にこそ向いている(15歳が適任だそうな!)。頭の堅いおっさん(=わたし)は、自分の積み上げてきた経験が邪魔をして、知に惑溺するどころか溺死寸前だった。できるなら、15歳のわたしに、こう伝えたい。「読め! 読んだら一生の宝物になる。これは知識ではなく、知そのものなんだ。今は理解できないかもしれないが、タイトルとこの重さを知っておくだけでもいい。なぜなら、かならずオマエは、これを読みたくなるから」ってね。
読もうと思い立ってから8年……長いだけでなく、その予習からしてインパクト大のスゴ本だった。そして、定期的に再読する、一生モノの一冊。
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