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若宮啓文氏@水俣・3
2月23日、明治大学において水俣・明治大学展プレ・スタディーズ第3回における、元朝日新聞論説委員・若宮啓文氏の講演(要旨)の3回目をお送りします。
朝日は水俣をどう伝えていたか?最初は猫がテンカンを起こしているということから騒ぎが起こった。これは1954年のことである。地元の新聞がそれを伝えているが、水俣の猫がテンカンで全滅、猫が発狂したため、ネズミが大量に増えたために住民が悲鳴を上げているという話を伝えていた。それが第一報だ。当時の報道を見ると、水俣駐在の朝日新聞記者もこの記事を取り上げたが、ボツになったと明かしている。当時はこんな騒ぎになるとは知らなかったが、テンカン騒動が人間に拡大したとして報道されるのは1956年5月1日で、これは西日本新聞に掲載された。続いて熊本日々新聞に掲載され、一ヶ月遅れで朝日にも記事が掲載された。当時は発狂者という言葉が見出しに踊っていたが、表現上の問題がある今ではほとんど使われない。当時は水俣に伝染性の奇病だと報道された。 残念ながらこの記事が載ったのは九州一円、山口県を管轄する西日本版だけで、全国版には掲載されなかった。今にすれば歴史的な一報だが、これが全国版にのなら買ったのは反省材料である。これが水俣湾だったら、おそらく大騒ぎになっていただろう。今でこそ地域主権といわれるが、地域格差が報道面に表れ、1959年7月に朝日新聞がスクープ記事を掲載したが、これも本社版には掲載されなかった。しかも同年11月には、水銀説を否定する記事が掲載された。当時は著名な学者が「水俣病の原因は水銀ではない」と発表したことで、「地方の学者よりも東京の学者のほうがえらい」という雰囲気があったのだろう。これは朝日だけの問題ではない。
チッソが当時患者に払った見舞金も問題がある。会社が払った見舞金・年金も微々たるもので、当時と貨幣価値が違っていたのだが、当時はいろんな説が出てきて、そんな中で患者さんも亡くなり、子供が病気になれば経済的に大変という切羽詰まった状況であり、経済的にも立ちゆかなかった人たちが見舞金を受け取った。チッソは見舞金を払う時、こともあろうに「将来後遺障害が出てきたとしても、チッソとは関係ない」という一文を加え、それを当時のメディアは「円満解決」と報道した。報道の責任は重い。水俣がここまで広まったのは報道のおかげだが、いろんな意味で教訓になったと思う。
若宮啓文氏@水俣-2
2月23日、明治大学において水俣・明治大学展プレ・スタディーズ第3回における、元朝日新聞論説委員・若宮啓文氏の講演の2回目をお送りします。
私は駆け出しの頃に警察を回っている時、ある殺人事件が起きた。脳性麻痺の我が子の将来を悲観した親が、我が子を殺してしまったという事件で、親は警察に逮捕された。私が取材をしたが大変だった。施設も入れてくれないという環境で、親は疲れ切ってしまったのだが、町内の人が嘆願書を提出する。私はそれを記事にしたところ、ある団体から連絡をもらい、これを書いた記者に会いたいといわれた。その団体は脳性麻痺児の団体で、私は彼らに
「こういう嘆願をする人も困るが、これを記事にする記者も困る。あんたは私たちに死ねというのか?」
といわれた。私は美談仕立ての記事にしたつもりはないが、先方はそういう風に受け止められたのだ。
その子はそこまでの表現力はないが、親がそういうふうにいった時に首を振ったということは、生きるということに執着心を持っていたのだろうと思う。
サカモトシノブさんという患者も出てくるのだが、この人はわりと症状が軽い。バレンタインデーにチョコを買ったりしている。それでも自分が生まれたことを呪う気持ちになったりする。いろいろ恨むこともあるんだ、母さんが自分を産んでくれなかったら良かった、母を殺して自分を死のうとしたが、そんなことなんかできないという話も出てくる。だから水俣病というのは、家族にとっても生き地獄のようでつらかったのではないか。
