宮崎駿監督「この世は生きるに値する」 引退会見の全文
「僕の長編アニメーションの時代は終わった」。引退を表明していた宮崎駿監督が6日、東京都内のホテルで記者会見し、決断に至った胸中、作品づくりにかけてきたこれまでの思いを語った。困難な時代を生きる子どもたち、若者に向けて「この世は生きるに値する」というメッセージを放ち、世界中のファン、アニメーション作家から敬愛された監督が、自らの筆で創作活動にエンドマークを記した。会見の詳細は以下の通り。
【宮崎駿監督・挨拶】
僕は何度も辞めるとこれまで言って騒ぎをおこしてきた人間なので、どうせまただろうと思われているんですが、今回は本気です。
【鈴木敏夫プロデューサー・挨拶】
始まったものは必ず終わりがくるものだと思う。僕の立場で言うと、落ちぶれて引退するというのは格好悪いと思っていた。ちょうど映画「風立ちぬ」が公開されていて、いろいろな方に支持されている時に(引退を)決めたのはよかったのではないかと思っている。皆さん、今後ジブリはどうなっていくのだろうと疑問を持っていると思うが、高畑勲監督の「かぐや姫の物語」は鋭意制作中でメドも見えてきた。11月23日には必ず公開することをお伝えしたい。また、企画はまだ発表できないが、来年夏を目指してもう1本映画を制作中だ。
【質疑応答】
Q 公式引退の辞を読んだが、長編の監督は辞めるという理解でよいのか。
宮崎 (公式引退の辞に)僕は自由ですと書いた。やらない自由もある。ただ、車が運転できる限りは毎日アトリエに行こうと思っている。それでやりたくなったもの、やれるものはやろうと思っている。
Q (韓国の記者)韓国のファンへ一言。いま韓国で話題になっている零戦についての考えは?
宮崎 いろいろな言葉に邪魔されないで今度の映画も見ていただければいいなと思う。いろいろな国の方が私たちの作品を見て下さっていることは非常にうれしいと思っている。映画「風立ちぬ」のモチーフそのものが日本の軍国主義が破滅に向かっていく時代を舞台にしているので、私の家族からも自分自身からも、スタッフからもいろいろな疑問が出た。それにどういうふうに答えるのかということで、この映画を作った。だから映画を見てもらえれば分かると思う。
Q 今後、ジブリの若手監督の作品に監修やアドバイザー、アイデア提供、脚本を書くなどして関与していく考えはあるか。
宮崎 ありません。
Q 今回は本気ということだが、今回と今までとは何が一番違うのか。
宮崎 「風立ちぬ」は「崖の上のポニョ」から5年かかっている。この間、シナリオを書いたり、自分の道楽の漫画を描いたり、(ジブリ美術館で上映する)短編をやるなどいろいろやったが、やはり5年かかる。いま次の作品を考え始めると、多分、5年ではすまない。この年齢ですから。次は6年かかるか7年かかるか。あと3月もすれば私は73になるので、それから7年かかると80になってしまう。
先日、文芸春秋の元編集長の半藤一利さんと話した。83歳だが背筋が伸びて頭もはっきりしていて、いい先輩がいる、僕も83になってこうなっていたらいいなと思い、「あと10年は仕事を続けます」と言っているだけだ。続けられたらいいなと思うが、今までの延長上には自分の仕事はないだろうと思っている。僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わった。もしやりたいと思っても、年寄りの世まい言であると片付けようと決めている。
Q 鈴木プロデューサーと引退を正式に決めた時期などについて。
宮崎 ジブリを立ち上げた時、こんなに長く続ける気がなかったことは確か。これまで何度も、もう引き時なんじゃないか、辞めようという話を2人でしてきた。今回は、次は7年かかるかもしれないということに鈴木さんがリアリティーを感じたのではないか。
鈴木 「風立ちぬ」の初号があったのが6月19日。(引退を聞いたのは)多分その直後だったと思う。これまでも、これが最後だと思ってやっていくと言っていたが、今回は本気だなと感じざるを得なかった。
僕が「風の谷のナウシカ」の制作を始めてから今年で30年になる。この間、緊張の糸がずっとあったが、宮さんに引退のことを言われた時、それが少し揺れた。若い時だったら、とどめさせようとかいろんな気持ちが働いたと思うが、本当に「ご苦労さまでした」という気分がわいた。
Q 引き際に関する監督なりの美学とは。
宮崎 映画を作るのに死にものぐるいで、その後どうするかは考えていなかった。それよりも映画が出来るのか、これは映画になるのか、作るに値するものなのかということのほうが自分にとっては重圧だった。
Q これまでで最も思い出に残る作品はあるか? すべての作品を通して伝えようと意識してきたメッセージは?
