高等女学校時代
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「愛知県立岡崎北高等学校」の記事における「高等女学校時代」の解説
1907年(明治40年)3月30日 - 額田郡岡崎町への高等女学校の設置が認可される。 4月1日 - 校地が岡崎町大字康生に定められる。 4月2日 - 上記校地への校舎および寄宿舎の建設が認可される。 4月12日 - 岡崎町大字門前の随念寺を仮校舎として「岡崎町立高等女学校」が開校。 4月27日 - 開校式を挙行。初代校長は三井政善。 12月13日 - 校舎の新築移転をめぐって、反対派が「二校案期成同盟会」を組織する。この頃、連尺尋常小学校と投尋常小学校の増改築と同時に高等女学校の新築もあわせてすべきだとする「三校派」と、尋常小学校2校の増改築のみをすべきだと主張する「二校派」の間で激しい対立があった。 1908年(明治41年)2月21日 - 岡崎町の役場前の弁天坂で二校派の町民1000人ほどが三校派の議員に対し投石。流血を伴う暴動事件が発生する(いわゆる二校三校事件)。 6月15日 - 旧・連尺尋常小学校跡地(現・岡崎警察署の敷地)に移転。 1909年(明治42年)4月13日 - 岡崎町大字六供にあった旧・岡崎高等小学校の校舎跡地(現・岡崎市民会館の敷地)に移転。 1909年(明治42年)5月10日 - 二代校長に千蔵尚就任 1911年(明治44年)4月1日 - 実科を設置。 1912年(明治45年)4月1日 - 補習科を設置。 1916年(大正5年)7月1日 - 岡崎町が市制施行により岡崎市になったため、「岡崎市立高等女学校」と改称。 10月2日 - 屋内体操場が完成。 1923年(大正12年)2月28日 - 補習科を廃止し、本科の修業年限を4年から5年に改定。 1929年(昭和4年)5月26日 - 講堂が完成。 1930年(昭和5年)2月25日 - 本科の修業年限を4年または5年とする。 1945年(昭和20年)7月20日 - 岡崎空襲により、全校舎が焼失。 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。高等女学校の募集を停止(1年生不在)。 新制中学校を併設し(名称:岡崎市立高等女学校併設中学校、以下:併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学2・3年生として収容。 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たな生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、高等女学校4・5年生となる(4年修了時点で卒業することもできた)。
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高等女学校時代
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「栃木県立宇都宮女子高等学校」の記事における「高等女学校時代」の解説
1875年(明治8年)10月 - 下都賀郡栃木町(現・栃木市薗部町)に「栃木女学校」として創設。初代校長は手塚信敬。 1877年(明治10年)2月 - 「栃木模範女学校」と改称。 1879年(明治12年)7月 - 「栃木県第一女子中学校」と改称。 1881年(明治14年)5月 - 中学校(男子校、栃木県立宇都宮高等学校の前身)に統合され、「栃木県第一中学校女学部」となる。 1885年(明治18年)4月 - 栃木県庁の宇都宮移転に伴い、塙田町(県庁前)に移転。 1886年(明治19年)9月 - 「栃木県尋常中学校女学部」と改称。 1893年(明治26年)4月 - 栃木県尋常中学校から分離し、「栃木県高等女学校」と改称。 6月 - 裁縫専修科を設置。 7月 - 河内郡姿川村鶴田(現・宇都宮高等学校敷地内)に移転。 1895年(明治28年)4月 - 塙田町の旧校舎に復帰。 1896年(明治29年)10月 - 同窓会を発会。 1899年(明治32年)4月 - 専任校長が決定し、小堀源が就任。 1900年(明治33年)3月 - 服装規定を設け、全校生袴着用に統一。 1901年(明治34年)5月 - 「栃木県立宇都宮高等女学校」と改称。 1902年(明治35年)8月 - 寄宿舎を西大寛町の新設校舎に移転 9月 - 定員を本科400名、補習科60名、技芸専修科60名、計520名とする。補習科・技芸専修科は本科修了後の課程。 1903年(明治36年)4月 - 西大寛町(現在地)に移転。 5月 - 校友会(生徒会)が発足。 6月 - 校歌(旧校歌)を制定 9月 - 生徒服装規準を決定し、木綿長袖、海老茶袴、短靴とする。 11月 -徽章(胸章)を制定。 1905年(明治38年)3月 - 新校舎が全館完成。 1910年(明治43年)12月 - 技芸専修科を廃止。 1911年(明治44年)2月 - 実科を設置。 4月 - 校章(徽章)を改定。校訓を制定。 1915年(大正4年)9月 - 服装を木綿長袖から元禄袖に改正。 10月 - 創立40周年を記念し、操橋(みさおばし)が開通。 1918年(大正7年)3月 - 実科を廃止。 1921年(大正10年)3月 - 補習科を廃止。 4月 - 校歌を改定(現校歌)。 