市制施行
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海軍航空隊の誘致に成功した佐伯町は、軍都として相応しい規模を要求されることになった。昭和11年(1936年)には大分県が佐伯・鶴岡・上堅田・八幡の1町3村の合併を勧奨し、これを受けて翌昭和12年(1937年)4月1日に佐伯・鶴岡・上堅田の1町2村が合併し、新制の佐伯町(さいきちょう)が発足する。 昭和15年(1940年)に海軍の佐伯防備隊(さえきぼうびたい)が設置されると、村民の反対により先の合併に不参加であった八幡村に加え、佐伯湾に面する町村のさらなる合併が求められるようになり、昭和16年(1941年)1月21日には佐伯・八幡・西上浦・大入島の1町3村の首長・助役が協議し、国策に従って合併に協力する旨を確認した。こうして同月23日の佐伯防備隊司令井原美岐雄からの合併要請、4月12日の内務大臣平沼騏一郎からの合併諮問(内務省分地第八号)を受け、天長節の4月29日に、大分県内5番目の市となる佐伯市(さいきし)が誕生。初代市長には元豊予要塞司令官の郷田兼安(陸軍中将)を招聘した。
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市制施行(門司市の成立)
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1898年(明治31年)には、門司町の人口は2万5280人にまで増加した。10月3日、市制施行建議案論議のための臨時町会が開かれ、満場一致で、内務大臣に市制施行申請を提出することを議決した。申請書では、その理由として、急激な都市化への対応が必要であること、郡費負担が重く、これを都市形成に振り向ける必要があることを挙げている。その結果、同年12月28日、内務省告示第135号により、翌1899年(明治32年)4月1日より企救郡門司町を市とすることとされた。曽我部道夫福岡県知事は、明治32年2月、門司を市制地の資格ありと認定して上申した理由について、「外国交通の要路に当れる門司港は国を代表すべき地位にあるものとして斯く急に市制を施行する事とな」した、内務大臣もこの点に着目して告示を発したと説明している。4月1日、市制が施行されると、門司町長後藤章臣が福岡県知事から門司市事務取扱を命じられ、当分の間、門司町役場跡を市役所に充てることとされた。4月22日には、門司市制実施祝賀会が行われた。 5月31日に門司市会議員の二級選挙(二級議員15人を選出する選挙)、6月1日に一級選挙(市の直接納税額の79%を納める九州鉄道会社を選挙人として一級議員15人を選出する選挙)が行われたが、門司協会、門司同志会、田の浦協会、栄倶楽部といった政治団体が激しく争い、憲兵や巡査も取締りに乗り出した末、二級議員15人中14人を門司同志会が占めた。次いで7月3日の市会で市長候補者を選出することとなった。当初は九州鉄道会社社長らに推され門司同志会の支持も得ていた松田和十郎に大勢が決していると思われたが、新たに組織された門司倶楽部が広沢哲郎を担ぎ、広沢派の示威運動に松田派が憤慨して市会を欠席するという異常事態の中、広沢が第1回選挙で市長候補者に選出された。広沢の市長就任は8月10日に内務大臣の裁可を得、8月18日に就任となった。その後、助役、市参事会、各区区長が置かれるなど、市の機関が一応成立したが、市長選挙のしこりから、区長・区長代理の多数が辞表を提出したり、市会に市長・助役・市参事会不信任建議案が提出されたりして、波乱のスタートとなった。
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市制施行
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戦後、様々な行政事務の見直しが進められるにあたり、基礎自治体の適正な規模も見直される動きが全国的に起こった。遠賀郡部では、まず福岡県主導により1950年(昭和25年)に中間町・水巻町・芦屋町・香月町・遠賀村・岡垣村の4町2村による人口12万超の「遠賀市」構想が計画され、関係自治体での調査研究が行われたが、1951年(昭和26年)の統一地方選挙で多くの町村長・議会議員が改選を迎えたため、この構想は自然消滅となった。