の~みそ、こねこね「数学ガール/ゲーデルの不完全性定理」
脳がコンパイルされる読書。面白くて辛いスゴ本。普段と違うアタマの部位がカッカしていることが自覚され、ちょっと気味わるい。
「数学ガール」とは、高校二年の「僕」が数学好きの美少女たちに翻弄される熱血恋愛バトル――というのはウソで、著者の言を借りるなら、「理系にとって最強の萌え」を目指した読みもの。ちょこっとラブ入りの物語ベースで、ガッコで学んだ数学とは一味も二味もちがう。
今回のテーマは、「ゲーデルの不完全性定理」――とはいうものの、いきなり斬り込むのではなく、準備として攻略ポイントを解説する。「ウソつきのパラドクス」や「0.999…は1に等しいか」、「数学的帰納法」あたりは楽しく読めたが、「ペアノの公理」「イプシロン・デルタ論法」あたりになると、ついていくのがやっとで、メインテーマである第10章「ゲーデルの不完全性定理」は理解できなかった。
もちろん、「何をやっているのか」は、登場人物の会話や独白で分かる。けれど、それが次々と繰り出される定義・公理・定理へと「どのように」つながるのかが分からない。いや、最初は懸命につき合わせて考えてみたけれど、怒涛の量にギブアップする。一覧表かロードマップのようなものがあれば…と作り始めたが、そもそも理解できないのに作れるはずもなく自壊する。実は、ひととおり説明された後に、ロードマップが示されている(p.358)のだ。証明の見取り図といってもいい。初読の方は、第10章に入ったら予めチェックしておくと吉。
わたしの数学がらみのエントリを見ると、分かってないことを分かろうともがいていることが「分かる」。学生時代、「数学は暗記科目」といってはばからなかったのに、オトナになって、カジるのが楽しみになっている。
あこがれとワンサイド・ラブ「数学ガール」
数式なしでわかった気になれる「ゲーデルの哲学」
数学ぎらいは幸せになれないか? 「生き抜くための数学入門」
アフォーダンスを拡張する「数学でつまずくのはなぜか」
下手の横好きのくせに、どうして(いまさら)数学をやりなおそうとするのか?その解が本書にあった。それは、意味を離れた思考をしたい、という欲望だ。数字を見れば「数値」や「数量」として扱ってしまうアタマから、いったん離れてみたいという欲求だ。
数学ガール・ミルカさんは、算術の体系から形式的体系をつくりあげ、その中だけで定理を導き出す。馴染み深い「意味の世界」に対応付けられた「形式の世界」を渡るのは、ちょっと怖くて、とても愉しい。公理と推論規則だけで成立した世界――形式的体系から、形式的証明が生み出されるのは、美しいとすらいえる。わたしは、おかしなことを言っている。機械的に、コンピュータのように計算(というか置き換え)を繰り返していった先で、「美しい」とか「愉しい」といった感情に触れるような気分に陥るなんて。
もうひとつ。「ゲーデルの不完全性定理」を生半可にかじってて、勝手に思い込んでいた「不安感」に終止符を打つことができた。それは、数学ガール・テトラちゃんのこの質問に集約されている。
『数学というもの』は、絶対的に確かだと思っていたんです。でも、第一不完全性定理の結果からは…証明も反証もできないものがあるわけですし、第二不完全性定理の結果からは…他の助けを借りなければ矛盾がないことを示せないわけです。だから、やはり『数学の限界』が証明されたように感じてしまうんです。言語は変化するのがアタリマエ。歴史は再解釈される。自然科学はパラダイムシフトするものだ。だが、『数学』だけは変わらない、確かなものだと「信じて」いた。「信じる」「信じない」にかかわらず、そうあるものだと考えていた――が、にわか勉強の不完全性定理で、その絶対性が揺らいでいたように思う。
これが、ミルカさんの応答でガツンとやられた。彼女は、『数学というもの』を明確にせよという。「正確に定義できて、形式的に表現できる何か」なのか、あるいは、「なんとなく心の中に浮かんでいる数学っぽいもの」か、ハッキリさせようとする。前者なら不完全性定理の支配下になるが、後者はそうならない。ただし、「数学っぽいもの」は、決して、「数学的に証明された」ものにはならないという。