人類の歴史の中で、いろいろ理不尽なことがあった。私の中では水俣病とは、戦争のように殺そうという意図がないのに発生した事件である。生きていながらこんな状況を作り出してしまった。人間はなんのために生まれ、なにを楽しみに生きていくのかとチッソに訴えた場面があった。
若宮啓文氏@水俣・1
2月23日、明治大学において水俣・明治大学展プレ・スタディーズ第3回目。
今回の講演者はは元朝日新聞論説委員・若宮啓文氏である。
講演に先立ち、映画「水俣病-その20年」が上映された。映画の内容と、上映に先立って行われた主催者挨拶のようすは、こちらのブログを参照してください。奈緒、氏の発言は私のメモを元にしているので、ところどころ食い違っているところがあるかも知れないことを、あらかじめお断りしておきます。
若宮氏の講演ここから
私がここに来たのは、私が水俣フォーラムの会員ということだ。会費を納めている以外に接点がないから最初は断ったが、是非にと言うことでここに来た。なんだかおこがましい。
私は若い頃に部落差別の取材をし、韓国に取材でいたこともあり、支配・加害関係をずっと見てきたことので、水俣を取り巻く問題と関係あるなと思った。報道する側、される側の事情も、この問題では避けて通れないと思う。
私は水俣を訪れたことがない。気軽にいけるところでもなく、担当してないから気軽にいけない。水俣フォーラム会員なのに現地に行ったことがない。水俣フォーラムでは過去何回も現地訪問スタディーツアーを開催しているのだが、日程が合わなくて行くことができなかった。今日この会場に来ている人で、ほんとに若い人はこの問題についてあまり知らない人もいるのだろう。だから皆さんとあまり遠くないところとお話ししたい。知っている人は苦痛かも知れないが勘弁して欲しい。
この映画ができたのは水俣病が公式に「発見」されてから20年後である。存在が明らかになったのは’56年で、この映画はそれから20年後の記録である。
よく「55年体制」といわれるが、長く日本の政治を牛耳ってきた自民党ができたのがその頃であり、それと同時にこの問題が出てきた。’76年というのは、日本中大騒ぎになったロッキード事件が起こった年である。その年にこの映画ができた。水俣病は一部では関心を持たれていたが。この年は「政治の季節」だったんだなあと思う。自分はこの年に政治部に来た。この映画を撮った土本さんは直接知らず、彼は一昨年亡くなった。彼は折に触れて水俣をテーマに活動された方だった。
この映画をは教材として優れたものだと思う。この映像をよくぞ撮られたと感じた。過去の蓄積もあるが、これだけ患者のリアルな姿、それも実名が入っているから、時代背景を考えただけでもすごい。作る過程というのは、完成品よりも沢山素材フィルムがあるはずだ。
水俣病とメディア・3
昨年11月3日に法政大学で開かれた「水俣病とメディア」の報告3回目。
今回は、小林直毅・法政大学教授の話。
私は熊本の放送局で流れたニュースを分析した。全国紙については言及されているが、テレビニュースは少ない。地方紙は縮刷版が残っているし、ドキュメンタリーは再放送されているが、テレビニュースを保管することはない。現在では保存している場合があるが、当時はその習慣がなくて素材が残っていないため、研究対象にならないが、特定地域としての認識を知る上で、テレビニュースの分析は不可欠である。熊本放送、NHKもあるし、当時の人が何を見ているかを知るのが研究の目的だ。
地元放送局に保管されているニュース素材はないが、熊本放送が始まったのが59年、ラジオは53年。59~68年が分析期間、素材は47本だが、収録された時間はそんなに長くない。検索項目は68本、素材はもともと社内業務用に作られたため、一般公開されていない。そのため、個人的な信頼関係を築いた関係者から「学術研究」の目的で許可をもらって視聴した。アーカイブを作りたいのは、いろんな人に研究を公開したいから。オンエアした素材ではなく、プリントした物だけが現存している。そのため、ニュース原稿・進行表の発掘と対照が必要だ。放送記録はあるが、映像がない物がある。データー分析をしながら自分達がわからなければ、先輩達に聞きながらDBを作成した。原稿つきで最初に出てくるのは59年7月22日収録分だが、これは実験放送的な色彩が強い。当時は突き放した感じだった。紙だけではわからないので、ライブラリーにて映像を見て、ノートに映像概略を記す。今のところ本数が少ないところを見ているので、分析が追いついていない。