次いで1952年(昭和27年)には、前回の4町2村に加えて八幡市・若松市・戸畑市の3市も含めた50万人超の「大遠賀市」構想が再燃し、世論調査も行われたが、今回も合併には至らず立ち消えとなった。なお、1955年(昭和30年)に香月町は八幡市に編入されている。更に1957年(昭和32年)、遠賀川の水利権と住宅適地を求めていた八幡市は、議員団を中間町に派遣して視察を行い、遠賀郡を含めた合併により大八幡市の建設を呼びかけた。しかし大きな市の辺地となることを恐れた郡部各町村の反応は悪く、それぞれ単独での市制・町制施行に向けた動きへと変わっていった。 地方自治法上の市となるべき人口要件は5万人以上であるが、1958年(昭和33年)4月の法律改正による特例措置により、同年9月30日までに申請のあったものについては人口3万人以上をもって市となることを認めるとされた。そこで急遽市議会内において市制調査特別委員会を設置してその可否を研究した結果、「市制施行すべき」との答申が行われ、9月末の期限直前に福岡県知事宛ての市制申請書が提出された。市制申請書は県を通じて総理府に提出され、11月1日をもって県下20番目の市となることを許可された。
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市制施行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 03:54 UTC 版)
小委員会により絞り込まれた候補候補ふりがな応募数天の川 あまのがわ 21 伊吹 いぶき 67 坂田 さかた 113 米原 まいはら 333 米原 まいばら 485 坂田郡の山東町・伊吹町・米原町は合併することとなった。合併に伴う事項の協議を行う合併協議会が設置され 、協議会では新市の名称についても提案された。2003年10月16日に行われた第一回の協議会では、新市の名称について候補を公募し、協議会の小委員会で5候補程度に絞り込むこととなった。2003年12月15日から2004年1月30日の間で行われた名称の公募の結果、無効となったものを除き1542件の応募があり、特に応募数が多かった候補は「米原(まいばら)」「米原(まいはら)」「坂田」「伊吹山」などである。これらの応募を受けて行われた小委員会では、選考においては「歴史、文化にちなんだ名称」「全国的にアピールできる名称」「地域の特徴を表す名称」「住民の理想、願いにちなんだ名称」の点を参考に応募された全ての作品が選考された。一人3候補の投票形式で行われた一次選考で選定された16候補から、小委員会での協議(二次選考)により「天の川」「伊吹」「坂田」「米原(まいはら)」「米原(まいばら)」の5点が選定された。 そして、2004年4月15日に行われた第七回の協議会で新しい市の名称の協議が行われた。決定方法は協議であり、協議による決定が困難な場合は協議会での投票により決定されることとなった。協議ははじめ、「米原(まいばら)」を推薦する意見が多数挙がった。理由は、公募での応募数が第一位であったこと、東海道新幹線の停車駅である米原駅(まいばらえき)が知れ渡っていることなどである。一方、公募での応募数を理由に「米原」とすることには疑問の声も上がった。公募での投票は地域全体で行われているものであり、米原町民の応募数、山東町民の応募数といったエリア別での応募数についてのバランスが考えられていないというものである。次に推薦が多かったのが「伊吹」である。伊吹山は日本百名山の一つであり、自然・歴史的に見ても知名度が高くインパクトが強いといった意見が出た。「坂田」を推薦するのは、三町の平等合併でいずれの町の名前からもとらない新しい名称にするのがよいという理由からである。なお「天の川」と「米原(まいはら)」については推薦する者はいなかった。 協議会の参加者から意見が述べられた後、新しい市の名称は最多数の意見である「米原(まいばら)」とすることについてを他の候補を推薦する者から理解を得た。そうして、新しい市の名称は「米原市(まいばらし)」で決定した。この選択は、歴史のある地名から市名をつけた甲賀市(こうかし)とは反対の選択である。 これにより、米原市と米原駅は「まいばら」と濁る、高速道路の施設と大字は「まいはら」と濁らない、という二つの読み方が統一されずに存在する状況ができた。
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