激しい対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/26 06:21 UTC 版)
ブラジルにおける「土地紛争」の長い歴史の中で、MSTの出現と1990年代ブラジルの土地改革運動の統合は、MST主導の「最初の占拠の波(1995-1999)」と呼ばれるものにつながった。また運動は政府当局、土地所有者、MST間での死亡、重傷、財産損害などさまざまな流血をともなう暴力闘争と相反する主張をもたらした。 「エルドラド・ド・カラージャスの大虐殺」と呼ばれる悪名高い1996年の事件では19人のMSTメンバーが銃撃され、69人が警察によって負傷し、パラ―州の国道を塞いだ。 1997年だけで警察や土地所有者の警備員との対立によって国際的に認められた死者の数は20数名人にものぼった。 2002年、MSTはミナスジェライス州で当時の大統領フェルナンド・エンリケ・カルドーゾの家族経営の農場を占拠した。これに対して左派労働者党の指導者ルーラや他の議員たちは公の場で非難した。農場は収穫機やトラクター、家具の破壊など占拠による損害を受けた。MSTのメンバーはまた農場のアルコール飲料のすべての在庫を飲んだ。後に 16名のMST指導者が盗難、破壊行為、不法侵入、逮捕への抵抗、監禁の容疑で告発された。 2005年、ペルナンブコのMST農家近くの貨物トラック盗難の内偵捜査中の警察官2人が何者かによって攻撃された。 MST関与の疑惑の中で、1人が死亡し、もう1人が拷問された。 2000年代初め、MSTは「土地の社会的機能」と相反すると考えられる大企業所有の施設を占有し始めた。 2005年3月8日、MSTはバラ・ド・リベイロにある製紙会社アラクルーズ・セルロースが所有する保育園と研究センターに侵入した。 メンバーが地面から植物を引き抜いているところを地元の警備員によって捕らえた。MSTの重要メンバーのひとりジョアン・ペドロ・ステディレは、MSTは土地所有者だけでなく農業にも反対すべきであり、「超国家資本主義による農業の組織化プロジェクト」は社会的に後方かつ環境的に有害なモデルだとした。 匿名のMST活動家の言葉によれば「私たちの闘いは土地を勝ち取るだけでなく、新しい生活様式を築いている」とする。この動きは2000年の全国大会以来、主にブラジルか外国かを問わず、多国籍企業の脅威やブラジルの食物主権(Food sovereignty)と関係していた。特に知的財産の領域では、2000年7月湾岸都市レシフェでのアルゼンチンからのGMトウモロコシを積んだ船舶への攻撃につながった。 実際、2000年以降、運動の行動主義の多くは多国籍企業への象徴的な行動として「政治介入の象徴としてのブラジルで操業している大規模独占企業」に対抗するかたちを取った。 1990年代後半から2000年代にかけて、カルドーゾ政権のスポークスマンは「ブラジルには土地改革の必要性がない」と宣言したため、戦略変更は政府の姿勢の変化に対応していた。小規模農家は競争力がなく、農村地域の個人所得を増加させる可能性は低い。 したがって、それは熟練した賃金労働者の立場を重視した政策への愚かな代替案であり、一般的な雇用水準の拡大は最終的には土地改革の問題を背景に「後退」させることとなった。MSTの行動は古風な農地への回帰を目指したカルドーゾによって非難され、それゆえ「近代性」と競合していた。 カルドーゾは農業改革へのリップサービスはしたもののその運動を「民主主義への脅威」と述べた。彼は1998年のMSTによる助成金要求をパラナ州の銀行強盗と比較した。カルドーゾは辞任後に書かれた追記のなかで、「私が大統領でなかったら、おそらく彼らと一緒に行進するだろう」とも述べている。だが一方で農園を引き継ぐ「強盗」のイメージは 自国の農場は国内外の投資を追い払うだろう」とも語っている。 カルドーゾ自身はテロリストとしてMSTをブランド化したことはなかったが、ブラジル政府への脅迫を行動に移す手段として、MSTによる北部アルゼンチンからの侵攻についての仮説を立てていた。1997年7月、カルドーゾの軍事大臣(Chefe da Casa Militarー軍、警察、市民警察などの責任者)は、当時の警察官のストライキへのMST活動家の参加について、「不安定要因」だとして懸念を表明した。 具体的な土地改革対策についてカルドーゾの姿勢は分かれていた。和解のための土地の取得を加速し、未使用地への税金を増やすための措置を取った。それによって占拠された土地の公的検査も禁止され、将来の収用が妨げられた。カルドーゾの主な土地改革プロジェクトは、世界銀行から9,000万米ドルの融資を受けて、以前に農業経験を持ち、年間最大収入が1万5,000米ドルの個人に向けられたもので、土地所有者から土地を購入するために他の農村生産者と協力することができれば最大4万ドルの融資を受けることが出来た。これはMSTの伝統的な支持層である農村部の貧困層とは対照的に、実質的に小規模農家を対象とした土地改革プログラムだった。カルドーゾのプロジェクト「Cédulada Terra」は、土地のない人々にも土地を購入する機会を与えていたが、土地所有者から土地を直接購入するという交渉プロセスの後にのみ行われた。 米国の学者の言葉によれば、実際の移住の努力にもかかわらずカルドーゾ政権によって回避された問題はこれまでの農業開発の統治モード、すなわち集中型で機械型、大規模農業型の商品生産、それによって生じる不公正であった。カルドーゾ自身の言葉を借りれば、彼がMSTに関して腹を立てることが出来なかったのは「土地改革のための闘争」ではなく、「資本主義体制それ自体」に対する見解故であった。それでもカルドーゾ政権は純粋な交渉用語による圧力や調教など様々な「代替案」を立てようとした。サンパウロ州のMAST(Movimento dos Agricultores Sem Terra)にそうしたように。 これに対して、MSTの指導者たちは「その時」を強調し、その実践的な活動は貧困者の生産性を得るという見通しを立てた。カルドーゾ大統領が1996年のインタビューの中で認めていたように従来の労働市場における継続的な雇用は厳しいものだった。 「私は、私の政府が排除してようとしていると言っているわけではない。それはできない...私にはそこから排除される人間がどれくらいいるかわからない...」。 ジョアン・ペドロ・ステディレは同じ時期(2002年)に、政治運動を企画する際には「ブラジルには多くの浮浪者がいる」ことを心に留めなければならないと認めた。 彼の見解では、多数のブラジル農村の労働者が都市のプロレタリアートの外側に「吸収される」ようになった運動の性質に反対するべきではない。 そのような見解は学者たちも共有している。労働者たちは背後に「農民」の性格を持っている。MSTは、階級政治に関する限りでは半端なプロレタリア運動であり、正式な賃金の雇用がない場合、生計を立てようとする人々を集めているものの社会的分業の全体的活動の範囲から外れている。 ある意味では、カルドーゾ政権の新自由主義政策の結果、労働運動が衰退し、残された空白がMSTの活動によっていくらか満たされた。 それゆえ、この運動は特に住宅問題に関連して都市ベースの闘争との提携を打ち出したのである。 ジョアン・ペドロ・ステディレの当時の言葉によれば、「土地改革のための具体的な闘争は農村で展開されるだろうが、最終的な決定は「構造変化の政治権力」が存在する都市でのみされるだろう」。
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