1960年代、原口市長の「輝ける都市・神戸」にも影(負)の部分があった、宮崎市政はその影に光を当てることからスタートした、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その2)

 歴史は不思議なもので、いつでも相異なる2つの機会を用意してくれる。私たちが神戸市の企画調整局を訪ねたその日、前後してその部屋を訪れた(というよりは押しかけた)一群の集団があった。挨拶もなく突然激しい言葉のやりとりが始まり、やがてそれが詰問に変わった。呆気に取られて立ちすくんでいた私たちが漸く我に返ったのは、嵐のような集団が立ち去った後のことだ。「あれがかの有名な丸山地区の人たちです」と教えてもらったのは、それからのことである。

 どんな都市にも内と外があり光と影がある。だが、遠くから神戸を見ていた私達には余りにも光が眩しすぎてその影が見えない。その日が企画調整局だけの話で終わったのであれば、資料を貰い月並みの見学をして帰ってきたかもしれない。しかし、市役所を訪れたその日にたまたま丸山地区の人たちに遭遇したことは、天の啓示というべき出来事だった。丸山地区との出会いがその後の私たちのまちづくり研究を大きく変え、新しい見地を切り開く切っ掛けになったからである。リーダーの今井仙三(故人)さんたちに直ちに連絡を取り、一同揃って現地を訪れ各所をつぶさに案内してもらって話を聴いたのは、それから1週間後のことだ。

神戸市長田区の山手に位置する丸山地区は戦前、緑豊かな別荘地だった。しかし、戦後それも高度経済成期に入ってから急速に「スプロール開発」(虫が葉っぱを食い荒らすような無秩序な開発)が始まり、六甲山系の麓は至るところで山肌が削られ、まるで「アパッチ砦」(院生たちが名付けた)のような様相を呈していた。急勾配の切り立った崖の上にマッチ箱のような住宅やアパートが建ち並び、そこから排水管が蜘蛛の巣のように垂れ下がって家庭汚水がそのまま下の道路の側溝に流れ込んでいた。

そこには公園らしい公園もなく、子どもたちの遊び場もなかなか見つからない。学校へ行く道も狭くて埃っぽく、そして危険だった。宅地造成工事が至るところで行われているのでダンプカーが砂塵を上げてひっきりなしに通り、子どもたちは崖側の壁に身をよじらせて車を避けなければならない。神戸では都市計画のマスタープランに沿って整然としたまちづくりが行われているものとばかり思い込んでいた私たちにとって、その光景は余りにも衝撃的であり、半世紀近く経った今も脳裏から消えることがない。

後からわかったことだが、神戸では「丸山のまちづくり」はすでに有名だった。市役所に激しく掛け合うだけでなく、「有言実行」のスローガンのもとに数々の創意溢れる活動を自ら率先して展開することでその名前が轟いていたのである。遊び場がなければ近くの地主に掛け合い、「いつでも土地を返す」との条件付きで遊び場を地区総出で整備した。それを「善意の汗」を流す「勤労奉仕」だと尊び、その中から生まれる人間関係や連帯の気持ちを「まちづくりはひとづくり」という言葉で表現した。後に、私が「丸山テーゼ」と名付けるまちづくりの真髄が紛れなくそこには存在していた。

当時、住民運動や市民運動に参加して研究することは、「学問研究の中立性・普遍性を損なう」と見なされ、建築学会でも都市計画学会でも「純粋な研究」としては扱われなかった。まちづくりの研究は現場に行かなければわからない。なのに、現場で住民と一緒に調査したり議論したりすることは、「学問研究の一線を超える」ものとしてタブー視されていたのである。研究者たるものは市役所の審議会や委員会で中立的な意見を述べることはあっても、「住民運動=ゴネ得」につながるような行動は慎まなければならない。学会ではこんな空気が支配的だった(ちなみに京都大学に提出した私の学位論文の副題は「住民主体のまちづくり運動論序説」というものだったが、審査委員の1人の教授からこの副題では論文を通せないといわれ削除した)。

本来、まちづくりの研究は地域性の濃い学問分野である。だから地元の大学が真っ先に現場に出て調査や計画に当たるのがふさわしいと思う。だが神戸の大学の先生方は審議会で見かけることはあっても、現場には誰もいなかった。丸山地区で私たちが歓迎されたのは、私たちの専門性が優れていたわけでも経験が豊富だったわけでもない(駆け出しの若手ばかりだった)。とにかく都市計画やまちづくりを(一応)研究している専門家グループとの接点ができ、これまで自前・我流でやってきた自分たちのまちづくりの相談相手ができたことが嬉しかったのだ。

こうして神戸では初めて住民運動と専門家グループの協同作業が始まったのであるが、宮崎助役の意を受けた当時の企画調整局は極めて柔軟だった。それは原口市長時代も5期目になると、巨大プロジェクトの成功とは裏腹に公害やスプロール開発など開発事業の負の部分が大きくなり、この問題を超えなければ次の宮崎市長時代を築くことが困難だったからだ。宮崎助役には次の市長選に打って出るための新鮮なキャッチコピーが必要だった。そしてそれが「まちづくり」だったのである。(つづく)