最悪の偉人伝
三浦義武(1899-1980)を「日本におけるネル・ドリップ珈琲の魁(さきがけ)」と言い立てた森光宗男(1947-2016)、三浦義武が独創した濃厚なコーヒー「ラール」に関心を寄せて再現に挑んだ中根光敏(1961-)…これらの研究に併せ追って、三浦義武に関する本を神英雄(1954-)が著した。その2017年10月に発刊された『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』(松籟社:刊)は、著者が僻見に満ちた揣摩臆測を並べ立てただけの悪書である。
《ちょうどその頃、文学者やその他の知名の人たちの間で、たいへんもてはやされた三浦義武という、コーヒーマニアがいた。彼は西武線の沼袋駅近くのお宮さんの下で、お茶とセト物などをわずかに並べた茶の店を営んでいたが、人に取り入るのが上手で、実際にはどれほどコーヒーの前歴があったか、そのことになるとほとんど明かさないから、誰にもよくは判らなかったが、ともかく、なかなか広い顔の持ち主であった。偶然というよりも、ある時訪ねて来たのでその人を知った。彼は自分独特の濃厚コーヒーを持っていて、そのため相当のファンがいるので、是非、公開の席が欲しいというような希望から、親戚の山田忍三が白木屋の専務だったので話して、七階の蘭の間を借して貰った。》 (井上誠 『珈琲物語』 pp.277-278/井上書房:刊 1961)
《その頃義武はあちこち訪ねては、自慢の濃厚コーヒーを披露して評判を得ていた。特に小説家の片岡鉄兵によって「カフェ・ラール」と名付けられた極めて濃厚なコーヒーが食通の間で話題になっていた。それに目をつけたのが白木屋再建に奔走していた山田忍三専務だった。山田は七階食堂でコーヒーを楽しむ会を開くように懇願し、白木屋食品部長のポストを用意した。》 (神英雄 『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』 p.19)
1935(昭和10)年に白木屋で催された「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」が、誰が希望して何方から懇願されて始まったのか、私には判らない。井上誠(1898-1985)が真誠かつ実直な人物と私は捉えていないが、その僻様は三浦義武にしても同じであろう。だが、これについて神英雄は『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』で次のように記す。
《義武は、全霊を傾けて取り組んできたコーヒーを取りあげられ、コーヒー業界から姿を消した。これについて井上誠は『珈琲物語』で次のように記す。
〔前略〕三浦にしても、せっかく名声を得ながら何時のまにか消えたのは、知人が多くても業界には、容れられない異端者だからで──それは私にしても同じことだが──飽くまでも研究者として残っていたなら、彼は彼なりの業績を上げ得たのではなかったかと、惜しい気がする。三浦は松江の郷里へ帰った筈だが、会がなくなってからは一度も顔を見せない。〔中略〕ひょっとして三浦の会は、日支事変のはじまる直前に見せた、コーヒーの一つの仇花のようなものであった。十五年にある筈の日本のオリンピックも、国際情勢の悪化から延期された、輸入も先行き不安だったので、コーヒーの遊びなどは、世間から白眼視されたとも言えよう。 〔井上誠 『珈琲物語』、一九六一年〕
傲慢で義武を見下したような文章から、井上が義武の仕事を何ひとつ判っていなかったと判る。井上は、義武を栄誉・名声や権力を欲しがる人だと思いこんでいたのだ。だが義武はそんな瑣末なことなどに関心を持っていなかった。コストを度外視してでも美味いコーヒーを淹れ、多くの人を喜ばせたいと願っていたのだ。それは、アマチュア的な発想であり、プロの井上に理解できるはずもなかった。なお、「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」を「仇花」と批判的に揶揄した井上だが、彼は昭和二五(一九五〇)年から白木屋デパートで「コーヒーを楽しむ会」を開いた。(略) 結局、義武に対する誤った評価は、井上だけでなくコーヒー業界にいた人々の共通のものだった。所詮、業界人にとって義武は同業者ではなく、コーヒーマニアの一人に過ぎず、彼のコーヒーへの熱い情熱は理解できなかったようだ。》 (神英雄 『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』 pp.29-31/帰山人記:引用部分に〔中略〕とあるが、原著は文が続いていて略されてはいない。間違いである)
