主な地震の一覧
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「チリ沖地震」も参照 19世紀以前はマグニチュード推定8.0以上、または死者推定100人以上の地震をes:Anexo:Terremotos_en_Chileより抽出。表面波マグニチュード(Ms)はen:Centro_Sismológico_Nacionalより、モーメントマグニチュード (Mw)は米国地質調査所(USGS)より。 19世紀以前のチリおよび周辺の地震MsMw日付(現地時間)地名または地震名深度MMI死者備考8.3 1570 02-08 コンセプシオン_(チリ)英:1570_Concepción 2,000 8.5 1575 12-16 バルディビア地震(1575年) 200 8.5 1604 11-24 アリカ_(チリ)西:Arica_de_1604 120 8.8 1615 9-16 アリカ西:Arica_de_1615 0 8.5 1647 5-13 サンティアゴ_(チリ)英:1647_Santiago 600 8.0 1657 3-15 コンセプシオン 34 7.3 1681 3-10 アリカ西:Arica_de_1681 133 8.7 1730 7-8 バルパライソ英:1730_Valparaíso 3,000 7.7 1737 12-24 バルディビア地震 212 8.5 1751 5-25 コンセプシオン英:1751_Concepción 65 8.3 1819 4-11 コピアポ西:Copiapó_de_1819 133 8.5 1822 11-19 コピアポ西:Copiapó_de_1822 76 8.5 1835 2-20 コンセプシオン西:Concepción_de_1835 30-120 8.0 1837 11-7 バルディビア地震西:Valdivia_de_1837 12 7.3 1850 12-6 サンティアゴ西:Santiago_de_1850 105 8.5 9.0 1868 8-13 アリカ地震(1868年) 500 8.9 1873 7-7 ペトルカ県西:La_Ligua_y_Petorca_de_1873 106 8.5 8.3 1877 5-9 イキケ地震(1877年) 34 MsMw日付地名・地震名深度MMI死者備考20世紀以降はM7.5以上、または死者100人以上の地震をUSGSの地震カタログから抽出。モーメントマグニチュード (Mw)は米国地質調査所(USGS)の数値である。 20世紀以降のチリおよび周辺の地震MsMw日時 (UTC)地名または地震名深度MMI死者備考 8.2 1906 08-17 00:40 バルパライソ英:1906_Valparaíso 35.0 km 3,000 南緯32度24分00秒 西経71度24分00秒 / 南緯32.400度 西経71.400度 / -32.400; -71.400 7.7 1913 08-06 22:14 ペルー・アレキパ県沖 25.0 km 南緯16度28分08秒 西経73度49分23秒 / 南緯16.469度 西経73.823度 / -16.469; -73.823 7.6 1914 01-30 03:35 ビオビオ州沖 15.0 km 南緯36度17分31秒 西経75度03分25秒 / 南緯36.292度 西経75.057度 / -36.292; -75.057 7.8 1918 12-04 11:47 アタカマ州西:Copiapó_de_1918 40.0 km 6 南緯28度17分35秒 西経69度51分07秒 / 南緯28.293度 西経69.852度 / -28.293; -69.852 8.5 1922 11-11 04:32 アタカマ州英:1922_Vallenar 70.0 km 800 南緯28度17分35秒 西経69度51分07秒 / 南緯28.293度 西経69.852度 / -28.293; -69.852 7.7 1928 12-01 04:06 マウレ州英:1928_Talca 35.0 km 300 南緯35度09分18秒 西経72度06分18秒 / 南緯35.155度 西経72.105度 / -35.155; -72.105 7.5 1936 07-13 11:12 アントファガスタ 35.0 km 南緯24度43分12秒 西経70度06分36秒 / 南緯24.720度 西経70.110度 / -24.720; -70.110 7.8 1939 01-25 03:32 ビオビオ州英:1939_Chillán 35.0 km 5,648 南緯36度18分18秒 西経72度18分54秒 / 南緯36.305度 西経72.315度 / -36.305; -72.315 8.1 1943 04-06 16:07 コキンボ州西:Ovalle_de_1943 35.0 km 12 南緯31度25分55秒 西経71度28分30秒 / 南緯31.432度 西経71.475度 / -31.432; -71.475 7.7 1949 12-17 06:53 ティエラ・デル・フエゴ英:1949_Tierra_del_Fuego 10.0 km 6 南緯53度55分23秒 西経69度35分46秒 / 南緯53.923度 西経69.596度 / -53.923; -69.596 8.2 1950 12-09 21:38 アントファガスタ 113.9 km 南緯23度58分37秒 西経67度54分43秒 / 