昭和東南海地震
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昭和東南海地震(しょうわとうなんかいじしん)は、1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分から[4]、紀伊半島東部の熊野灘、三重県尾鷲市沖約20キロメートル(北緯33度8分、東経136度6分)から浜名湖沖まで破壊が進行した(震源としては「熊野灘」)、Mj7.9(Mw8.2)のプレート境界型巨大地震。単に「東南海地震[4][5]」または「1944年東南海地震[6]」と呼ばれることがある。また当初は遠州沖大地震と呼ばれていたが[7]、東海地域の軍需工場が壊滅的な打撃を受けたことを隠匿するため、「東南海地震」に変更したとする説がある[8][9]。
- 1 昭和東南海地震とは
- 2 昭和東南海地震の概要
昭和東南海地震
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「中島飛行機半田製作所」の記事における「昭和東南海地震」の解説
1944年12月7日午後1時36分、志摩半島の南南東約20kmを震源地としてマグニチュード8.0の昭和東南海地震が起きた。半田市は震源地から160km以上離れていたが、震度は6以上だった。各地に地割れが発生し、阿久比川と半田港に囲まれた低湿地帯では液状化現象の発生を示す噴砂・噴泥・噴水があった。干拓地である山方新田・亀洲新田・康衛新田に被害が集中し、中島飛行機山方工場などが倒壊した。半田市内の死亡者は188人だったが、そのうち153人が中島飛行機で働く人々だった。そのうち96人が動員学徒、37人が従業員、17人が徴用工、3人が挺身隊の順。 山方工場では約130人の犠牲者を出した。「見ると、つい今まで無数に立ち並んでいたレンガ壁の工場の建物はことごとく崩れ落ちていて、あの広大な中島飛行機半田製作所山方工場は一望の廃墟と化し、その彼方にいまは江川堤の松並木が黒々と見えていた」という。葭野工場では20数人の犠牲者を出した。機械工場と仕上げ工場が崩れ落ち、次いで隣の木造工場が砂煙をあげて倒壊した。本工場では地盤が沈下し液状化現象も発生したが、鉄骨づくりの建物だったので倒壊は免れた。治具など飛行機生産施設には甚大な被害を被ったが、死者はなく、数十人の負傷者でことなきを得た。 救出活動や遺体の搬送は、当時、中島に派遣されていた400人近い整備兵などの軍隊と、清水組の下請けの朝鮮人労働者があたった。犠牲者が多く、しかも火葬場が壊れたため、遺体は隣接の北谷墓地(現柊町市営墓地)で野焼きにされた。丘の麓に溝を掘り、藁や木材を並べた上に遺体を置いて点火した。しかも警報が出るたびに作業を中断するので、全部終わるのにまる二日間かかった。 ちなみに東南海地震によって名古屋市内でも大きな被害が出たが、死亡者は半田市より少なく、121人だった。
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