1922年(大正11年)2月 - 生徒定員を1000名とする。 1925年(大正14年)2月 - 標準校服を洋服(背広型)とする。 1928年(昭和3年)4月 - 同窓会家事専攻部を設置。 8月 - 創立50周年記念館が完成。 1931年(昭和6年)4月1日 - 宇都宮市内に高等女学校が新設されたことにより、「栃木県宇都宮第一高等女学校」と改称。 1932年(昭和7年)4月 - 服装をセーラー型に改定。校章(胸章)を改定。 1935年(昭和10年)10月 - 生徒保護者会が発足。 1936年(昭和11年)4月 - 同窓会経営の専攻科を県立に移管し、修業年限を2年とする。創立60周年を記念し体育館が完成。 1939年(昭和14年)2月 - 修業年限を5年とする。 1941年(昭和16年)4月 - 校友会を改組し、報国団とする。文部省により女子中等学校生徒の服装(ヘチマ衿バンド付)が制定される。 6月 - 生徒勤労動員が開始。 1943年(昭和18年)この年 - 女子中等学校制服が(上)和服型・(下)モンペに改定される。 4月 - 中等学校令の施行により、修業年限が4年に短縮される。 1944年(昭和19年)8月 - みさお保育園を開設し、勤労者の子弟教育を開始。陸軍省4年生に戦時看護訓練を実施。 9月 - 生徒通年動員が開始。 1945年(昭和20年)3月 - 専攻科を廃止。 4月 - みさお保育園を廃止。 9月 - 戦時通達による附設課程を廃止。 11月 - 報国団を解散し、生徒自治会が発足。校友会が再び発足。 1946年(昭和21年)3月 - 修業年限が5年に復帰。 1947年(昭和22年)2月 - 校友会が解散し、生徒会が発足。 4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)高等女学校の募集を停止。 新制中学校を併設し(名称:栃木県宇都宮第一高等女学校併設中学校、以下・併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制高校2・3年生として収容。 併設中学校はあくまで経過措置として暫定的に設置されたもので、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみ(1年不在)の中学校であった。 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校4・5年生として在籍(4年で卒業することもできた)。 文部省の補助を受け、附設幼稚園を開設。
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高等女学校時代(1915-1931)
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「一宮市立図書館」の記事における「高等女学校時代(1915-1931)」の解説
近世の一宮は真清田神社の門前町として栄えた町であり、「三八市」と呼ばれる門前市では綿織物や絹織物などの繊維製品が取引された。1915年(大正4年)には日本各地で大正天皇御大典記念事業が企画された。愛知県中島郡一宮町の一宮町会は記念事業として一宮町立図書館を設置することを決定し、図書館設備費1,000円の支出を議決。12月24日には館則が制定され、その後松井茂愛知県知事に対して設立申請書を提出して認可を受けた。この頃の資料を欠いているため、実際の開館日は定かでないが、今日の一宮市立図書館は館則が成立した12月24日を創立記念日としている。 一宮高等女学校時代の規則開館時間 04月01日-07月20日 : 16時-21時(一学期) 07月21日-08月31日 : 08時-16時(夏季休暇中) 09月01日-12月24日 : 16時-21時(二学期) 12月25日-01月07日 : 09時-16時(冬期休暇中) 01月08日-03月31日 : 16時-21時(三学期) 閲覧冊数 3部15冊以内 閲覧費 館内閲覧 : 1回2銭 館外貸出 : 1回3銭 同年に開館したばかりの一宮高等女学校(現・愛知県立一宮高校)仮校舎を間借りし、「書棚二つに充つる程度」の貧弱な施設だった上に、利用者は高等女学校の職員(教員)に限定され、開館時間は高等女学校のカレンダーを強く反映していた。 一宮町立図書館と同じ1915年には名古屋市に複数の簡易図書館が開館しており、愛知県下では武豊町立図書館(知多郡武豊町)と刈谷町立刈谷図書館(碧海郡刈谷町)などが開館している。尾張地方では中島郡の祖父江町や明治村などに小規模な記念図書館が設置された。なお、御大典記念事業の一環としては一宮町内の全4小学校に児童文庫が設置されており、今日の学校図書館の源流となっている。 1916年(大正5年)から1924年(大正13年)までは年間1,100円前後、1925年(大正14年)から1930年(昭和5年)までは年間500円前後の予算が計上され、年によって30円から510円程度が図書購入費に充てられた。1919年(大正8年)には富本時次郎ら編著の『帝国地名大辞典』の寄贈を受けた。1921年(大正10年)9月1日には一宮町が市制施行して一宮市となり、図書館は市立一宮図書館に改称した。
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