「明治の盗掘説」真相は 仁徳陵の謎を探る(3)
軌跡
米ボストン美術館には大山(だいせん)古墳(仁徳天皇陵)出土とされる古代の鏡や大刀などが収蔵されている。「1872(明治5)年、堺県(現堺市)の県令(知事)が立場を悪用して仁徳陵を発掘した際に持ち出した品」。こんな説が小説などを通じて広まっている。
確かにこの年、堺県が「墳丘を清掃して石を取り払ったら穴が開き、石室を見つけた」との文書を国に提出している。これが意図的な発掘だったというのだ。出土した石棺や甲冑(かっちゅう)などの詳しい絵図も残る。宮内省(現宮内庁)から派遣された絵師が描いたものとされる。
だが当時の状況を詳しく検証した元堺市博物館学芸課主幹の樋口吉文さんは「当時の県令にそんな権限はなかった。ぬれぎぬだろう」と話す。
江戸幕府は、周辺住民が里山として大山古墳を利用するかわりに維持管理を委ねた。明治初期もこの状況は続いており「まきでも拾おうと住民が墳丘に立ち入り、ついでに少し石をどけたところ石室を発見。県令が国に届け出たのだろう。通常の手続きで、文書の内容に疑わしい点はない」と樋口さんは分析する。
絵図を描いたのは宮内省の絵師ではなく、絵の巧みな建築技師だったことも判明。「古美術に造詣が深かった技師が話を聞き、私的な立場で現地を訪ねて描いたのでは」
ボストン美術館の収蔵品については「大山古墳とは年代が合わない」との指摘がかねて出ている。
宮内庁は同館で調査し2010年、成果を公表した。収蔵品は岡倉天心が買い付けたものだった。当時の記録で唯一残る会計報告書には「古代の墓から出土」とのみ記され、「仁徳陵」の名は無かった。
裏付けのないまま唱えられた「仁徳陵出土」との推定が一人歩きした――。調査を担当した徳田誠志・陵墓調査官はこう推察する。「確かな情報は無く、現時点で結論は出ない。仁徳陵と結びつけることは控えるべきだ」