『日本書紀』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 23:07 UTC 版)
根の堅洲國は日本書紀では根の国という。書紀においても、古事記と同様、黄泉国と根の国は別々の箇所に登場し、両者の関係は不明瞭である。 しかし古事記がイザナミの葬られた地を出雲とするのに対し、日本書紀は熊野の有馬村の花の窟であるという(このことから黄泉国も熊野にあるとする考えもある)。 『日本書紀』一書第六の注には「或所謂泉津平阪 不復別有處所 但臨死氣絕之際 是之謂歟」(ヨモツヒラサカという特定の土地があるわけではなくて、死の瞬間をいうのであろうか)とある。これは実際には泉津平阪という土地は存在しない、という意味であるが、あくまでも「〜なのであろうか」という疑問文になっており、古伝承ではなく書紀の編集者の注釈である。これも出雲の実在の地とする古事記とは異なっている。
※この「『日本書紀』」の解説は、「黄泉」の解説の一部です。
「『日本書紀』」を含む「黄泉」の記事については、「黄泉」の概要を参照ください。
『日本書紀』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:57 UTC 版)
当初から『日本書紀』という名称だったという説は、『日本紀』説の検証と発展の中から出た。『日本書紀』という書名の用例は非常に古く、奈良時代・平安時代初期の成立時期に近い時代の史料と古写本とに『日本書紀』と記しているものは数多く見られる。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされ天平10年(738年)の成立といわれる。上で触れた折口信夫の見解は『日本書』の一部として「紀」が作られたものの、完成した部分は『日本紀』と名付けられたというものであったが、神田喜一郎は書名は本来『日本書』であり、『日本書』という題名の下に小字で「紀」としるしてこれが『日本書』の「紀」であることを表示したが、伝写を経る間に『日本書紀』となってしまったとする。
※この「『日本書紀』」の解説は、「日本書紀」の解説の一部です。
「『日本書紀』」を含む「日本書紀」の記事については、「日本書紀」の概要を参照ください。
『日本書紀』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:35 UTC 版)
参考として『日本書紀』より換算した西暦を付記するが、文献史学的・考古学的なものではないことに注意。 甲寅年(紀元前667年) この年、日向国にあった磐余彦尊は、 昔我が天神(あまつかみ)、高皇産霊尊・大日孁尊、此の豊葦原瑞穂国を挙げて、我が天祖(あまつみおや)彦火瓊瓊杵尊に授けたまへり。是に火瓊瓊杵尊、天関(あまのいはくら)を闢(ひきひら)き雲路を披(おしわ)け、仙蹕(みさきはらひ)駈(お)ひて戻止(いた)ります。是の時に運(よ)、鴻荒(あらき)に属(あ)ひ、時、草昧(くらき)に鍾(あた)れり。故(かれ)、蒙(くら)くして正(ただしきみち)を養ひて、此の西の偏(ほとり)を治(しら)す。皇祖皇考(みおや)、乃神乃聖(かみひじり)にして、慶(よろこび)を積み暉(ひかり)を重ねて、多(さは)に年所(とし)を歴たり。天祖の降跡(あまくだ)りましてより以逮(このかた)、今に一百七十九万二千四百七十余歳(ももよろづとせあまりななそよろづとせあまりここのよろづとせあまりふたちとせあまりよほとせあまりななそとせあまり)。而るを遼邈(とほくはるか)なる地(くに)、猶未だ王沢(うつくしび)に霑(うるほ)はず。遂に邑(むら)に君有り、村(ふれ)に長(ひとごのかみ)有りて、各自(おのおの)疆(さかひ)を分かちて用(も)て相凌ぎ礫(きしろ)はしむ。抑又(はたまた)塩土老翁に聞きき。曰ひしく、「東(ひむがしのかた)に美(よ)き地(くに)有り、青山四(よも)に周(めぐ)れり。其の中に亦天磐船に乗りて飛び降る者有り」といひき。余(われ)謂(おも)ふに、彼(そ)の地は必ず以て大業(あまつひつぎ)を恢弘(ひらきの)べて天の下に光宅(みちを)るに足りぬべし。蓋(けだ)し六合(くに)の中心(もなか)か。厥(そ)の飛び降るといふ者は、是饒速日と謂(い)ふか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ。 と言って、東征に出た。 10月5日、磐余彦尊は親(みずか)ら諸皇子と舟師(水軍)を帥(ひき)いて東征に出発した。速吸の門に至った時、国神の珍彦(うずひこ)を水先案内とし、椎根津彦という名を与えた。筑紫国菟狭に至り、菟狭国造の祖菟狭津彦・菟狭津媛が造った一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)に招かれもてなされた。この時、磐余彦尊は勅して、媛を侍臣の天種子命(中臣氏の遠祖)とめあわせた。 11月9日、筑紫国崗水門に至った。 12月27日、安芸国に至り埃宮に居る。 乙卯年(紀元前666年) 3月6日、吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。 戊午年(紀元前663年) 2月11日、難波の碕に至り、その地を浪速国と名付ける。 3月10日、河内国草香邑青雲の白肩の津に至る。 4月9日、龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めず、東に軍を向けて胆駒山を経て中洲(うちつくに)へ入ろうとした。この時に長髄彦という者があってその地を支配しており、軍を集めて孔舎衛坂(くさえ の さか)で磐余彦尊たちをさえぎり、戦いになった。戦いに利なく、磐余彦尊の兄五瀬命は流れ矢にあたって負傷した。