はじめまして、北海道に住んでいるものです。
火山の避難行動についてですが、2000年の有珠山噴火において、一万人以上の避難がスムーズに行われたため、一人の死者も出さずに済んだ経験をみれば、(たとえ有珠山が噴火予知しやすい山であることを鑑みても)個人の判断による避難は無駄に混乱を招き、被害を増やすものになると思いますが、地質や科学を専門にされている早川先生のご意見はいかがでしょうか?
あの噴火は岡田弘先生の啓蒙もかなりあったと思います。
有珠山噴火の前にも、南西沖地震の津波で、避難勧告の遅れから多大なる被害がでたこともあり、個人の判断に委ねることの危険さを身を以て知ったものの個人的感想ですが。
2000年3月の有珠山噴火では、避難指示に反して自宅に留まった男性を噴火が一段落したあと装甲車で救出(あるいは強制排除)に行きました。全員が避難したから誰ひとり死ななかったのではないようです。
2000年8月の三宅島噴火では、東京都は島人が死んでもかまわないと思ったようにみえます。8月18日のクライマックス噴火で全島が噴煙の下に隠れましたが、幸いなことに死者はひとりも出ませんでした。噴火が終わって9月になってから、東京都はどういうわけか避難指示を出しました。
1991年6月の雲仙岳噴火では、当局が火山の危険を正確に伝えることができなくて43人が犠牲になりました。そのあと、教訓が効きすぎて、広範囲に警戒区域を敷いたため莫大な私有財産が失われました。住民の心と生活に回復不能の打撃を与えました。
以上の事例を知っているから、個人の判断を許さない考え方に私は賛成しません。
twitterで意見を述べたらブロックされたんですが、なんで言ってることとやってることが違うんですか?
「意見陳述はよいが、指図は控えてほしい」すら嘘なのに、あなたの言ってることの何を信用したらいいんですかね?
http://twitter.com/HayakawaYukio/statuses/18342197934
Twitterでの上記のツイートに対しての質問です。
Twitter上でも質問したのですが、ブロックされたようなのでこちらのコメント欄にて質問させていただきます。
新生児にビタミンKを投与しなかった時の死亡数=山岳遭難での死亡数と同等であり、
「登山者は、死ぬかもしれないことを承知の上で山に登る。そして登山することを日本社会は許している」とのことですが、
「死ぬかもしれないことを承知の上で山に登る」登山者と、適切な処置をされずに助産婦に虐待死された乳児を同一視するのはどのような考えなのでしょうか。
リスクを選ぶことが出来る登山者と、リスクを選ぶことが出来ない乳児を同一視するのは、助産婦による虐待死を肯定しているようにしか思えません。
「安全は保証されていない」からといって、回避が容易であるリスクを回避せずに死亡させることについてはどうお考えなのでしょうか。
火山の噴火による避難と、栄養を投与することに対するリスクは全く違うと私は考えます。
そもそも高々1/2000という低確率で死ぬからと言ってリスク回避をしないことは人道的に見てもおかしいのではないでしょうか。
お忙しいところ恐れ入りますが、お手すきの時に返答願います。
・「助産婦に虐待死された乳児」が存在する事実を私は確認していません。仮にそういうものがあったとしても、私はそれを肯定していません。
・年間死亡数がほぼ同じだと書きました。死因については触れていません。
・「回避が容易であるリスクを回避せずに死亡させること」について、山口のビタミンK不投与の問題に限ってお答えすれば、個人の裁量権に属すると考えています。その責任は法律に基づいて問うべきだと考えています。法に基づかない責任追求はしません。
・リスク評価は、さまざまな加害要因を同様の尺度で定量的に評価するものです。そのとき、死亡確率はすぐれた尺度であることが知られています。加害要因の性質の違いはみません。数値だけで比べます。非情なことのようにみえるのでしょうね。でも、これがリスク学という学問がとる姿勢です。
・人道的見地からでも、1/2000で死亡するレースに出場するひとを制止するべきだと思いません。1/2なら考えます。1/1なら権力による強制執行もありうると思います。
・なお乳児には思考力判断力がありませんから、乳児の法律的権利の行使は親権者が代行することになっていると思っています。
何で私の意見だけ承認待ちのままなんですか?
