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2026-04-27

anond:20260427185045

第二次世界大戦に至る列強間の建艦競争

1936年末、日本の脱退宣言によりワシントン条約は失効し、海軍休日は終わりを告げた。

以後第二次世界大戦に至るまでの数年間は無条約時代と称され、各国とも新たな建艦競争にひた走ることになる。

日本自主的かつ適正な国防所要兵力標準として戦艦12隻、航空母艦10隻以下を定め、海軍国防所要兵力整備十年構想に基づいて軍拡を開始した。

1937年第三次海軍軍備補充計画では戦艦2隻、航空母艦2隻等66隻を建造している。この時点で日本は、過度の建艦競争を予想していなかった。

しかし対抗するアメリカは、経済恐慌からの立て直しの一環として建艦計画もその主要な柱の一つとしており、日本に数倍する建艦をスタートさせた。

1934年第一次ヴィンソン案こそ条約保有枠を満たす程度の比較的小規模なものだったが、1938年に無条約時代最初計画として成立した第二次ヴィンソン案は海軍力25%増強を謳い、戦艦3隻と航空母艦1隻等の増強を決めた。

既存計画と合計するとその規模は日本の4倍にも達するものであり、想定以上に過激な反応を見た日本は新たな対抗手段を求められた。

1939年、当初予定から1年繰り上げて第四次海軍軍備充実計画策定され、戦艦2隻、航空母艦1隻等80隻の建造を開始した。

この計画ではアメリカの建艦に互することの困難さを認める兆候が早くも現れており、量的な対抗は不可能と考えられ始めていた。

だがアメリカは手を緩めなかった。

から第二次世界大戦が勃発したこともあり、1940年第三次ヴィンソン案ではさら海軍力25%増強を目指した。

当案は議会査定11%増強に抑制されたが、それでも戦艦2隻と航空母艦3隻等を追加するもので、対抗上日本も第五次海軍軍備充実計画策定戦艦3隻、大型巡洋艦2隻、航空母艦3隻等第三次と第四次を合計したものにほぼ等しい大計画立案1942年からの着手を目指した。

そして1940年7月ドイツフランス攻略を受けて発表された最大の建艦計画日本震撼させた。

両洋艦隊法、スターク案と呼ばれた同計画戦艦7隻、大型巡洋艦6隻、航空母艦18隻など216隻、海軍力実に70%増強を目指すもので、当時の連合艦隊総力に匹敵するという膨大な計画は、もはや日本追随をまったく許さなかった。

対抗案として1944年スタートの第六次海軍軍備充実計画検討され、戦艦4隻、大型巡洋艦4隻、航空母艦3隻などの建造を構想してはいたが、第五次計画の実現さえ危ぶまれる情勢の中、その実現はほとんど不可能と思われた。

急速に開き始めた日米間の戦力差(1943年時点で対米5割、44年時点で同3割まで戦力比が低下しまったく勝ち目はなくなるとされた)に危機感を抱いた日本では、

戦力比が優位なうちに開戦を目指す論が勢いを増し始める。

着手時期の関係1941年には一時的日米戦力比は対米8割を超えるまでに改善すると見込まれていたからで、一連の流れは太平洋戦争開戦の少なくとも一因を担ったと評されている。

特に翔鶴」「瑞鶴」2隻の正規空母の戦力化時期は、12月という開戦時期を決定する直接の動機の一つとなった。

2025-11-05

山本五十六三国同盟締結前にもっと主張していればどうなったんだろうか

1940年 日独伊三国同盟締結前

山本「1年前、海軍当局三国同盟同意しなかった。その理由は、この同盟は必ず日米戦争を招来するものであり、その場合海軍軍備の現状を以てしては勝算がない

勝算を得るの途は唯一つ航空軍備の充実あるのみである。然し、それには年月を要する。それ故、日米戦を必至とするが如き条約を締結すべきでないとした。

その後、僅か1年を経過したのみで、対米戦に自信のもてる軍備ができよう筈がない。然るに、現在海軍当局は、敢て三国条約同意しようとしている。自分は、現当局が果して勝算の立つ軍備を早急に整備する自信ありや否やを問うつもりで、詳細に資料も準備して、会議に臨んだのであった」