これは、わたしにとって、痛恥ずかしかった。「数学っぽいもの」をありがたがってカジっていた自分が見透かされたように感じたからだ。数学の世界で展開される何かに意味を見出し、リアルに当てはめては悦に入っていたことが暴露されたかのような気持ちになった。数式に美なり快なりを見出すのは勝手だが、そいつを偉そうに開陳してきた自分が情けない。トドメのようにミルカさんのこの一言が刺さる。
要するに、『数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき』なんだなんとキツい御言葉。言葉尻や駄洒落を捉えて一般化した気分になること、性質の似た部分を拡大して同類化して一席ぶつこと、それらがいっぺんに否定されている。「(分けずに)分かった気になる」ことの不毛さを思い知らされた。自重するべ。
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コメント
「あらゆる知識の基礎は信じることである。」と私は信じています。
これから先の人生で、この信念が覆される日は来るのでしょうか?いつか覆される事を楽しみに人生を送っています。
投稿: 理系院生 | 2009.12.14 16:01
>>理系院生さん
コメントありがとうございます。確かにその通りなのですが…「信じる己」を信じる、「『信じる己』を信じる己」を信じる、…とメタ、メタメタの思考をマジメにたどると、比較的簡単にひっくり返せます(当社比)。わたしがナイーブ過ぎるのかもしれませんが…
自己言及の罠を回避したいのであれば、「ひとつの文字をじっと見つめる」実験も有効です。記憶や思考により付けられた意味が剥奪されるまで見つめると、思考のよりどころとなる言葉そのものまで疑うことができます。
投稿: Dain | 2009.12.15 00:14
返信ありがとうございます。
それひっくり返っているのですか?
何も信じずに成り立つ知識は存在するのでしょうか?
Dainさんは何も信じることなしに知識を成り立たせることが出来ますか?メタに思考をたどっていってその先に新たに知識は存在しますか?
変な絡み方をして申し訳ないです。Dainさんを信頼すればこそです。
投稿: 理系院生 | 2009.12.15 00:58
>>理系院生さん
こちらこそ、ありがとうございます。
変なナゾ掛けのようなわたしの返事なので、理系院生さんが絡んでいるのだと考えています(ごめんなさい)。ある信念を疑わずに「信じて」いる理系院生さんが、眩しく見えます。いっぽうで、「信じる自分」を疑う罠に陥った過去を思い出します。記された文だけで上手く伝えられるか、頑張りますね。
まず、結論は理系院生さんと同じです→「あらゆる知識の基礎は信じることである」…ただし、この結論に到るまでに、わたしは幾度か「ひっくり返って」きました。メタ思考だとか言葉から意味を剥奪するといった、一種の思考実験で「信じること」や「信じるわたし」を疑ったのです。その後、あらためて「信じる」ことにしています。
メタ思考について、補筆します。
「『信じる己』を信じる己」と一度考えてみます。すると、確かだと信じているものは、自分がそう信じているからこそ成り立っていることに気づきます。ひょっとすると、「自分だけ」に拠るカッコつきの「信念」かもしれません。あるいは、確かだと自分が「信じていた」ものが、いま自分が信じているからこそ成り立っていることに気づきます。それは、「いま」だけ成り立つカッコつきの「信念」かもしれません。そんなカッコつきの「信念」に依存するものを、「知識」と呼ぶのには、少し、抵抗があります。
さらに、「『信じる己』を信じる己」を信じる己、と今一度考えてみます。すると、上述の思考を支えているのは自分だけで、他者からすれば、「おまえがそう思うのならそうなんだろう、おまえン中でな」に見えるでしょう。さらに、上述の考えが少なくとも「存在した」ことを支えているのは、「いま」そう思っている自分だけで、将来どうなるか分かりません。そんな不確かなものを「信念」と呼ぶのは不安になります。そして、そんな不確かな「信念」に支えられたものを、「知識」と呼ぶには、かなり、抵抗があります。