傲慢で井上を見下したような文章から、神が井上という人物を何ひとつ判っていなかったと判る。実は井上誠こそが栄誉や名声や権力を欲しがる人だったのかもしれない。だが、三浦義武が《そんな瑣末なことなどに関心を持っていなかったと思いこんで》いる神英雄には、他者の人格を断ずる謂れがない。《それは私にしても同じこと》という井上の自虐すら理解できない神、その発想は井上を貶めて三浦を称揚するという僻見に満ちている。結局、井上に対する神の誤った評価は、井上だけでなく三浦義武にも共通するものだった。所詮、神英雄にとって三浦義武はご当地の偉人に過ぎず、彼をコーヒー史に真誠かつ実直に位置付ける研究者としての資質は有していなかったようだ。
《1965年には三浦義武が世界ではじめて缶コーヒーを考案しますが普及にはいたりませんでした。1969年にUCCが独自にミルク入りの缶コーヒーを開発してから全国的に普及していくのです。》 (旦部幸博 『珈琲の世界史』 pp.201-202/講談社:刊 2017)
《こうして「ミラ・コーヒー」は約三年で市場から姿を消した。(略) 翌年四月、義武と長年取引をしていた上島珈琲が「コーヒーオリジナル」という缶入りのコーヒー乳飲料を発売し、その翌年に開かれた大阪万博で、炎天下に展示施設への入場待ちをする人たちが買い求めて大ヒットした。義武はどんな気持ちでこれを見ていただろうか、今となっては知る由もない。》 (神英雄 『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』 p.60)
神英雄の下劣極まる筆致は、缶コーヒーの歴史にも及んでいる。その記述は、三浦義武にとって大恩あるはずのUCC上島珈琲に対して《批判的に揶揄》するかのようだ。仮にも上島忠雄(1910-1993)が存命中に読んだならば、どんな気持ちになっただろうか、今となっては知る由もない。そう私が揶揄したくなるほど、三浦義武にとっても上島珈琲にとっても神英雄の僻見は迷惑千万な話だろう。視点や立場の違いを云々する以前に人間として性根が腐りきっているからだ──それは私にしても同じことだが──あくまでも研究者としての矜持があるならば口を慎み筆を断つべきである。
『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』は、三浦義武が独創した「カフェ・ラール」の実態さえも明晰にしないまま、「コーヒーの薫るまちづくり」へと暴走している。ひょっとして神英雄の著述は、ご当地称揚に偏向して客観の合理を忘れた、コーヒー史論における一つの徒(仇)花のようなものであった。『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』は、コーヒー界にとって最悪の偉人伝である。
《ちょうどその頃、文学者やその他の知名の人たちの間で、たいへんもてはやされた三浦義武という、コーヒーマニアがいた。彼は西武線の沼袋駅近くのお宮さんの下で、お茶とセト物などをわずかに並べた茶の店を営んでいたが、人に取り入るのが上手で、実際にはどれほどコーヒーの前歴があったか、そのことになるとほとんど明かさないから、誰にもよくは判らなかったが、ともかく、なかなか広い顔の持ち主であった。偶然というよりも、ある時訪ねて来たのでその人を知った。彼は自分独特の濃厚コーヒーを持っていて、そのため相当のファンがいるので、是非、公開の席が欲しいというような希望から、親戚の山田忍三が白木屋の専務だったので話して、七階の蘭の間を借して貰った。》 (井上誠 『珈琲物語』 pp.277-278/井上書房:刊 1961)
《その頃義武はあちこち訪ねては、自慢の濃厚コーヒーを披露して評判を得ていた。特に小説家の片岡鉄兵によって「カフェ・ラール」と名付けられた極めて濃厚なコーヒーが食通の間で話題になっていた。それに目をつけたのが白木屋再建に奔走していた山田忍三専務だった。山田は七階食堂でコーヒーを楽しむ会を開くように懇願し、白木屋食品部長のポストを用意した。》 (神英雄 『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』 p.19)
1935(昭和10)年に白木屋で催された「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」が、誰が希望して何方から懇願されて始まったのか、私には判らない。井上誠(1898-1985)が真誠かつ実直な人物と私は捉えていないが、その僻様は三浦義武にしても同じであろう。だが、これについて神英雄は『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』で次のように記す。
《義武は、全霊を傾けて取り組んできたコーヒーを取りあげられ、コーヒー業界から姿を消した。これについて井上誠は『珈琲物語』で次のように記す。