南緯23.977度 西経67.912度 / -23.977; -67.912 7.5 1953 05-06 17:16 ビオビオ州西:San_Carlos_de_1953 66.0 km 12 南緯20度56分53秒 西経66度42分47秒 / 南緯20.948度 西経66.713度 / -20.948; -66.713 7.7 1957 11-29 22:19 ポトシ、ボリビア 232.5 km 南緯20度56分53秒 西経66度42分47秒 / 南緯20.948度 西経66.713度 / -20.948; -66.713 8.1 1960 05-21 10:02 ビオビオ州英:1960_Concepción 25.0 km VIII 125 南緯37度49分26秒 西経73度21分11秒 / 南緯37.824度 西経73.353度 / -37.824; -73.353 7.8 1960 05-22 18:56 ラ・アラウカニア州英:1960_Concepción 25.0 km X 南緯38度03分40秒 西経73度02分20秒 / 南緯38.061度 西経73.039度 / -38.061; -73.039 9.5 1960 05-22 19:11 ビオビオ州バルディビア地震 25.0 km IX 2,000 南緯38度08分35秒 西経73度24分25秒 / 南緯38.143度 西経73.407度 / -38.143; -73.407 7.8 1960 06-06 05:55 アイセン州 15.0 km VII 南緯45度47分06秒 西経72度53分20秒 / 南緯45.785度 西経72.889度 / -45.785; -72.889 7.4 1965 03-28 16:33 バルパライソ西:La_Ligua_de_1965 70.0 km VIII 280 南緯32度31分19秒 西経71度13分59秒 / 南緯32.522度 西経71.233度 / -32.522; -71.233 7.7 1966 12-28 08:18 アントファガスタ西:Taltal_de_1966 25.0 km IX 6 南緯25度29分38秒 西経70度33分00秒 / 南緯25.494度 西経70.550度 / -25.494; -70.550 7.8 1971 07-09 03:03 バルパライソ西:Illapel_de_1971 60.3 km VI 85 南緯32度36分04秒 西経71度04分34秒 / 南緯32.601度 西経71.076度 / -32.601; -71.076 7.7 1975 05-10 14:27 ビオビオ州、 6.0 km IX 南緯38度10分59秒 西経73度13分55秒 / 南緯38.183度 西経73.232度 / -38.183; -73.232 8.0 1985 03-03 22:47 バルパライソ沖英:1985_Algarrobo 33.0 km VIII 178 南緯33度08分06秒 西経71度52分16秒 / 南緯33.135度 西経71.871度 / -33.135; -71.871 7.6 1987 03-05 09:17 アントファガスタ 62.3 km VII 南緯24度23分17秒 西経70度09分40秒 / 南緯24.388度 西経70.161度 / -24.388; -70.161 8.0 1995 07-30 05:11 アントファガスタ1995年アントファガスタ地震 45.6 km VIII 3 南緯23度20分24秒 西経70度17分38秒 / 南緯23.340度 西経70.294度 / -23.340; -70.294 8.4 2001 06-23 20:33 南ペルー英:2001_southern_Peru 33.0 km IX 南緯16度15分54秒 西経73度38分28秒 / 南緯16.265度 西経73.641度 / -16.265; -73.641 7.6 2001 07-07 09:38 南ペルー 33.0 km VII 南緯17度32分35秒 西経72度04分37秒 / 南緯17.543度 西経72.077度 / -17.543; -72.077 7.8 2005 06-13 22:44 タラパカ州英:2005_Tarapacá 115.6 km VII VIII 11 南緯19度59分13秒 西経69度11分49秒 / 南緯19.987度 西経69.197度 / -19.987; -69.197 7.7 2007 11-14 15:40 アントファガスタ英:2007_Tocopilla 40.0 km VII VIII 2 南緯22度14分49秒 西経69度53分24秒 / 南緯22.247度 西経69.890度 / -22.247; -69.890 8.8 2010 02-27 06:34 ビオビオ州沖チリ地震_(2010年) 22.9 km VIII IX 521 南緯36度07分19秒 西経72度53分53秒 / 南緯36.122度 西経72.898度 / -36.122; -72.898 8.2 2014 04-01 23:46 イキケ北西94kmイキケ地震_(2014年) 25.0 km VIII IX 7 南緯19度36分36秒 西経70度46分08秒 / 南緯19.610度 西経70.769度 / -19.610; -70.769 7.7 2014 04-03 02:43 イキケ南西53km 22.4 km VII IX 南緯20度34分16秒 