上記のように「信じる己」をどんどん包含させていくと、「信じる己」が(今のいま、それを信じている己も含めて!)どんどん希薄になっていきます。似たような思考実験をデカルトが行っています(「信じる→疑う」に置き換え)。そして、「方法序説」にて、「疑う己は疑い得ない」という結論に達していますが、わたしは、「その己を疑ったら?」といいたいのです。「それが誰かの夢だったら?」というやつです。一回だけ疑うなら、「胡蝶の夢」や映画「マトリックス」が有名ですね。これを考えつく限り繰り返し包含させてゆくと、へとへとになります。そして、どこかであきらめます。「信念」なんて約束事に過ぎない結論に気づきます。
そうはいっても、わたしは生きていかなければならないし、それも社会生活の中で暮らしていかなければなりません。自分の内側で無限ループに陥っても、壊れるわけにはいきません。なので、この実験をいったん打ち切って、約束ごとの中でコミュニケートし、自分の思考を狭めて展開していきます。
メタ思考についての補筆は、以上です。
わたしは、こんな経緯の後で、「あらゆる知識の基礎は信じることである」という結論を「とりあえず信じて」いるのです。この「とりあえず」は、いい加減なニュアンスを持ちません。そうすることでループに陥らず、社会生活を送る上で不便にならないために…という意味で、「あまり深く考えず」という意味です。そんなわたしにとって、ズバリ「あらゆる知識の基礎は信じることである」と言い切る理系院生さんが、純朴に見えました。理系院生さんはこのループに陥ってないから、そんなまっすぐに言えるんだろうなぁ、と思いました(違っていたらごめんなさい)。
上記が、理系院生さんの質問に対する返答です。おそらく、このメタ思考をやったことがない(と思われる)ため、理解していない立場からの沢山の質問になっているのでしょう。もし理解いただけるのであれば、ハッキリ「わたしはそう考えない」という意見になるでしょう。
さて、理系院生さんは、これをどう受け止めたでしょうか。もし、「あんたのいうことがサッパリわからねー」とか、「オマエん中では真理だろうよ」という感想であれば、すみません、ここがわたしの文章で伝えられる限界です。テキスト上のやりとりでは、上手く伝えられる自信がありません(むしろ、誤解や曲解を招く応答になります)。お互いの反応を確かめながらの会話や、チャートや文献が必要になるでしょう。理系院生さんがお望みなら、一杯やりながらお話しましょう、ビールでも紅茶でもOKですぞ。
投稿: Dain | 2009.12.16 07:06
Dainさん
本当にどうもありがとうございます。
僕が「あらゆる知識の基礎は信じることである」としているのも、Dainさんと同じように社会の中で生きていくためです。私がメタ思考を経験せずに純朴に「あらゆる知識の基礎は信じることである」という事を信じているのではないかという話ですが、そんなことはないです。昔あらゆる意味の消滅した世界にどっぷり漬かっていた時期がありました。
>さらに、上述の考えが少なくとも「存在した」ことを支えているのは、「いま」そう思っている自分だけで、将来どうなるか分かりません。そんな不確かなものを「信念」と呼ぶのは不安になります。そして、そんな不確かな「信念」に支えられたものを、「知識」と呼ぶには、かなり、抵抗があります。
私も初めは抵抗がありました。しかし今では知識というのはその程度のものだと思っています。「あらゆる知識の基礎は信じることである」という宣言は、宙づりであることを受け入れる宣言です。
信じることなしに成立する知識というものを私はまだ見つけられていません。もし見つけられたら私の世界は再びひっくりかえって新しいステージに突入することになります。だから私は「あらゆる知識の基礎は信じることである」という信念が覆る日を楽しみにしているのです。
ところでこの前も似たような事をお聞きしましたが、Dainさんは信念というあやふやなものに頼らずに成立する「知識」を何か一つでももっていますか?