〔前略〕三浦にしても、せっかく名声を得ながら何時のまにか消えたのは、知人が多くても業界には、容れられない異端者だからで──それは私にしても同じことだが──飽くまでも研究者として残っていたなら、彼は彼なりの業績を上げ得たのではなかったかと、惜しい気がする。三浦は松江の郷里へ帰った筈だが、会がなくなってからは一度も顔を見せない。〔中略〕ひょっとして三浦の会は、日支事変のはじまる直前に見せた、コーヒーの一つの仇花のようなものであった。十五年にある筈の日本のオリンピックも、国際情勢の悪化から延期された、輸入も先行き不安だったので、コーヒーの遊びなどは、世間から白眼視されたとも言えよう。 〔井上誠 『珈琲物語』、一九六一年〕
傲慢で義武を見下したような文章から、井上が義武の仕事を何ひとつ判っていなかったと判る。井上は、義武を栄誉・名声や権力を欲しがる人だと思いこんでいたのだ。だが義武はそんな瑣末なことなどに関心を持っていなかった。コストを度外視してでも美味いコーヒーを淹れ、多くの人を喜ばせたいと願っていたのだ。それは、アマチュア的な発想であり、プロの井上に理解できるはずもなかった。なお、「三浦義武のコーヒーを楽しむ会」を「仇花」と批判的に揶揄した井上だが、彼は昭和二五(一九五〇)年から白木屋デパートで「コーヒーを楽しむ会」を開いた。(略) 結局、義武に対する誤った評価は、井上だけでなくコーヒー業界にいた人々の共通のものだった。所詮、業界人にとって義武は同業者ではなく、コーヒーマニアの一人に過ぎず、彼のコーヒーへの熱い情熱は理解できなかったようだ。》 (神英雄 『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』 pp.29-31/帰山人記:引用部分に〔中略〕とあるが、原著は文が続いていて略されてはいない。間違いである)
傲慢で井上を見下したような文章から、神が井上という人物を何ひとつ判っていなかったと判る。実は井上誠こそが栄誉や名声や権力を欲しがる人だったのかもしれない。だが、三浦義武が《そんな瑣末なことなどに関心を持っていなかったと思いこんで》いる神英雄には、他者の人格を断ずる謂れがない。《それは私にしても同じこと》という井上の自虐すら理解できない神、その発想は井上を貶めて三浦を称揚するという僻見に満ちている。結局、井上に対する神の誤った評価は、井上だけでなく三浦義武にも共通するものだった。所詮、神英雄にとって三浦義武はご当地の偉人に過ぎず、彼をコーヒー史に真誠かつ実直に位置付ける研究者としての資質は有していなかったようだ。
《1965年には三浦義武が世界ではじめて缶コーヒーを考案しますが普及にはいたりませんでした。1969年にUCCが独自にミルク入りの缶コーヒーを開発してから全国的に普及していくのです。》 (旦部幸博 『珈琲の世界史』 pp.201-202/講談社:刊 2017)
《こうして「ミラ・コーヒー」は約三年で市場から姿を消した。(略) 翌年四月、義武と長年取引をしていた上島珈琲が「コーヒーオリジナル」という缶入りのコーヒー乳飲料を発売し、その翌年に開かれた大阪万博で、炎天下に展示施設への入場待ちをする人たちが買い求めて大ヒットした。義武はどんな気持ちでこれを見ていただろうか、今となっては知る由もない。》 (神英雄 『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』 p.60)
神英雄の下劣極まる筆致は、缶コーヒーの歴史にも及んでいる。その記述は、三浦義武にとって大恩あるはずのUCC上島珈琲に対して《批判的に揶揄》するかのようだ。仮にも上島忠雄(1910-1993)が存命中に読んだならば、どんな気持ちになっただろうか、今となっては知る由もない。そう私が揶揄したくなるほど、三浦義武にとっても上島珈琲にとっても神英雄の僻見は迷惑千万な話だろう。視点や立場の違いを云々する以前に人間として性根が腐りきっているからだ──それは私にしても同じことだが──あくまでも研究者としての矜持があるならば口を慎み筆を断つべきである。
『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』は、三浦義武が独創した「カフェ・ラール」の実態さえも明晰にしないまま、「コーヒーの薫るまちづくり」へと暴走している。ひょっとして神英雄の著述は、ご当地称揚に偏向して客観の合理を忘れた、コーヒー史論における一つの徒(仇)花のようなものであった。『三浦義武 缶コーヒー誕生物語』は、コーヒー界にとって最悪の偉人伝である。
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