宮崎 一番自分の中にトゲのように残っているのは「ハウルの動く城」。ゲームの世界だが、それをゲームでなくドラマにしようとした結果、本当に格闘した。
僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったので、基本的に子供たちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないと思ってきた。それはいまも変わらない。
Q ジブリ美術館の館長になるようなことがあるといいが……。
宮崎 館長になるというよりは、美術館に展示しているものがもう10年以上前に描いたもので、ずいぶん色あせていたり、描き直さないといけない。自分が筆やペンで描いたりしないといけないが、ずっとやりたいと思ってきたことなので、それをやりたい。美術館のようなものも生き生きさせていくには、ずっと手をかけ続けなくてはいけないので、それをできるだけやりたいと思っている。
Q 美術館の短編制作にはかかわるのか。
宮崎 引退の辞に書いたとおり、前からやりたかったことがあるので、それをやる。それはアニメーションではない。
Q 今後のジブリについて
鈴木 今後のジブリの問題はいまジブリにいる人たちの問題でもある。彼らがどう考えるかで決まると思っている。
宮崎 やっと上の重しがなくなるんだから、こういうものをやらせろという声が若いスタッフから鈴木さんに届くことを願っている。それがないとダメ。僕らは30、40の時、やっていいんだったら何でもやるぞという覚悟でいろいろな企画を抱えてきた。(彼らが)それを持っているかどうかにかかっている。鈴木さんはそれを門前払いする人ではない。今後のことはいろんな人間の意欲や希望、能力にかかっていると思う。
Q これまで監督は海外にもいろいろ発信してきたが、今後はどうか。
宮崎 僕は文化人にはなりたくない。僕は町工場のおやじでいたい。「発信したい」とは考えない。
Q 「時代に追いつかれて、追い抜かれた」という発言があったが、それは引退と関係があるのか
宮崎 関係ない。
アニメの監督のやり方は人それぞれだが、僕はアニメーター出身なので、描かないと表現できない。(机に向かって描くことを)延々とやっていかないといけない。どんなに体調を整えて節制していても、集中してやる時間は年々減っていることを実感している。加齢によって発生する問題はどうすることもできないし、それにいら立っても仕方ない。違うやり方をすれば、という意見もあると思うが、それができるならとっくにやっている。僕は自分のやり方で一代を貫くしかないと思うので、長編アニメーションは無理だと判断した。
Q いまのクール・ジャパンについての意見は?
宮崎 自分が仕事をするということは一切テレビも映画も見ない生活をするということ。ラジオだけ朝はちょっと聴く。新聞もぱらぱらっと見るが、あとはまったく見ていない。だからジャパニメーションというのがどこにあるかすら分からないので、それに関する発言権は私にはないと思う。
Q あえて引退宣言をした理由は?
宮崎 引退宣言をしようと思ったのではない。僕はスタッフに「もう辞めます」と言った。その結果、取材の申し込みが相次ぎ、アトリエで取材を受けようとしたが入りきれないことが分かり、ここ(東京都内のホテル)になった。すると口先だけでごまかすわけにいかなくなり、公式引退の辞を書いた。こんなイベントをやるつもりはなかったことを理解いただきたい。
Q 1963年に東映動画(現・東映アニメーション)に入ってから半世紀。振り返ってつらかったこと、アニメをやっていてよかったと思ったことは?