>お互いの反応を確かめながらの会話や、チャートや文献が必要になるでしょう。理系院生さんがお望みなら、一杯やりながらお話しましょう、ビールでも紅茶でもOKですぞ。
是非お会いしたです。どうやってコンタクトをとったらいいのでしょうか?あと僕は京都に住んでいます。就活でそのうち東京に出て行く機会もあると思うので、お会いするとしたらそのタイミングでしょうか。。
投稿: 理系院生 | 2009.12.17 12:05
>>理系院生さん
最初に謝らなければ。「メタ思考なんてしてないだろ?純朴なヤツ」なんて失礼なことを思っていました。大変申し訳ありません。
> 「あらゆる知識の基礎は信じることである」という宣言は、
> 宙づりであることを受け入れる宣言です。
この一文には、強い意志が込められていたのですね。ただ、「知識」という広い意味を持つ言葉が入っているので、事例を当てはめて意見を出し合うと、面白い議論になるかもしれません。
そこで、繰り返された質問への応答になります。
> Dainさんは信念というあやふやなものに頼らずに成立する「知識」を
> 何か一つでももっていますか?
答えは「ありません」になります…が、ここから二つのお話ができます。その中で、「あるかも…」という答えも示します。「数学ガール」のコメント欄なので、数学(の知識)という事例を使います。
ひとつめは、「知識の定義」についてです。「知識という言葉そのものに、『何らかの信念に基づいた共通認識』という意味が内包されている」ことがわたしの主張です。たとえば、ある数学的な知識――平行線は交わらないとか、三角形の内角和は180度とか――は、「そういう約束ごとが正しいと信じる」体系のもとで成立しています。つまり、「知識」という言葉を持ち出したとたん、「それを信じる人の集合/世界/体系」がセットになっているのです。ですので、どこからも信じられていない「知識」がポツンと転がっているようなことは、ありません。
もうひとつは、「知識の発見」についてです。「わたしたちの信念や認識の外側にある知識もある」というのが、わたしの主張です。ある研究が進んでいって、別の、思いもかけないものと結びつくとき、それは「発見された」という言葉がピッタリします。その不思議さ加減は、信じるとか信じないとかにかかわらず、ただあるものだというしかありません。昨日読了した「数と量の出会い」(志賀浩二著、紀伊國屋)に、面白い例がありました。1736年にオイラーによって証明されたものですが、
1 + (1/2^2) + (1/3^2) + (1/4^2) + ... + (1/n^2) + ... = π^2/6
数式の左辺は自然数1,2,3... で成立している、「数を数える世界」です。そして、右辺はπがあらわれている、「量を測る世界」です。もともと、それぞれは別個に存在していた世界が、くっついたのです!(この興奮を上手く伝えられないかもしれません)。これは、ひとりの天才が示したとはいえ、彼がいてもいなくても、存在していた事実です。
もともと隠されていたものが、「発見」されたり「証明」されることで、「知識」として扱われるのを目の当たりにしていると、わたしたちが信じる/信じないにかかわらず、「未来に"知識"として扱われる数式/天体/生物etc」というものは、やっぱりあるのだな、と思います。もちろん、「まだ隠されているのだから、それを『知識』と呼ぶのはおかしい」という反論もアリです。誰もいないところで木が倒れたら…の話になりますね。
文字なので、うまく伝えられたかどうか心配です。理系院生さんが、「はぐらかされている?」と思ったのなら、わたしの文章が拙いせいです。東京へ来ることになったら連絡してくださいませ。お詫びもかねて一杯おごらせてください。アドレスはプロフィール欄にあります。Twitter のIDは、Dain_sugohon です。
投稿: Dain | 2009.12.18 00:29