磐余彦尊は日の神の子孫の自分が日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟り兵を返した。草香津まで退き、盾をたてて雄叫びした。このため草香津を盾津と改称した。のちには蓼津といった。磐余彦尊はそこから船を出した。 5月8日、茅渟の山城水門(やまき の みなと)に至った。ここで五瀬命の矢傷が重くなり、紀伊国の竈山にいたった時に薨じた。 6月23日、名草邑にいたり、名草戸畔という女賊を誅して、熊野の神邑を経て、再び船を出すが暴風雨に遭った。磐余彦尊の兄稲飯命と三毛入野命は陸でも海でも進軍が阻まれることに憤慨し、稲飯命は海に入って鋤持神となり、三毛入野命は常世郷に去ってしまった。磐余彦尊は息子の手研耳命とともに熊野の荒坂津に進み丹敷戸畔を誅したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。この時、現地の住人熊野高倉下は、霊夢を見たと称して韴霊(かつて武甕槌神が所有していた剣)を磐余彦尊に献上した。剣を手にすると軍衆は起き上がり、進軍を再開した。だが、山路険絶にして苦難を極めた。この時、八咫烏があらわれて軍勢を導いた。磐余彦尊は、自らが見た霊夢の通りだと語ったという。磐余彦尊たちは八咫烏に案内されて菟田下県にいたった。 8月2日、菟田県を支配する兄猾と弟猾の二人を呼んだ。兄猾は来なかったが、弟猾は参上し、兄が磐余彦尊を暗殺しようとしていることを告げた。磐余彦尊は道臣命(大伴氏の遠祖)を送ってこれを討たせた。磐余彦尊は軽兵を率いて吉野を巡り、住人達はみな従った。 9月5日、磐余彦尊は菟田の高倉山に登ると八十梟帥や兄磯城の軍が充満しているのが見えた。磐余彦尊はにくんだ。磐余彦尊はこの夜の夢で天神より天平瓫八十枚と厳瓫をつくって天神地祇をまつるように告げられ、それを実行した。椎根津彦を老父に、弟猾を老嫗に変装させ、天の香山の巓の土を取りに行かせた。磐余彦尊はこの埴をもって八十平瓮・天手抉八十枚・厳瓮を造り、丹生の川上にて天神地祇を祭った。 10月1日、磐余彦尊は軍を発して国見丘に八十梟帥を討った。11月7日、八咫烏に遣いさせ兄磯城・弟磯城を呼んだ。弟磯城のみが参上し、兄磯城は兄倉下、弟倉下とともになおも逆らったため、椎根津彦が奇策を用いてこれを破り、兄磯城を斬り殺した。 12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命(物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日命のもっている天神の子のしるしを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。 己未年(紀元前662年) 2月21日、磐余彦尊は従わない新城戸畔、居勢祝、猪祝を討たせた。また高尾張邑に土蜘蛛という身体が小さく手足の長い者がいたので、葛網の罠を作って捕らえて殺した。これに因んで、この邑を葛城と称した。 3月7日以降、畝傍山の東南橿原の地に都をつくらせる。 庚申年(紀元前661年) 8月16日、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。 辛酉年(神武天皇元年、紀元前660年) 1月1日、磐余彦尊は橿原宮に即位し(神武天皇)、正妃を皇后とした。天皇と皇后の間には、神八井耳命と神渟名川耳尊(のちの綏靖天皇)の二皇子が生まれた。なお、神渟名川耳尊の生年は神武天皇29年であるので、神八井耳命の誕生はそれ以前となる。
※この「『日本書紀』」の解説は、「神武東征」の解説の一部です。
「『日本書紀』」を含む「神武東征」の記事については、「神武東征」の概要を参照ください。
『日本書紀』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 22:28 UTC 版)
『日本書紀』の本書では、天地開闢の最初に現れた以下の十一柱七代の神を神世七代としている。 国常立尊(くにのとこたちのみこと) 国狭槌尊(くにのさつちのみこと) 豊斟渟尊(とよくむぬのみこと) 泥土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すいじにのみこと) 大戸之道尊(おおとのぢのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと) 面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)
※この「『日本書紀』」の解説は、「神世七代」の解説の一部です。
「『日本書紀』」を含む「神世七代」の記事については、「神世七代」の概要を参照ください。
『日本書紀』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 03:49 UTC 版)
『日本書紀』では、663年6月に、百済王豊璋は福信の謀反を疑って捕らえ、その掌を穿って革紐で縛った。それから諸臣に対して福信を斬るべきかと問うた。達率(二品官)の徳執得は「これは悪逆人であるから放しおくわけにはいかない」と答えた。福信は執得に唾して罵ったが、王は福信を斬らせ、その首を塩漬けにした。福信の近親者と思われる鬼室集斯は天智4年2月(665年)(即位元年起算よると天智10年正月)に福信の功績によって天智天皇から小錦下の位階を与えられ、百済の民男女四百余名と近江国神前郡に住居を与えられたが、天智8年(669年)男女七百余名とともに近江国蒲生郡に移住させられた。
※この「『日本書紀』」の解説は、「鬼室福信」の解説の一部です。
「『日本書紀』」を含む「鬼室福信」の記事については、「鬼室福信」の概要を参照ください。
- 『日本書紀』のページへのリンク