’61~’67年は地元でも報道されておらず、’68年以降に増えているのは、裁判が関係しているかも知れない。新聞も似たような状況らしい。’73年がピークで、’74年以降は減少傾向にあったことがわかる。残された映像は、関係者が見る発表ジャーナリズム的、漁民騒動に見られる事件ジャーナリズムの視点で取られた映像が多く、見舞金の報道はない。患者の映像は47本中9本、ほとんどが病院での取材で、患者正面からのクローズアップ・患者の身体表層、集落の取材がない。例外は水俣病のお原因が特定された’63年2月18日の映像。’68年に園田直が厚生相が熊本に入り、水俣病を公害に認定するニュースは15分あり、当時でも異例の展開である。患者に泣き寝入りさせない、病院患者を見舞う画面が出てくる。熊本放送が患者のインタビューを放映したのはこれが初めて。患者の様子がこの頃になると豊富になってくる。
公害病認定後、関係者の映像や音声が増えてくる。当時とは違い、ニュースの結びの言葉に含まれるニュアンスが変わってきたり、患者に謝罪する社長の様子が放映されている。
’68年、熊本放送は初めて水俣病のドキュメンタリーを放送。その年の放送賞を受賞。これまで撮影してきた映像を編集して放映したが、これは地方局にしては画期的な出来事。このあと’73年、’97年にもドキュメンタリーが作られる。この映像からは、調査放送的な視点で制作され、チッソや行政に対する批判・告発のメッセージを読み取ることができる
P・バラカンと水俣-2
「水俣・明治大学展-映像・報道・表現を通して考えるシリーズの第2回目。
今日は、ピーター・バラカンさんとの質疑応答(要旨)を掲載します。私のメモを元にしているので、不完全なところも多々あることをご承知置きください。
聴衆(以下「A」):
私は在日コリアンだ。彼らは形に表れた障がい、コリアンは心に表れた障がいだと思っている。私は50年間差別されてきたので、それがイヤで本を読んでいた。考えて,考えて一つの言葉にたどり着いた。それは「無知は罪である」ということだ。20年間考えた結論は、自らの犯した罪が悪いとわからなければ、悔い改めることができないと思ったからだ。神様は人間に負のことをさせないのか?この映画を見て、是非この映画に出た人たちに会ってみたいと思った。
公害問題として代表的なものだと思うが、日本はメディアが風化させてしまうといっていたが、イギリスでは公害問題が起きた時、風化させないなどやっているのか?
ピーター・バラカンさん(以下「P」):
日本で35年過ごしているが、現地の実態はつかんでいない。イギリスでいうと、放射性物質再処理工場の話を聞いたことがなく、六ヶ所村問題の映画で扱っているのをみてショックを受けた。イギリスでもしょっちゅう出てくるわけではない。イギリスのメディアは比較的開かれていて。責任ある報道をしているという印象があるが、具体的にといわれると十分に答えられる自信はない。すいません。
ここで主催者の方から関連して、かつて日本国内を騒がせた「サリドマイド事件」についての述べたので、ここで紹介する。
「サリドマイド事件は日英で全く違っている。イギリスでは不買運動が起き、日本はそれで恩恵を受け、森永ヒ素事件で不買運動が起きたが、市民運動にはできなかった。日本国内での「不買運動」は、一般国民からは「特別な人々」という視点で見られた。それは、市民運動や国民性の違いではないか」
さらに、石川さゆりのコンサートが実現した経緯について、当時の環境庁長官だった石原慎太郎が,陰で尽力していたことが明かされた。
