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twitterへの反撃
昨年秋、「週刊ダイヤモンド」が大規模なtwitter特集を掲載したのがきっかけで、店頭に並んでいる週刊誌もこぞってtwitter関連の記事を掲載している。それらの多くはtwitterを褒めそやし、ヘビーユーザーを自認する私ですら「おいおい、いくら何でもそれは褒めすぎでしょ?」と言いたくなる。先鞭を切った「週刊ダイヤモンド」は、週刊誌にもかかわらず増版出来を重ね、未だに一部大書店では、同誌のtwitter特集掲載号が店頭に並んでいる。同誌では表紙・特集記事のトップページに利用者のアイコンを掲載しているが、この雑誌を買ったアイコン提供者はどのくらいいるのだろう?
これだけ各誌が「twitter万歳!」的な特集を組んでいると、どこかがtwitterに批判的な記事を組むのではないかと思っていたのだが、案の定というべきか、4/12日発売の「週刊ポスト」(小学館)が「twitterを疑え!」という特集を組んできた。小学館は極右隔週誌「SAPIO」で、twitterを批判するコラムを掲載していたが、今回はWEB関係者ら4人に、twitterについて語らせている。彼ら4人に共通しているのは、twitterの存在意義を認めつつも、一部ユーザー間で広まっている「twitterで世界は変わる」という見方には明確に異議を唱えている、ということである。
まず最初に出てくるのは、「WEBはバカと暇人のもの」の著者・中川淳一郎氏(WEBデザイナー)である。彼は前述の「SAPIO」に寄稿し、そのなかでtwitterを「うんこなう」「かれーなう」に代表される「暇人による暇つぶし駄文の垂れ流し」と表現し、多忙なビジネスマンが、首っ引きで書き込む余裕なんかない、ネットの前に張り付いているのは間違いなく暇人であると決めつけている。
中川氏は名前こそ出さないものの、勝間勝代・神田敏昌・津田大介・広瀬香美の各氏らを「ツイッター・エバンジェリスト(伝導師)」と命名する。中川氏は、彼ら「twitter伝導師」達に、辛らつな言葉を浴びせかける。曰く、彼らは口々に「twitterには可能性がある」いいつつ、彼らの著作物の内容は似たようなことばかり書くだの、曰くオバマ・米国大統領が、twitterにおけるコメントは、オバマ陣営のスタッフの書き込みだったと言うことには誰にも触れていないではないかと、だの。彼ら「伝導師」をかばうわけではないが、彼らが書いているのはtwitterの「入門書・解説書」であり、書かれる内容が似通ってくるのは仕方がない。しかし、中川氏はそのことに触れず、一方的にけなすのみである。
また中川氏は、ネットほど知名度や才能が露骨に出る世界はない、一般人はいくらなにを書いても「一般人」のまま、知名度が上がることはあり得ないから、つぶやけば友達が増えるわけではないという。その例として、彼は多数のフォロワーを獲得しているのは、現実世界でも名前が売れている有名人でないと、twitterの恩恵を受けられないと主張する。あげく、有名人でなくてもtwitterを有効活用できるのは、せいぜい風俗嬢じゃないかと言い出す始末である。
だが、ネットやtwitterというのは、彼が言うほど「バカと暇人のもの」なのだろうか?