宮崎 つらかったのは(制作の)スケジュール。僕は終わりまで分かっている作品は作ったことがない。見通しがないまま入っていくものばかりだったので、毎回つらかったとしか言いようがない。
監督になってよかったと思ったことは一度もないが、アニメーターになってよかったと思ったことは何度かある。アニメーターは、なんでもないカットが描けたとか、うまく風が描けたとか、うまく水の処理ができたとか、そういうことで2、3日は幸せになれる。アニメーターは自分に合っているいい職業だったと思っている。
Q ジブリを立ち上げた時は40代半ば。それから今まで日本社会はどう変わってきたか。
宮崎 ジブリを作った時の日本は、浮かれ騒いでいる時代だったと思う。経済大国になって日本はすごいと言われていた時代。それについて僕はかなり頭にきていた。そうでなければ「風の谷のナウシカ」など作らない。「ナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」は、経済はにぎやかだが、心のほうはどうなのというようなことを考えてつくってきた。
ところがソ連が崩壊して、日本のバブルもはじける。ユーゴスラビアでは戦争が始まり、ほんとうに歴史が動き始めた。自分たちのいままでの作品の延長上には作れないという時期がきた。それから(世の中すべてが)長い下降期に入った。そのあとは(ジブリも)じたばたしながら「紅の豚」や「もののけ姫」を作ったりしてきたが、「風立ちぬ」まで、ずるずるずると下がりながら、いったいどこへ行くんだろうと思いつつ作った作品だった。
そのずるずると落ちていく時に、若いスタッフ、子供たちの横で、なるべく背筋を伸ばして、半藤さんのようにきちんと生きなければいけないと思っている。
Q 現在の健康状態について。やせたように見えるが。
宮崎 現在の体重は63.2キロ。50年前にアニメーターになった時は57キロだった。一時は70キロを超えた。映画を作るのに体調を整える必要があるので、外食をやめた。朝ご飯はしっかり食べて、昼は家内の作った弁当。夜は家でご飯は食べないでおかずだけ食べるようにした。するとそれで問題ないことが分かり、この体重になった。
Q 現在は健康ということですか?
宮崎 うーん、映画を1本作るとヨレヨレになる。どんどん歩くと体調が整ってくるのだが、この夏は暑かった。まだ歩き方が足りない。もう少し歩けば、もう少し元気になると思う。
Q 「力を尽くして生きろ」「持ち時間は10年」という自身の言葉について。この先の10年はどうなる?
宮崎 アニメーションというのは、世界の秘密をのぞき見ること。風や人の動きや表情、身体の筋肉の動きそのものの中に世界の秘密があると思える仕事。まだ監督をやる前だったが、それが分かったとたんに、自分の選んだ仕事が非常に奥深くて、やるに値する仕事だと思った時期があった。そのうちに演出などをやらなければいけなくなって、だんだんややこしくなるが、その10年は自分は一生懸命やっていた。これからの10年はあっという間に終わるだろうと思っている。
Q 「この世は生きるに値すると子供に伝えたい」という自身の言葉について。
宮崎 自分の好きな英国の児童文学作家でロバート・ウェストールという人がいるが、彼のいくつかの作品の中に、自分の考えなくてはいけないことが充満している。その中にこういうようなセリフがある。「この世はひどいものである。君はこの世に生きていくには気立てがよすぎる」。少しもほめ言葉ではない。それでは生きていけないぞと言っている言葉。本当に胸を打たれた。
(「この世は生きるに値する」という言葉は)僕が発信しているのではなく、僕はいろんなものを多くの読み物や昔見た映画などからいっぱい受け取っているのだと思う。(それらを作った人々は)繰り返し「この世は生きるに値する」と言い伝え、ほんとかなと思いつつ死んでいったのではないか。僕もそれを受け継いでいるのだと思っている。