悟りの体験はその後が大切
悟りを開くと言いますと、それは物凄い事であると考えられているかもしれません。それは、仏教の考え方の影響があると思われます。
仏教では、悟りを開くことを、解脱と言いまして、この世の束縛を一切超えてしまって、永遠の仏陀になることとされます。
しかし、その考え方はちょっと置いておいた方が良いと思います。
悟りは誰でも開けます。ただし、悟りを開いたからといって、すぐに仏陀やキリストになるわけではありません。
鈴木大拙という著名な仏教学者が、菩提樹の下で悟りを開いた時のお釈迦様の頭の中に、大きなクエスチョンマークがあったと言ったようですが、実際、お釈迦様は、悟りを開いてから、何日もそこに座り続けたと言われます。
それは、悟りの楽しみを味わったというのもあるかもしれませんが、何と言いますか、悟りを定着させるとか、悟りと一体化するとか、現代的に言うと、右脳の強烈な閃きを左脳に移すのに多少の時間がかかったのだと思います。
心理学者のアブラハム・マズローは、至高体験という精神状態を発見しましたが、至高体験は、英語で“Peek(最高の) Experience(体験)”と言い、「至高体験」とはまさにそのままの直訳です。これを悟りと言って良いと思います。なぜなら、悟りこそ最高の体験に他なりませんから。
マズローは、偉大な人間とそうでない人間の「唯一の」違いは、この至高体験があるかどうかだけであるとまで言いました。そして、至高体験を人為的に起こすことは不可能と考え、それを得るには、ただ幸運に頼るしかないと言っていました。
しかし、マズローと交流のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、至高体験は人為的にも起こせるし、ありふれたもので、誰でも体験していることを発見し、マズローも認めるようになったと言われます。
悟りを開いても、あるいは、至高体験が起こっても、それはすぐにすり抜けてしまうのが普通だと思います。
強烈な悟りや至高体験が起こった時、確かに一瞬、宇宙の真理のようなものを感じ、気分が高揚し、幸福感を感じることがあります。ウィルソンもマズローも、至高体験とは、つまるところ、自分が幸運だと感じることだと言っていたと思います。
しかし、それはすぐに消え、日常の意識が戻ってきます。
それはなぜかというと、こういうことです。
至高体験は、おそらく、ウィルソンも認めていたと思いますが、ロマン・ロランの言った大洋感情と同じものです。それは、自己が全てと一体になった没我の状態です。
至高体験とは、まさに、没我の状態で、英語で没我をエクスタシーと言います。
しかし、自我が戻ってくると、当然、その状態でなくなります。
むしろ、強い至高体験、大洋感情、悟りを体験すると、かえって自我が強くなってしまうことがよくあります。いったん引っ込んで、存続の危機を感じた自我が、しっかりと心に居座ろうとするかのようです。
それが、新約聖書に書かれた、悟りを開いたイエスが悪魔に試されたことであると思います。悟りを開いても、悪魔の誘惑に負け、かえって落ちた人間になってしまうことが多いようです。
だから、巷によくいる「宇宙の真理を見た」なんて人には、よくよく注意しないといけません。
スポーツ選手というのも、悟りの体験が多いものですが、特に現代のように、栄光や金が待っているようなものでは、残念ながらほぼ全て悪魔の誘惑に負けてしまっているように思います。
また、逆に、悟りしかとりえが無いような貧しい宗教家や精神主義者も、悟りによりかえって自我が盛り返して高慢で自己中心的な人間になるものだなあと思うこともあります。難しいものです。
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