お粗末な渋谷区の現状
シンポジウム「宮下公園~TOKYO SHIBUYA」の第4回目。
今回は、映像放映に引き続いて行われたディスカッションの様子を送る前に、前回のシンポジウムでパネラーとして発言し、今回たまたま観客席にいた渋谷区オンブズマンの堀切氏の発言を先に紹介したい。彼は、今の渋谷区の置かれた現状をあますところなく紹介してくれた。この話を下敷きにした上で、パネラー達の話を見た方が理解が深まると判断したからである。
堀切氏
この問題については、ほとんどの渋谷区住民は関心がない。地形の問題もあるが、渋谷区は外来者がほとんどで、住民はかなりすくない。北部の住民は新宿に近いので、新宿に買い物に行く。外来者が渋谷に買い物に行く。渋谷区の人口は19万人ほどだが、人口の2/3は北部(代々木、初台、幡ヶ谷など)に、1/3が南部に住んでいる。そういう地形なので、行政側には都合がいい。部長級の人で渋谷区在住の住民ほとんどいないから、この問題は彼らにとってはどうでもいい話だと思っている。自治体としての体をなしてない。
ストップ&リセットは絶対できると思う。オンブズマンはPTAで活動していた人が中心で、行政の揚げ足をとる期間ではない。我々が本気で活動した活動は成功しているから、本気で活動したら止められる。なぜなら、来年は区長選と区議会選挙があるだからだ。
今年の人事異動で、部長級で過去に問題を起こした人は、当たり障りのないところに移動になった。おそらく、来年選挙が終わったら元に戻る。環境アセスメントをしないのは渋谷区の専売特許だ。身近な問題を取り上げないのは、自分達が住んでいないからだ。区長自身からしても横浜に住んでいる。区長の自宅は高台にの高級住宅街で、目の前が公園だ。自分自身が出稼ぎだから関係ない。ああかわいそうだなと思っていてもそれで終わり。自分が止めても関係ない話だと思っている。
区長は「渋谷区の財政は厳しい」といっているが、実は渋谷区はお金持ちだ。お金がない自治体のまねをしただけだ。民間委託の件についても、これはいいことだと他のまねをしている。宮下公園をネーミングライツでナイキに委託する一方で、404億円かけて区の設備を立て替える。区長のトップダウンとノリで全てを決めてしまうのだ。決定事項に、法的な根拠がないまま決めてしまうことが多い。だからいざ裁判となった時、裁判所から聞かれても答えられない事が多い。それを防ぐには、区長と議員を変えるしかないから、絶対に今度の選挙に行って欲しい。
宮下公園に迫る危機・3
シンポジウム「宮下公園~TOKYO SHIBUYA」の第3回目。
引き続き、シンポに先立って放映されたドキュメンタリー映像の後半についてご報告したい。
NBAブームが大流行し、マイケル・ジョーダンの名前が知れ渡るようになった1998年。日本中では、ナイキのスニーカー及びバスケットシューズが爆発的に売れた。足への衝撃を和らげるために、空気クッションを入れた「AIRシリーズ」が大ヒットしたからである。私自身、当時のアルバイト仲間から「ナイキ製の靴は楽でいいよ」と言うことを聞いていたので、お金を貯めてナイキの靴をゲットした。確かに楽だった。あとでその靴は「バスケットシューズ(略称バッシュ)」とわかったというオチがついたのだが…。
だがその一方で、日本人はこの会社の正体を全く知らなかった。この会社は自社工場を持たず、全ての製品を外国の工場で作らせる、世界でも初めての会社なのだそうだ。ナイキが持つ体質について、児童労働の撤廃・予防に取り組むNGO・ACE(エース)職員・白木朋子さんによると、この問題が出てきたのは1988年頃。契約工場での不当搾取問題に起因する、労働者のストライキと児童労働が欧米メディアで報道され、その流れを引き継ぐ形で「ナイキボイコット」キャンペーンが展開されていく。しかしナイキ側は一連の抗議に対し、委託先の工場で起きている問題だから我々には関係ないという態度をとり続け、消費者の怒りに火を注いだ。抗議行動は1997年にピークを迎え、抗議活動は13カ国に広がったそうだ。
この問題を突き詰めると、委託工場が成り立っていけるだけの資金をナイキが支払っていないこと、納期を厳しく定めていること、デザインの決定権がなく、労働者をこき使うだけこき使うなど、ナイキが委託先を奴隷のようにこき使っているのが最大の問題点だと、白木さんは指摘する。1997年というと、日本国内でもやっと「グローバル化」という言葉が使われ始めようという時代だが、ナイキはそれ以前から、海外で現地の労働者を不当に搾取しているということになる。
ナイキはサッカーボールも作っているが、工場では子供達が大勢使われている。サッカーボール1つ作って、子供達の手に残るのは15~30セント、靴一足作るのに15ドルかかるが、人件費として渡るのは12%ほど。いかにこの会社が労働者を不当に搾取しているのがわかるだろう。日本に入ってくるナイキ製品は中国、インドネシア、ベトナムなどだが、そこの工場で安くこき使われている労働者に思いを至らせる消費者はいるのだろうか?