ご返答ありがとうございます。
> ・「助産婦に虐待死された乳児」が存在する事実を私は確認していません。仮にそういうものがあったとしても、私はそれを肯定していません。
今回の件を伝えるニュースには「しかし、母親によると、助産師は最初の2回、ビタミンKを投与せずに錠剤を与え、母親にこれを伝えていなかった」[*1]
との一文があり、ビタミンKを与えなかったことが原因のビタミンK欠乏症で乳児が死亡したことは、
「自分の保護下にある者(ヒト、動物等)に対し、長期間にわたって暴力をふるったり、世話をしない、いやがらせや無視をするなどの行為を行うこと」[*2]
という虐待の定義に当てはまると私は考えます。
> ・リスク評価は、さまざまな加害要因を同様の尺度で定量的に評価するものです。そのとき、死亡確率はすぐれた尺度であることが知られています。加害要因の性質の違いはみません。数値だけで比べます。非情なことのようにみえるのでしょうね。でも、これがリスク学という学問がとる姿勢です。
リスク評価という面で見ても、火山噴火で避難することに掛かるコストとリスクリターン、乳児にビタミンKを与えないことに掛かるコストとリスクリターンは全く違うものであり、
絶対回避出来るリスクと絶対回避出来ないリスクを同一視するのはおかしいのではないでしょうか。。
そもそも人の命を預かる助産婦がビタミンKを与えずに乳児を死なせることを、リスク評価で見る事自体が間違ってるのではないでしょうか。
> ・人道的見地からでも、1/2000で死亡するレースに出場するひとを制止するべきだと思いません。1/2なら考えます。1/1なら権力による強制執行もありうると思います。
自分の意思で参加するレースと、自分(乳児)の意思と関係なしに投与されるべきビタミンKを投与しない乳児への虐待は全く別の性質です。
早川先生は乳児の生命はレースと同等の性質であると思っているのでしょうか。
以上の点が個人的に疑問に感じました。
[*1] http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/national/20100709-OYS1T00214.htm
[*2] http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%90%E5%BE%85
読売新聞が書いた「「しかし、母親によると、助産師は最初の2回、ビタミンKを投与せずに錠剤を与え、母親にこれを伝えていなかった」のうち、「ビタミンKを投与せず」はおそらく事実でしょうが、「母親にこれを伝えていなかった」を事実だと私は認めていません。この事実認定に争いがあるからこそ、民事訴訟が起こされたのだと考えています。
絶対回避できるリスクが存在するとは考えていません。ビタミンKを投与しても同じ疾病にかかる幼児は、確率は小さくなるだろうが、いるだろうと(専門外ですが)想像します。山口の幼児死亡をリスクからとらえる視点が間違ったことだと私は思っていません。
幼児はみずからの意思で選択することができないから、保護者がその選択を代行します。生命を賭すという点で、レースとビタミンKは同じだと考えています。
個人的に疑問を感じるのはかまいませんが、法律にないことを他者に強いるときはよほど慎重であるべきだと考えます。
はじめまして。エントリを読ませていただきました。読んでいて1つだけ疑問に感じたことがあり、コメントさせていただきます。
今回の件が、「母親の信念・判断で、助産師が勧めたK2シロップを拒否した」のであれば、ご指摘の通りこれは信じるかどうかの問題だと思います。
しかし、今回のケースでは「助産師が」K2を与えなかった、と聞いています。
助産師にどこまでの医学的専門性を求めているか、という議論は別途あるかと思いますが、少なくとも現実には、一定の「専門家」としての知識を持ち、信頼されている立場かと思います。
その立場の方が、一定のリスクのあるもの(1/2000 は率にすると小さいですが、裏返すと100万人のうち5000人は遭遇しうるリスクです)の対処を自分の信念だけで拒否する、または拒否することを他人に推奨するのはいかがなものでしょうか。
私はホメオパシーを宗教だと思っています。自分自身は信じませんが、信じる人を否定する気もありません。
さして他人に危害を加えるものではなさそうですし、身近な親族がのめりこんで「症状はありがたい」とか言い出さない限りは干渉することもないでしょう。
また、助産師さんがそれを紹介するのも、害のない範囲であれば一般の「布教活動」と考えます。
しかしあくまで「害のない範囲」が前提です。それこそ「生命の危険を賭けて」いる現場で、そのリスクをかけている行為であること、この助産師は母親に十分説明できていたのでしょうか。(このあたりもきっと裁判の争点なのでしょうが)
話が長くなってしまいました。今回いわゆるニセ科学によって「助産師(専門家)が拒否するよう母親(一般人)を誘導した」(「母親(一般人)が自分の信念で拒否した」のではなく)という点についてはいかがでしょうか?
山口の事例について私は、「助産師(専門家)が拒否するよう母親(一般人)を誘導した」事実を確認していませんので、答えられません。
ニセ科学の問題は、ニセ科学が正しいか間違いという議論ではなく、それを発信する個人が善意の第三者にニセ科学を介して、生命・財産・教育知識などに損失を与える可能性がある場合、厳然と強制的に規制されるべきであると考えます。さて、避難を強制するかどうか・・桜島や阿蘇周辺 島原など、災害レベルの高いと分かりきった地域への居住は、強制避難の適用ハードルを下げるなど条例などで該当地域の状況に応じたコンセンサスを平時から取っておくべきです。危険地帯に住むことは、行動の自由や財産の保持も制限されるリスクが高いということへの認識を持たせておくということです。これは、住民の安全を守るばかりではなく、初動救助活動の効率を高め救助活動する側の人間の生命財産も守ることを意味しています。この視点が抜けていませんか?危険地帯に住む場合、個人の選択の自由を無制限に認めることと、救助に向かう第三者を危険にさらすことは比例すると思います。いくら選択が自由でも、人一人生存していれば救助しないわけにはいかないという現実があるのです。ですから、避難による補償がないあるいは少ないことと、自ら危険地帯に住むことはワンセットだと思いますよ。危険を理解して住んでいるのだから。
Author:早川由紀夫
私は火山の地質学が専門です。そのなかでも、噴火によって火山から吐き出される火山灰の分布に強い関心をもっています。福島第一原発から放出された放射能の分布は、火山灰に関する私の専門知識を応用してうまく理解することができます。
@HayakawaYukio