大崎市秋の遺跡巡り・うきたむ風土記の丘考古資料館研修旅行に参加して
2023.10.24(19:37)
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昨日隠岐旅行から帰ってきたのですが、今日は宮城県の大崎市へ研修旅行ですので又マイクロバスに乗ってます。本当は明日のはずが、主催者側の都合により繰り上がり、4日間まるまる旅行になりました。笹谷峠を高速で進んでます。
ー グーグルマップ利用・山形自動車道笹谷付近 ー
大崎市の歴史関連地図
高畠町にある県立うきたむ風土記の丘考古資料館の秋の研修旅行に初めて参加しました。
行き先は宮城県の大崎市です。初めてだから興味と謎が半々。
大崎市は平成18年に古川市と6町が合併して歴史ある大崎市になりました。大崎市は伊達政宗の岩出山城が有名ですが、もともと古より広い地域に歴史の遺跡が残っているすごいところなんですね、初めて知りました。とにかく歴史が多すぎて回り切れません。古川市は昔から地図で見ると気になるところでした。仙台平野の中寄りで仙台市に近くて人口減少はなさそうだしいろいろな面で優れているみたいです。古川から大崎に変わっても古川が中心に変わりはありません。
ー 以下記事解説は大崎市のパンフレット並びに研修しおり からお借りしました ー
まず着いたところは山畑横穴群
古川市の南、三本木地区の丘陵地の横腹に多くの横穴があり、異様な風景を呈しています。
これは横腹に掘られたお墓です。昭和47年に26基の横穴古墳が確認され23基が発掘調査されました。7世紀ごろに築造が始まり9世紀頃の平安時代まで使用されたと考えられています。調査終了後、古墳群は保存のために埋め戻されています。そういうことよねえ、遺跡というものは残念だけど、期待すると姿が見えないことが多いのです。
この中の3基には内部の壁に赤い顔料を用いて描かれた装飾があり、北限域の装飾横穴墓として国の史跡指定を受けています。横穴墓からは大人や子供の人骨が出土しています。
そばに資料館があります
展示物に接することは出来ますが、事情はともあれ現地に足を運ばないのはどうもしっくりしません。
出土遺物は土師器、須恵器、鉄鏃、刀子などがあります
次に回ったところは大崎平野北部にある国指定史跡、木戸瓦窯跡
8世紀前半に陸奥の国府、多賀城創建時の瓦を焼いて生産したところです。
地下式の窯でここも埋められて整地されています
近くの2か所でも作られ計30基の窯が発見されました
多賀城創建期の瓦を焼いた窯は木戸の他に多賀城から北に遠く離れた宮城県北部大崎地方にも所在していました。この頃には流通システムが整っていたのでしょうね、大したもんです。創建期以降は多賀城近くで作られています。
次は縄文時代晩期の大集落、北小松遺跡
ここは通り過ぎたみたいでした。大崎平野の北側を伸びる丘陵の裾部から低地部にかけて立地する縄文時代早期から弥生時代前期にかけての集落跡で、今は宅地、水田、畑、山林などになっています。
遺跡は昭和28年に発見され、遺跡周辺には縄文時代の遺跡が多数分布するほか、古墳時代から中世にかけての遺跡も多数あります。昭和32年の開田工事では泥炭層や貝層から多数の縄文土器や石器の他抜歯が施された人骨やシジミ、タニシなどの淡水産貝類、動物の骨などが見つかりまた。
この辺一帯は当時、湖沼や湿地帯であったと見られ、これらの水域を囲むように集落が点在していました。北小松遺跡は拠点的な大集落だったと考えられます。
集落は祭祀広場を中心に住まいや倉庫などの掘建柱建物群が囲い、その外側に土坑墓、埋葬、埋設遺構、そしてその外側に捨て場が囲うなど大きな村社会が形成されていました。
弥生時代前期に大規模洪水が発生します。定住による狩猟・採集活動の基盤を長期にわたり維持してきたのですが、集落の継続と発展に必要不可欠であった水辺が埋没したことで、およそ1000年続いた拠点としてのムラは終焉を迎えました。
掘立柱建物跡群から柱材が見つかる
木質なのによう残ったものです。
仰臥屈葬人骨
ほんと不思議ですよねえ、いつも思います。骨はたとえ古墳時代のものと仮定しても1500年前のものだけどこうして残ることが。もっとも億年前の恐竜も残るのだから当然と言えるでしょうがね。骨は石ころみたいに無機質化すれば残るんですかね。それよりも気が遠くなるような時間が経過したという事実が信じられないです。千年、億年の時間が経過するものであるということそのものが信じられんです。恐竜のしっかりした骨を見ると昨日お亡くなりになったと思っても不自然でありませんよね。それが億年前ですよ・・・ほんと馬鹿言っちゃいけません、雲爺何回生き返ればいいんだよ、気が遠くなります。遠くなったって地球は雲爺を無視して周り続けます、これから何億年も・・・・こんなこと考えなくてもよいあの世は楽でええんでしょうね 😂
女性なのか膝を折ってるみたい
次は新田柵跡 ?・・・だったのか不明
土塁の面影がわずかに認められるも、ここは通り過ぎる。
新田柵跡は奈良時代の歴史書に多賀城や玉造柵とともに記載されている城柵。城柵とは中央政権が辺境地域に居住する蝦夷を支配し、支配地域を拡大することを目的に設置された古代の役所です。政治、軍事、文化面で中心となります。
昼ごはん
研修参加の皆さんと昼食です。マイクロバスは山道や農道を移動するとどこをどう通っているものかわかりません。すると樹木に囲まれた元農家のような屋敷へ入りました。テーブルにはもう幕の内弁当が用意されていました。おいしいと評判のお弁当はうわさに違わずおいしいかったです。食堂、レストランでもない一民家でも、料理が評判なら、看板なしでも賢くやれるわけで感心しました。古い蔵があり、このお宅はやはり元?農家だったのでしょうか。仏壇もありましたね。
次は宮沢遺跡
昭和49~51年に行われた東北自動車道に伴う発掘調査で発見された、奈良時代から平安時代の城柵・官衙遺跡。東北地方のこの種の遺跡の中では最大規模です。
丘に合わせて当時の住居や人の様子を透視して見る。なるほど、なるほど
外郭・抗列断面
ここでも木の杭跡が見つかりました。木質、良く残ったものですね。
外郭区画施設は築地や土塁で、櫓、溝、掘立柱建物跡、竪穴住居跡が発見されています。
名生館官衙遺跡 国指定史跡
発掘調査後に埋め戻して市で管理しています。
大崎平野の西端部に位置する遺跡で、大崎地方で最も早い段階に成立した官衙(役所)です。
7世紀後半に集落が営まれるようになり、その後官衙の中心施設(政庁)が位置を変えながら9世紀まで造営されました。中世奥州探題の大崎氏の「名生城」としても有名です。
昭和55年からの継続的な発掘調査の結果、城内地区では多賀城より古い7世紀末頃の官衙中枢部が発見され、それまでの仮説に反し、多賀城創建前の大崎地方に律令政府の支配が及んでいたことが明らかになっています。
発掘による政庁復元
歴史探訪は面白いけれど奥が深くてなかなか手ごわいです。これで少しはお利口になったものでしょうか・・・・🙄
今回でブログ制作は299作目でした。次回300回は南陽菊まつりリーグ戦をお送りする予定です。
10月25日
県南囲碁会事務局 平吹