コンサルタントの吉沢恒男氏は、ナイキについて
「『企業のイメージ=ブランドイメージという考え方なので、ブランドが悪い=会社が受け入れられない』という考え方をしている会社。だから10年後にどういう立場にいるのか(を判断する)のは非常に難しい。変化が多い会社なので、そのときそのときで変わっているブランドだと思う」
とかたる。実際日本から撤退、或いは縮小傾向にある分野もあるそうだ。
宮下公園に迫る危機・1
26日、渋谷区勤労会館で開かれた「民主主義の貧困~渋谷区はどこにいくのか?」というシンポジウムに参加してきた。このシンポジウムは、OurPlanet-TV(以下「アワプラ」)が中心になって(というより、ほとんどアワプラしか取り上げてくれないのだが)追いかけている「宮下ナイキパーク」問題について取り上げた、3回連続のシンポジウムの最終回としての企画であり、この公園計画に反対している活動家、プロスケーター、新聞記者らがパネラーとして参加し、この計画の問題点や、渋谷区のぞっとする現状が次々と明らかになった。
この計画のどこが問題なのか?それは、渋谷区が本来なすべき民主主義的な過程をすっ飛ばし、いきなり結果だけ発表するという、まことに強権的な行政手法にある。
話題になっている宮下公園は、山手線と明治通りに挟まれた、細長い公園である。渋谷駅から徒歩5分圏内という絶好の場所にあるにもかかわらず、最近はホームレスが居住しているため、一般には「危ない場所」として認識されているようである。現有施設はトイレ、フットサルコート、児童向け遊具が設置されているが、利用者はさほど多くない。
この公園の「ナイキ化」がなぜ問題なのか?それは渋谷区が「ネーミングライツ」と称して、区内の施設に企業の商品名をつける事の先駆け的存在だからである。
2005年9月30日の渋谷区定例議会において、鈴木けんぽう議員(民主党)が、渋谷公会堂のネーミングライツ販売を提案している。彼は翌年6月8日の定例会でもこの問題について取り上げているが、3ヶ月後にキリンビバレッジが電通経由で渋谷公会堂のネーミングライツを取得し、10月1日から同公会堂は新たに「CCレモンホール」としてオープンしている。さらに渋谷区はネーミングライツの権限を公衆トイレを対象に広げ、一般個人でもネーミングライツを取得できるようにしたが、さすがに公衆トイレに時分の名前を冠する奇特な人はおられないようで、個人の名を冠した公衆トイレは現在も聞いたことがない。
そして、このネーミングライツ問題と宮下公園は、かなり密接に関わっている。
2003年6月6日の定例会で、伊藤たけし議員(保守系無所属)が、宮下公園にフットサルコートの設置を提案している。ところがこれに反対するNPO法人「渋谷区を美しくし隊」らが、「宮下公園の再生に関する陳情」を翌年9月22日議会にした。だが最終的には6月17日、フットサルコート2面が、宮下公園に設置・開場された。管理を受託されたのは不動産会社の(株)Fidoで、選定理由は運動施設業務に実績があるというのが理由である。
DAYS JAPAN存続へ・2
めでたく「存続」が決まった「DAYS JAPAN」。
今日は、9日のシンポジウムに登壇したゲストの方の発言(要旨)を紹介します。
(敬称略)
江成常夫(写真家)
今日展示された写真を、皆さんはどんな気持ちで映像を受け止めたか?
言葉を閉ざすか、祈るしかないような写真を見せられると、こういう場に立つことに後ろめたさを覚える。今世界では、貧困や紛争の元で、死を強いられ、涙が絶えない人たちが跡を絶たない。写真はそのような弱い人にまなざしを向け、絶望を希望の灯に変える力と役割がある。しかし今の日本には、受け止める受け皿がない。それはジャーナリズムにも問題があると思うが、そうしてしまった日本人一人一人にも責任がある。絶望を希望に変え、DAYS JAPAN「以下(DAYS)」世界をつなぐ雑誌ではないかと思う。
私は今まで「DAYSフォトジャーナリズム大賞」の審査をしてきた。そこには沢山のフォトジャーナリズムが、命をとして取ってきた人たちの写真が沢山よせられている。死や涙を強いられている人たちは、子供、女性、老人といった弱い人たちである。その後ろで、権力者があとに他得ている。DAYSは、それを受け止めてきた。
樋口健二(フォトジャーナリスト)
外は寒い中を沢山の方がおいでいただいたことに感謝したい。
