影響を感じさせる「愛読書」を翻訳 村上さんが「菅ちゃん」と呼んだわけ=完全版
首相に就任した菅義偉氏を、村上春樹さんが「菅ちゃん」と呼ぶのを耳にした。4月に放送されたラジオ番組「村上RADIO」(TOKYO FMなど全国38局で不定期放送)の中でのことだから、まだ安倍晋三氏が突如退陣を表明するなど誰も(たぶん)想像もつかない時期のことだ。この番組では毎回、DJを務める村上さんが最後に音楽界の偉人などの言葉を紹介するのが恒例になっている。その回の「最後の言葉」は、村上さんと同じ1949年生まれの米国ロック界のスター、ブルース・スプリングスティーン氏のものだった。
TOKYO FMのウェブサイトによると、放送での「菅ちゃん」に関わる村上さんの発言は次の通り。「実は、僕はブルース・スプリングスティーンと同じ年の生まれなんです。ついでに言うと菅官房長官も同い歳(どし)です。しかしブルースと菅ちゃんと同い歳というのは混乱するというか、なんか戸惑いますよね。自分の立ち位置がよくわからなくなるというか……まあ、どうでもいいんですけど」
こう種明かしすると、なあんだ、そんなことかと、肩すかしを食ったように思われるかもしれない(すみません)。べつに菅氏と顔見知りというわけではなく、単に「同い歳」に関して引き合いに出したに過ぎないから。ちなみに、菅氏は48年12月生まれで、49年1月生まれの作家とは同学年だが、スプリングスティーン氏は49年9月生まれなので、村上さんと「同じ年の生まれ」ではあるが、厳密にいうと菅氏と「同い歳」ではない。まあ、これも同世代意識を述べた発言の趣旨からいえば、ささいな話だが。
『明日なき暴走』に感じたリアルな責任感
ところで、村上さんが紹介した、くだんのスプリングスティーン氏の言葉を同ウェブサイトから引用してみる。文中の「明日なき暴走」は同氏のミュージシャンとしての名声を確立した75年発売のアルバムだ。
「『明日なき暴走』のあとで僕が感じたのはリアルな責任感だった。自分が歌っているものと、オーディエンスに対する責任だ。僕はその責任と共に生きていかなくてはと思った。そして僕はそこに飛び込んでいった。真っ暗闇の中に足を踏み入れ、あたりを見回し、そこで僕が知っているもの、僕に見えるもの、僕が感じることについて曲を書きたいと思った。僕らの足下から簡単には消え去らないものごとに結びつく、大事な何かを見つけたいと思った」
これを読み上げた後、作家は「彼のそういう気持ち、同じ表現者としてと言うとおこがましいですが、僕にもリアルによくわかります」と語っていた。ここから先は筆者の勝手な想像になるけれど、「責任感」「足下から簡単には消え去らないものごとに結びつく、大事な何か」といった言葉には、戦後のベビーブーム世代、カウンターカルチャー世代としての国境を越えた、ある共通の志が表れているように思われる。簡単にいうと、青年時代に権力、権威への異議申し立てを行った者としてのまっとうな生き方、あるいは社会的な公正や多様な個人の尊重にもとることのない表現を追求する姿勢である。
さて、では「菅ちゃん」はどうか、その「責任感」は、ということになるが、文学や音楽の表現の問題と、政治、それも一国の首相が担うものとではあまりに異なり、単純な比較はできないし、すべきでもない。ただ、「ちゃん」付けに同世代としての、そこはかとない親しみがうかがえる一方で、作家が混乱や戸惑いを口にしているところには、菅氏という人物に、どこか異質な感じを持っている様子も伝わってくる。ちょっと想像が過ぎるかもしれないが……。
「僕にとっての大切な愛読書」
さて、村上さんが翻訳した米作家、カーソン・マッカラーズ(17~67年)の長編小説『心は孤独な狩人』(新潮社)が8月下旬、刊行された。「『最後のとっておき』にしていた古典的名作」(帯のコピー)という触れ込みで、実際「訳者あとがき」では近年、新訳を手がけたフィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』やチャンドラー『ロング・グッドバイ』、サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、カポーティ『ティファニーで朝食を』などと並べ、「あとに残されているのは、このカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』だけとなった」と自ら書いている。20歳ごろに初めて読んで以来の「僕にとっての大切な愛読書」とも記している。しかし、よほど米文学に通じた人でなければ、マッカラーズをこれらの作家と同等の存在として認知しているとは思えない。
それは村上さんもよく分かっていて、例えば米文学者、柴田元幸さんとの6年前の対談では「ずいぶん過小評価されてますよね」と話し、柴田さんも「かつては英文科の女子学生のあいだでけっこう人気があったんですけどね。いまはあまり知る人もいないかなあ」と応じている(「帰れ、あの翻訳」、『本当の翻訳の話をしよう』所収)。…
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