会議席上

山本五十六「8カ月前まで私が次官を勤めておった時の政府の物動計画は、その8割まで英米圏内の資材でまかなうことになっておりました。然るに三国同盟の成立したときには、英米よりの資材は必然的に入らぬ筈でありますが、その不足を補うため、どういう計画変更をやられたか、この点を聞かせて頂き、連合艦隊長官として任務遂行して行きたいと存じます

会議

及川事情やむを得ないものがあるので、勘弁してくれ」

山本「勘弁ですむか」


同年近衛首相

近衛「日独軍事同盟は、以前は海軍立場からは種々困難ありとの事なりしに、此度は連絡会議にて海軍も直に同意せられ、実は不思議に思い居たり、然るに其後海軍の様子が少しはっきりせず、おかしいと思い居りしに、同盟成立後2週間目位に海軍次官が懇談に来られ、物動方面等容易ならぬ事を説明されたり。

然し、海軍戦備には幾多の欠陥あり、万難を排し、速に之を整備せざれば、国防上憂慮すべき事となるとの説明ありたる為、自分は少なからず、実は失望せり」

山本「それは是非やれと云われば、初め半年か1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば、全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争回避するよう、極力御努力を願いたい」

戦後井上成美山本さんは、何故あの時あんなことを言ったのか。軍事素人優柔不断の近衛公があれを聞けば、とにかく1年半は持つらしいと曖昧な気持になるのは決り切っていた。海軍は対米戦争やれません。やれば必ず負けます。それで連合艦隊司令長官資格が無いと言われるなら私は辞めますと、何故はっきり言い切らなかったか

https://bunshun.jp/articles/-/46576

2013-02-03

http://anond.hatelabo.jp/20130203025001

 そういう歴史必然性みたいなのもよく聞く話なんだが、実際にはやはり反省意味はある。

 たとえば、第一次世界大戦後の戦後処理。知っているとは思うが、第一次世界大戦後、敗戦国ドイツに対して、フランスを中心とする戦勝国は莫大な賠償金を課した。世界恐慌などの不幸もあったが、賠償金の支払いはドイツ戦後復興を極めて困難にした。当時でも、ケインズなんかはドイツ経済復興を支援すべきだと論じていたが、復讐燃えるフランスを中心とした国々はドイツを徹底的に痛めつけることを望んだ。その結果がヒトラーの台頭だ。対ヒトラーとしては、イギリス宥和政策の失敗なんかが挙げられるが、実際には第二次世界大戦の根っこはそうした戦後処理のまずさにあった。そうした反省の結果、第二次世界大戦後には敗戦国に対して実行不可能な賠償を課すという方針は避けられるとともに、金融不安が生じさせる政治的危機を回避するために国際機関が設置された。

 こういう側面を見ると、歴史反省する意味はあると思わない?日本にしても、昭和16年夏に「日米戦わば必敗」という結論が見えていたにもかかわらず、戦争突入してしまった。それ以外でも、日本の膨張的な外交政策に対する批判は当時から存在していた。「アジア解放」を訴える日本がなぜ中国戦争しているのか、どうしても理解できなかったという回顧も聞く。日本人の多くが中国人朝鮮人に対して差別的な意識を持っていることへの嘆きもあった。にもかかわらず、そうした批判の表明を困難にしてしま空気が生み出された原因は考える必要がある。

 もちろん、当時において個人のレベル歴史の流れを変えることは不可能だったろうが、後に生まれた者の特権として反省はある。その意味でも、歴史は「過去現在の対話」なんだろう(E.H.カー)。そうしたアドバンテージを活かすこともなく「仕方がなかった」で済ますというのは一種の思考停止だと思う。過去から学ぶことを否定する態度のうえにある改憲論はやはり怖い。

 
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