6年続いたのは大変なことだ。僕の世代は報道をやるのが当たり前、朝日新聞からアサヒグラフ、毎日新聞から毎日グラフ等、当時は諸々のグラフ雑誌があった。報道写真はこういう雑誌媒体で活動していたが、いつの頃からか、日本のジャーじゃリズムは報道写真を排除していく動きが出てきた。絶望にうちひしがれた時代、どうしたらいいのだろうかと思っていた矢先、6年前に広河さんが「DAYS」をひっさげてやってきた。彼は写真の他に、編集を兼ねている、これは超人的だと思った。私は学校(※)でフォトジャーナリズムを教えている。教え子達は彼にお世話になっている。
グラフ雑誌は経済が悪化して、どんどんつぶれた。にもかかわらず、「DAYS」は彼のたぐいまれなメッセージと心が全国に通じて、グラフが一気に上がっているのを見てほっとした。これはみんなが協力したたまものだ。6年の実績に対し、日本写真家協会から協会賞が贈られた。
本日は6周年だが、さらに皆さんのご協力がないと、売れなければ廃刊になるという宿命がある。沢山の作品を見て、胸がいっぱいになった。この世界の状況を日本が伝えていない。この雑誌の歴史的存在理由を皆さんの力で守って欲しい。次は10周年だ。そのためには、皆さんの力がなかったら無理である。よろしくお願いします。
※樋口氏は、長きにわたり「日本ジャーナリスト専門学校」の講師をしている。
余談ながら、管理人はこの学校のOBである。
父の一周忌
父の命日である昨日、墓参りに行ってきた。
父の眠る墓地は、「東北地方随一」といわれる北の地にある。
大げさに書いてみたけど、交通網の進歩というのは恐ろしい。
私が小さい頃には、父の実家に行くには特急で4時間かかったが、今は新幹線で1時間半ほどしかかからない。だが目的地に早く着くようになった分、旅情というのがなくなったとまではいわないまでも、度の雰囲気を味わうことができなくなってしまった。
当時の特急列車は「エル特急」という名で1時間おきに運行されており、各列車には食堂車が連結され、私も食堂車の名物メニューを味わうのを大変楽しみにしていた。だが新幹線の開通で食堂車つきの「エル特急」は廃止された。このことを残念に思う鉄ちゃん(鉄道ファンのこと。最近急増中の女性鉄道ファンは「鉄子さん」という)も多いだろう。
私が最初にそこを訪れたのは、9歳の時である。
その時は,駅前を「チンチン電車」と呼ばれる市電が、所狭しと走っていた。ところがそれから半年も経たないうちに、市内電車は全路線が廃止になってしまったので、子供心にがっかりした記憶がある。
私が大きくなるにつれ、この地に住む親戚とは次第に疎遠になっていった。
大人になってからかの地を訪れたのは、祖母と叔父が旅立った時だけである。
切ない派遣村物語
自分も、いつかそうなるのだろうか…
特集ワイド:公設派遣村・それぞれの物語 働き自立したい! 僕ら、どう見える?
今年も、都内で実施された「派遣村」。
「公営で実施されたことに意義がある」と一部では賞賛の声が上がっているとはいえ
その実情は、昨年とは全く実態が異なっていた。
前回のブログでも書いたが
都の職員は、親身になって「入村者」の悩みに耳を傾けるどころか
おざなりの「アンケート」でお茶を濁そうとしていた。
その様子を見るに見かねた、前年「派遣村」有志で実施する「ワンストップの会」が
入村者の手助けをしようと助け船を出すと
都の職員はこれに感謝するどころか、彼らの活動を妨害する始末。
自分達も、へたをすればいつかはああなるという考えがないのだろうか。
北海道からやってきたという元とび職の青年は
「食う」ために「夜の世界」に飛び込んだが
この世界は自分には向いてないとわかり、すぐさま足を洗った。
実家に妻子を残す彼は、このことを家族に伝えていない。
仕送りもできず、ひもじい思いをさせている。
「いっしょに暮らしても、路頭に迷わせるだけだ」と考える彼は
ずっとこちらで仕事を探す決意を傾けている。
年末に仕事と家を失い、「ホームレス」と思われるのがいやで、
夜の街をさまよっていた青年は
居ても立ってもいられず、派遣村行きのバスに乗った。
「鳩山首相がお母さんからもらったお小遣いの1割でもいいから僕らに分けてほしい」
とつぶやく青年。
パフォーマンスはいい、仕事をくれという言葉は
「派遣村」のあちこちから聞こえてきた。
「快適な生活」の陰で…
バブル景気絶頂期
「おいしい生活」というコピーで一世を風靡した百貨店があった。
その百貨店は、 時代の最先端を行く百貨店として知られていた。