西経70度29分35秒 / 南緯20.571度 西経70.493度 / -20.571; -70.493 8.3 2015 09-16 22:54 イヤペル西方48kmイヤペル地震 22.4 km VIII IX 15 南緯31度34分23秒 西経71度40分26秒 / 南緯31.573度 西経71.674度 / -31.573; -71.674 7.6 2016 12-25 14:22 チロエ島の南西41km西:Chiloé_de_2016 38.0 km VIII IX 南緯43度24分22秒 西経73度56分28秒 / 南緯43.406度 西経73.941度 / -43.406; -73.941 MsMw日付地名・地震名深度MMI死者備考英語版およびスペイン語版に詳細な地震カタログが記載されている。
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主な地震の一覧
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南海地震は過去1,000年余り過去の地震活動の記録が残されている世界的にも例をみない地震である。 南海地震が単独で発生した確かな例は昭和地震および安政地震とされるが、震源域が全く等しいわけではない。康和地震も単独発生の可能性があるが南海地震としての典拠史料である土佐の記録の日付が誤記であるとの仮定の下の推定であり、その他南海地震と考えられていた白鳳地震、仁和地震、正平地震は連動型地震である可能性が唱えられている。明応地震については単独で起きたあるいは連動型であった等諸説ある。 津波地震とされる特異な慶長地震は、地震調査研究推進本部による2001年時点の長期評価では、南海トラフの地震の系列に属すものと評価しているが、南海トラフのプレート境界地震で無く遠地津波とする見解や、伊豆・小笠原海溝付近を震源とする見解も出されている。 ※西暦表記の日付は慶長地震以降はグレゴリオ暦、明応地震以前はユリウス暦(カッコ内はグレゴリオ暦)。マグニチュードは宇佐美(2003)による推定値、昭和地震は気象庁による値であるが、巨大地震ゆえ何れもモーメントマグニチュードとは乖離がある。 684年11月26日(11月29日)(天武13年10月14日) 白鳳地震(天武地震) - M 8+1⁄4、死者多数。亥時(午後9時 - 11時頃)になって大地震があった。土佐で津波により大きな被害。伊予湯泉(道後温泉)は埋没して出なくなり、田園(約 12 km2)が海面下へ沈下。これは『日本書紀』の南海地震とされる最古の記録である。地質調査によれば、東海道沖の震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見される。 887年8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日) 仁和地震 - M 8.0 - 8.5、五畿七道諸国、京都・摂津を中心に死者多数。津波あり。地質調査によれば、東海道沖の地震震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見される。 1361年7月26日(8月3日)(南朝:正平16年6月24日、北朝:康安元年6月24日) 正平地震(康安地震) - M 8+1⁄4 - 8.5、死者多数。摂津・阿波・土佐で津波により大きな被害。摂津四天王寺の金堂が転倒し圧死者が出た。津波で摂津・阿波・土佐に被害、特に阿波の雪(由岐)湊で流失1,700戸、流死60余。東海道沖を震源域に含むかは不明だが、同時期に東南海地震の震源域で地震が発生したという説もある。東大地震研が調査した法隆寺の記録によると、淡路島の障壁にも関わらず、大阪市天王寺区でも海岸から4km以上に渡り津波が押し寄せたという。さらには伊勢神宮の古文書でも当時の記録が残されていることがわかっている。 1707年10月28日(宝永4年10月4日) 宝永地震(南海トラフ全域が震源域とされる) - M 8.6、五畿七道諸国、東海地方から九州東部の広い範囲が激震域となる。この地震の49日後に富士山が噴火し宝永山(火口)ができる(宝永大噴火)。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余。房総半島から九州まで大津波が襲来し、大坂、土佐の被害が甚大であり、青龍寺や久礼では標高25mの地点まで遡上した。道後温泉の湧出が145日間止まる。 1854年12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震 - M 8.4、死者千 - 3千人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高 11 m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が106日間止まる。時間差でこの32時間前に安政東海地震(東海道沖の地震)が発生している。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録された(『真覚寺日記』)。 1946年(昭和21年)12月21日 昭和南海地震 - M 8.0、被害は中部以西の日本各地にわたり、死者1,330名、家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸。津波が静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で 4 - 6 m に達した。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸で 1.27 m、潮岬で 0.7 m 上昇、須崎・甲浦で約 1 m 沈下。高知付近で田園15km2が海面下に没した。道後温泉の湧出が38日間止まる。山口県美祢市(旧美祢郡別府村 (山口県)、共和村)では秋吉台麓の厚東川沿いの低地に「口径 1 - 11 m、深さ 1 - 5 m の堆積地ドリーネが150余発生した」。この地震の2年前、1944年(昭和19年)12月7日には昭和東南海地震が発生している。 以下の地震は南海道沖で発生した巨大地震である可能性が高いが、その発生時期について議論されている。 1099年2月16日(2月22日)(承徳3年1月24日) 康和地震 - M 8.0 - 8.3、興福寺西金堂・塔小破、大門と回廊が倒れた。摂津天王寺回廊倒る。死者数、津波記録は未確認。土佐において地殻変動で田千余町(約1,000ha)みな海に沈むとする紙背文書の記録が興福寺や天王寺で被害の出た地震と同一のものと考えられた。しかし、地震の発生日時記録などに問題があり康和地震は南海地震ではなく、この地震の2年2ヶ月前に発生した永長地震(1096年12月11日(12月17日)嘉保3年11月24日東海道沖の巨大地震と推定される)こそが、南海道沖の地震をも含む宝永型であった可能性が考えられるとされる。 以下の地震は南海トラフ巨大地震の一つ、あるいは関連の深い地震とする学説が提唱されていたが、異論が出されている。 734年5月14日(5月18日)(天平6年4月7日) - 畿内七道地震をこの種の地震に位置付ける説もあるが、津波の記録が確認されず、生駒断層帯の活動による内陸地震との説が有力。 794年8月9日(8月13日)(延暦13年7月10日 - 巨大地震と津波が発生と日本紀略の記述「宮中並びに京畿官舎及び人家震う。或いは震死する者あり」から推定される。しかし「震死」は一般的に雷に打たれて死ぬことを意味し、地震ではない可能性が高いとされた。 10世紀後半頃 - 奈良県香芝町の箸尾遺跡に砂脈跡があるが(発掘調査)、内陸地震の可能性も否定できず現時点では南海地震と断定するには決め手に欠ける。徳島県海陽町千光寺の『薬師如来出現図』には、永延元年5月(987年)に漁船が波に呑まれたとき薬師如来が現れて助けたという縁起伝承が描かれ、南海地震津波と考えられたことも有ったが、江戸時代後期に書かれたものであり、時期が987年と特定されるわけでもなければ津波であると断言も出来ず、これを南海地震津波とするには不確実さが何重にも存在するとされる。 1185年8月6日(8月13日)(元暦2年7月9日) 津波と思われる記録から文治地震を南海トラフ沿いの巨大地震とする説もあるが、琵琶湖西岸断層帯南部の活動による内陸地殻内地震との説が有力であり、地震記録の様相は内陸地震と考える方が妥当とされる。 13世紀前半頃 - 大阪府堺市の石津太神社および和歌山県箕島の藤並遺跡に南海地震によると思われる液状化現象の遺跡あり(発掘調査)。1233年3月17日(3月24日)(貞永2年2月5日)に諸国?で大地震の記録が存在するが、同日に京都における有感地震記録が確認されず、この文書の伝わる蓮専寺の開基以前の記事であって信頼性が低く疑問視されている。古記録からこの時期の南海トラフ巨大地震の発生時期を探る試みもある。 1408年1月12日(1月21日)(応永14年12月14日) - 応永地震。京都・紀伊・伊勢で地震。鎌倉に津波があり、熊野本宮の温泉の湧出が停止したというが、宝永地震(丁亥年)との混同の可能性があり京都以外の史料は疑問視されている。 地質調査によれば、明応地震《1498年9月11日(9月20日)(明応7年8月25日) (東海・東南海地震) - M 8.2 - 8.4、死者3万 - 4万人以上と推定。伊勢・駿河などで津波により大きな被害、浜名湖が海と繋がり、伊勢大湊で家屋1,000戸、溺死者5,000人。伊勢志摩で溺死者10,000人、静岡県志太郡の『林叟院記録』で溺死者26,000人など。》前後に南海地震も発生。1498年6月30日(7月9日)(明応7年6月11日)に、中国・揚子江の水面を揺るがしたとされる、日向灘地震が南海地震に相当するとの説もある。明応地震の73日前に発生し、南海地震が東海地震に先行した例であるとされる。しかし、これには史料の無理な解釈が含まれ、安政地震後に起きた豊予海峡地震も上海付近を強く揺らしており、九州付近で起きたスラブ内地震の可能性もあるという。 1520年3月25日(4月4日)(永正17年3月7日) - 永正地震。京都・紀伊で地震。熊野、那智で寺社が破壊され、津波があったが、フィリピン海プレートのスラブ内地震の可能性があるとされる。 1605年2月3日(慶長9年12月16日) 慶長地震(東海・東南海・南海地震?) - M 7.9 - 8、関東から九州までの太平洋岸に津波、房総半島・阿波・土佐などで大きな被害。八丈島でも津波による死者57人。死者1万 - 2万人と推定されるが、津波以外の被害記録はほとんど見出されていない。南海トラフ沿いの津波地震との仮説が出されていた。震源域には諸説あり、南海トラフの地震ではないとする見解も出されている。
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