「石原長官が初めて水俣を訪問した時、彼は患者の申請文にケチをつけたり、患者との面会を拒否して現地でテニスをしたするなど関係者の顰蹙を買っていたが、、その一方で、水俣病患者のために何かできないかと言い続け、患者団体のリーダーと文通するなど交流していた。石原長官が自分に何ができるかといってきたので、患者の主治医,患者達がコンサートをやりがたっているというので、芸能プロに話を持って行き、コンサートが実現する運びになった。コンサートの模様を映画化する時、石川さゆりという「商品」に色がつくことを恐れたホリプロ側は、石川さゆりの映像に制限時間をつけるなどをした。
P・バラカンと水俣-1
13日、明治大学和泉キャンパスで開かれたシンポジウム「水俣・明治大学展-映像・報道・表現を通して考える」にいってきた。シリーズの第2回はブロードキャスターであるピーター・バラカン氏をゲストに迎え、前半は映画「わが街わが青春-石川さゆり水俣熱唱(’78年撮影、43分)が上映され、後半はピーター・バラカン氏のトークという形をとった。
映画上映前、主催者側から挨拶があった。
明治大学は建学以来、ずっと在野から社会正義を追求してきた。在野=現場だ。そこから社会正義を以下に追求するかをずっと追求してきた。水俣展についていえば、日本最初の公害問題である足尾鉱山の問題を告発し、アピールしたのは明治の学生だ。それが母体になって、明治大学の雄弁部が生まれた。その中心人物だったのがが三木武夫である。三木は生前
「もし自分が抜けたら、自民党がどんなひどい政党になるかわからないから、オレは自民党にとどまる」
といった。彼は在野として正しい道を全うしたかったのだろう。
水俣問題を追いかけると、様々な問題が出てくるのがわかる。それらの、問題を真っ正面から捉えるのが大学の課題だ。告発から50年以上なっるが、今も患者が4万人いるし、彼らは今も様々な生活の問題に直面している。大学のこれらの試みを支援して欲しい。
ここで映画「わが街わが青春-石川さゆり水俣熱唱」が上映され、休憩の後、ピーター・バラカン氏のトークに入る。
ピーター・バラカン氏
この映画で扱われているコンサートは、’78年に撮影されたもので、私が日本に来た4年後だ。私は演歌を聴く人じゃないが、あの時代の歌はよく覚えていた。映画に出てくる彼女の態度をみて、プロだなあと感じた。彼女のことは知っていたが、あの当時は水俣の地名すら知らなかった。
今日水俣の話をするとラジオスタッフにいった。彼は佐賀県出身だが、今も水俣病患者っているのかと聞き返されて驚き、ショックだった。メディアに出てこないから知らないから当然だ。自分もおぼろげにしか覚えていない状態が続いた。知らないのは罪じゃない。だがこれだけ大騒ぎになったにもかかわらず、メディアは過去のことにしてしまったから、水俣病は関係者の間でも知れれていない。 どれだけ深刻な問題なのか、それを改めて知った。こういう事は、多分中・高の授業で見せるべきだ。そのくらいショックだった。教育現場で映画が使われているかどうか?
環境問題は何らかの形で起こる。インドのボンバルで起こったユニオンカーバイド化学工場の件もあったし、毎週司会をやっている番組では、アメリカの公害の問題を扱っているが、それらに共通しているのは人間が経済を優先するからだ。経済活動を否定するわけではないが、バランスは必要だ。 水俣の問題は、問題が実際に置きたのはしかたがない。だがチッソの責任は認めず、政府も実態を隠した。これは経済成長の妨げになるものは隠すということで、これは世界共通だ。これが続く限り、生活環境はよくならない。きれいな水、栄養のある食べ物、空気、身につけるものはとりあえず欲しい。
水俣病とメディア・2
11月3日に法政大学で開かれた「水俣病とメディア」の報告2回目。
今回は、NHKのドキュメンタリーを中心に報告したいと思います。