当時、消費は「美徳」とされ、人々は狂ったように享楽的な生活に走った。
その陰で、モラルの崩壊は深く、静かに進行していたことに
気づいた人は誰もいなかった。いや、誰もが「気づかない」ふりをしていた。
バブル崩壊とともに、その百貨店が抱えていた暗部が一気に表沙汰になった。
時代の最先端を行く経営者とメディアから持ち上げられていた社長は
一転して、賞賛されていたメディアからバッシングを受けた。
結局、社長は全財産を売り、経営権を他人に譲り渡し、ビジネスの一線から姿を消した。
年明け早々、昨年私の会社に入社した社員2名が、昨年一杯で退職した。
退職理由は「プライベート」を理由に明かされなかったが
私には心当たりがある。
うちの会社には正社員の勤務シフトは
8時~17時までの「早番」と、17時~深夜2時までの「遅番」にわかれている。
「遅番」は規約上、深夜2時が定時になっているが
実際に定時で帰れるのはごくまれなこと。
普通の時間帯でも残業はきついのに、
うちの会社の深夜残業は、他の会社よりも仕事がきつい上に人数も少ないから
心身共に疲れやすくなる。
今会社を辞めても、仕事が見つかる保証はない。
「無職」になる恐怖心で、彼ら2人は必死に会社にしがみついてきたが
ついに限界点を超えてしまった。
仕事がみつかないことを覚悟の上で、彼らは自分の身を守ることを選んだ。
公設派遣村が閉所
だが、本質的な問題は解決していない…
都の“派遣村”が終了 800人が別施設に転居へ
昨年「反貧困ネットワーク」が中心になって、日比谷公園で開催された「年越し派遣村」の公営版として注目された「公設派遣村」が昨日、無事に「閉村」した。今年は883人がやって来たが、そのサービスは「年越し派遣村」とは比較以前の問題だったらしい。都側はハローワーク職員らが職業・生活相談したといっているが、当の相談者からは
「各種支援を求めたが何も決まらなかった。都の職員は事務手続きとして必要なことを聞くだけで、こちらの話をもっと聞いて欲しかった」
という不満の声が相次いだ。
都に遠慮して、メディアは詳しい実態を報道しないが、実際に「派遣村」を訪れた小池晃・参議院議員(日本共産党)はtwitterで、公営版派遣村の実態をリポートしてくれた。その内容は、あまりにも衝撃的なものだった。都の職員の対応を見かねた「ワンストップの会(「年越し派遣村」に参加した有志の団体)が来所者の相談を始めると、都の職員が
「(相談を)やめろ。あなた方は国と東京都の取り組みをこわそうとしている」
と暴言を吐いたそうである。その後はワンストップの会の帯同も認められるなど少しは改善したようだが、村内で体調を崩した入村者を救急車で運ばれる騒ぎがあった時には救急隊員も
「派遣村には医者もいるのに診てもらえないの?」
と不思議がるなど、都の対応はお粗末なモノだった。また都側が実施した「相談業務」も、実態はアンケートのようなもの。どんな支援の制度があるのかも教えてくれないと入村者から不評だった。
2009年回顧録
昨年当ブログを訪問してくれた皆様へ
喪中ですが「明けましておめでとうございます」。
旧年中はお世話になりました。
本年もよろしくお願いします。
今年も無事に新年を迎えた。
このブログの読者の方でなくてもご存じかと思うが、昨年は公私ともに激動の年だった。
2月には父が旅立った。
覚悟していたとはいえ、もっともっと長生きして欲しかったし
自分が貧乏でなかったら、もっと条件のいい病院で闘病生活を送らせてやりたかった。
そういう意味では大変悔いが残るが、今後今の生活状況がから脱出できる見込みは
残念ながら、ないという状況だ。悔しいが、しょうがない。
私が好きなドラマである「ファン・ジニ」にこんなセリフがある。
「強いから生き残るのではない。生き残るから強いのだ」
私はこのセリフを胸に秘め、これからもしぶとく、したたかに生き残ってみせる。
いわれなくても生きてやる!生き延びてやる!
5月にはtwitterに参加した。
最初のうちは使い方がわからず、本格的に参加するようになったのは7月も下旬になってからだが
フォローしてくれる人数が増えるにつれ
これまで経験しなかった出会いもあったし、思わぬ再会もあった。
8月には、実に85年ぶりという、選挙による「政権交代」が実現した。
60年間、積もりに積もっていた国民の鬱憤がとうとう爆発した。
道はまだまだ険しいが、ゆっくりと着実に仕事をして欲しいものだ。