1939
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 18:08 UTC 版)
「タスカルーサ (重巡洋艦)」の記事における「1939」の解説
9月1日、戦争が勃発した時、タスカルーサはノーフォークに停泊中だった。9月5日、ルーズベルト大統領は中立パトロールの実施を宣言し、タスカルーサはその翌日に哨戒に出動した。11日に一旦戻り、3日後にグアンタナモ湾、サンフアンに向かい、9月の残りの期間と10月の間、同地で砲撃訓練を行った。10月27日にカリブ海を去り、ハンプトン・ローズを経て11月5日にノーフォークに帰投した。その後、11月13日から15日にかけてバージニア岬沖で砲撃訓練を行った後、ハンプトン・ローズに12月中旬まで滞在した。 戦争勃発時、アメリカの勢力圏内には約85隻ほどのドイツの商船がいた。その中でも最大の客船コロンブス (SS Columbus) は西インド諸島を航行中だったが、戦争が始まるとメキシコのベラクルスに入港し、脱出のタイミングを図っていた。しかし、12月14日にベラクルスに入港してきた駆逐艦ベンハム (USS Benham, DD-397) によって追い出され、以後7日間、コロンブスはアメリカの艦艇に追いかけられることとなった。コロンブスの船長は、コロンブスをデラウェア州沖480キロの海上まで進めた後、東に向けて脱走する計画を立てた。 タスカルーサはコロンブス追跡の命を受け、コロンブスがベラクルスを追い出された2日後の12月16日、駆逐艦コール (USS Cole, DD-155) およびエリス (USS Ellis, DD-154) を伴いノーフォークを出港した。12月19日14時50分、イギリス駆逐艦ハイペリオン (HMS Hyperion, H97) と合流し、間もなくコロンブスを発見。ハイペリオンはタスカルーサとやり取りを交わした後、コロンブスの前方に砲弾を2発撃ち込んで停船させた。 米英艦艇に包囲されたコロンブスの船長は、2人の乗組員を残して9人の女性搭乗員を含んだ577人のドイツ人を救命ボートに移した後、船を自沈させた。ハイペリオンは脱出した乗員乗客を収容するスペースがなかったので、その役割はタスカルーサに割り当てられた。コロンブスの船長は救命ボートを集めた上で、捕虜として扱われるハイペリオンではなく、一般の遭難船員として扱われるタスカルーサに向かうことを決め、救助された。一般の乗員乗客は水上機格納庫に収容され、女性搭乗員は医務室に収容された タスカルーサはコロンブスの乗員乗客を降ろすためニューヨークに向かい、12月20日にエリス島に上陸させた。乗員乗客の大部分は太平洋経由でドイツに戻っていった。タスカルーサは12月21日にニューヨークを出港し、翌日にノーフォークに戻った。
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