NHKでは、水俣病の問題が時々取り上げられたが、まとまった番組として取り上げられたのは、テレビドキュメンタリーだろう。NHKのドキュメンタリー「日本の素顔」で取り上げられているのが、日本の放送史上初めて、水俣病について取り上げられたドキュメンタリー番組だ。特徴的なのは、急性劇症的な患者が出てくる。その多くの部分が熊本大学水俣病研究班の映像を引用したものだ。別にテレビで使うのではなく、症例研究用に撮られた素材から引用されている。医学研究者が使う水俣病患者の映像を引用するということは、医学者が見るはずであろう映像を、多くの人がテレビ画面を通じて知ることになるのだ。患者さんの姿、生活が映像として克明に記憶されている。生活援護給付が行われ、援助額がいくら増えたという形で封土され得るが、ドキュメンタリー番組では、患者の生活が描かれる。構造排水でも、しっかり捉えられている。ナレーションもかぶせられている。
テレビというメディアが、テレビ固有方法で側面を切り取り、描かれた記録がドキュメンタリー番組だ。すくなからずの人々がこの映像を見ることで、水俣病を経験している。当時の多くの人がテレビを見ることで経験した記憶の記録であると捉えられる。
精神神経科の医師であり、水俣病の患者を数多く診察されてきた原田正純医師は、当時インターンで東京の病院に来ていて、たまたま水俣病のドキュメンタリーを見て、大変なショックを受けた。それ以上にショックを受けたのは患者さんの生活である。東京は経済発展を遂げているが、それと対局を行くような生活ぶりにはショックを受けたという。M君の映像が強く印象に残っている。テレビを見ることで経験した画面がこのドキュメンタリーのなかにある。
ここでNHKのドキュメンタリー番組「日本の素顔」の映像が放映される。
タイトルは「99集 奇病のかげに」。
99集とあるとおり、NHKはテレビ初期からドキュメンタリー番組制作に力を注いでいたことがわかる。
(ここから映像)
冒頭に、水俣病で視線がはっきりせず、どこか挙動不審な女子が出てくる。運動神経が麻痺しているため、身体の震えが止まらない.最初日本脳炎だと診断されていたが、当時は水俣病とはわからなかった。発病患者の死亡率は40%、患者のほとんどが貧しい人。症状が悪化し、平衡感覚がすっかり麻痺している。手足がしびれているのは、小脳が冒されているからだ。この病気の正体なにか?原因が魚であることはわかったが、それ以外については謎だった、目が見えなくなり、耳が遠くなる。
環境省部長の解任を!
私の知人である環境ライター・奥田みのり氏のブログで、こんな呼びかけがなされている。
「にせ患者」発言の環境省部長の解任を!
すべては、環境省幹部のこの発言から始まった。
環境省幹部「水俣病診断書信用できぬ」 患者団体は抗議
当然、患者からもうれつな反発をうけ、形の上ではこの幹部は「謝罪」したことになっている。
水俣病:「にせ患者」発言、環境省部長が釈明 熊本
この「釈明」に対する、奥田氏の意見はこちら
「ニセ発言」の環境省部長 発言撤回を拒否
<資料>水俣病について
「水俣病の患者は偽患者」と発言した環境省の幹部は、医者だそうだ。それだけに、今回のこの発言はなおさら許せない。
この人物は朝日新聞のインタビューで
「(現地医師が作成した)共通診断書は信用できない。感覚障害の診察は、受診者の主観的な応答に頼るのでうそをついても見抜けない」
と発言し、患者団体から猛反発を買った。部長は謝罪の意向を示したものの、今現在も発言の取り消しはしていないため、今回の解任署名騒動と相成った次第である。
奥田氏は自分のブログで
「原部長が、どこまで「ニセ患者」になりきれるか、自分が検査される側となって、『演じて』みたらいいと思います。あるいは、患者さんが検査を受ける際、同席してみてもいいと思います。人からの伝聞と、現場で自分の五感をフルにつかって見聞きするのでは、入ってくる情報量に差があります」
と憤っている。パソコンの前に座り、涙を流しながらこの原稿を書いている彼女の姿が目に見えるようである。
水俣病の歴史は古く、戦前から水俣病と思われる症状を訴える患者がいたらしい。「チッソ」水俣工場が垂れがなす工業廃水に原因があるのではという疑惑が持ち上がったのは、’50年代以降だから、その歴史はかなり古い。それまで地元が大騒ぎにならなかったのは、チッソが「水俣市」にとって多額の税金を払ってくれる大スポンサーであり、水俣市は彼らの言いなりになっていたからである。