ほうりゅう‐じ〔ホフリユウ‐〕【法隆寺】
読み方:ほうりゅうじ
奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗の総本山。南都七大寺の一。もと法相(ほっそう)宗。推古天皇15年(607)に聖徳太子が斑鳩宮のそばに建立したと伝えられ、天智天皇9年(670)焼失したが再建されたとみられている。現存する世界最古の木造建築で、伽藍(がらん)は西院と東院に分かれ、金堂・五重の塔・講堂・南大門・中門・夢殿・回廊などほとんどの建物が国宝。また、釈迦三尊・薬師如来坐像・阿弥陀如来・百済(くだら)観音・救世(ぐぜ)観音立像・玉虫厨子(ずし)などの国宝のほか、絵画遺品や伎楽面・百万塔などの寺宝も多い。金堂の壁画は昭和24年(1949)の火災で焼失したが、のち復元。平成5年(1993)「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産(文化遺産)に登録された。法隆学問寺。斑鳩寺。
ほうりゅうじ 【法隆寺】
法隆寺
法隆寺
法隆寺
法隆寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
現存する日本最古の木造建築は、斑鳩寺ともいわれ聖徳太子建立607年頃の、奈良の法隆寺である。現存する法隆寺西院伽藍(金堂含む)は、一度火災で焼失した後、7世紀末頃に再建されたものであることが定説となっているが、法隆寺金堂の中の扉が、一応現存する最古の扉といえる。しかし、昭和修理の時に火災で初層内部を焼損し、二枚を張り合わせて一枚の扉に復元されている。当初の扉は、高さ3m幅約1m厚さ約10cmの、檜(ひのき)の節なしの一枚板であった。 金堂よりおくれて奈良時代に建立された、金堂裳階の四面の扉は現存している。やはり一枚板で、高さ2.7m幅1m厚さ約8.5cmの大きさで、下部に唄ばい金銅の飾り金具を打ち上部に連子窓を設けている。この連子窓の九本の連子は、一枚板から彫りだしたものであるという。大変な労力を費やした扉である。 法隆寺建立から約150年後に創建された鑑真ゆかりの寺唐招提寺(759年創建)の金堂は、鑑真の没後、8世紀末頃の建築と推定される。唐招提寺金堂の扉は、幅の狭い板を五枚縦に並べて、裏桟に釘どめした板桟戸構造になっている。扉の表面に出た釘頭を隠す為に、饅頭型の木製漆塗りの飾りを付け、扉全体の変形を防止するため金銅八双金具(装飾と補強を兼ねた建築金具の一種)を、取り付けている。 奈良時代の住宅の一部で現存するものは、やはり法隆寺の東院伝法堂である。伝法堂は、元来聖武天皇の橘夫人の邸宅の一部であったものが聖徳太子の斑鳩宮の跡である法隆寺東院に寄進されたものである。仏堂にするため一部改造されているが、当時の寺院建築にみられるような、板敷を除けば唐の強い影響を受けた建築構造となっている。 伝法堂の前身建物は妻入り(屋根の妻側を正面とする)で、平面構造は、桁行(奥行)三間、梁行(幅)四間の壁と扉で閉ざされた主室部分と、桁行二間梁行四間の開放的部分とそれにつづく広い簀子(すのこ)敷から構成されている。空間を間仕切るものとしては壁と扉しかなく、内部間仕切りのない、広間様式の建築構造となっている。伝法堂は、当時の建築としては珍しく、柱に礎石を用いているが、奈良時代の平城京では、ほとんどの建物が古墳時代と同様な掘立柱であった。 これらの建物は梁行二間の母屋(もや:主構造が柱と屋根の屋)だけで作られており、廂(ひさし)がまだ発達していない簡素な様式であった。
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