『住みよい神戸を考える会』(神戸市、神戸新聞社、関学)の活動はダイナミックに展開された、丸山地区はその重点活動地域となり、「日本のまちづくり先進地区」との評価を受けた、阪神・淡路大震災20年を迎えて(その4)

『住みよい神戸を考える会』(神戸市、神戸新聞社、関学)の活動方針は驚くほど広範にわたり、かつ意欲的なものだった。1965年に策定したばかりのマスタープランには全幅の信頼を置いていたが、同時に「公害」「住宅」「交通」「スラム」など神戸の影の部分についても明確に意識していた。つまり『会』は、マスタープランを実現していく過程において神戸が抱える問題点を抽出し、その「一部手直し」を通して神戸を住みよい町にすることを意図していたのである。『会』の活動方針は調査と事業に分けられ、それぞれが極めて具体的に書かれている。今で言えば、都市行政の「シンクタンク」といったところだろうか。以下はその内容である。

【調査】
(1)全般的な市民意識についての調査
(2)問題別(公害、住宅、交通、スラム、その他)地域住民の要求開発の調査
(3)小・中・高いずれかの校区を対象とした、すべての住民のあらゆる角度からの要求開発調査(指定区域を選び、長期的な濃密調査)
(4)住民組織調査(現在、行政と住民はどのような型で結ばれているのかの調査)
(5)これまで市で行った調査結果の集大成
 以上、いずれの調査も長期にわたる継続・濃密調査とし、つねに住民の正しい要求の開発につとめたい。

【事業】
(1)住みよい町づくり住民懇談会:各区または町別、さらには問題のある地域を選んで、月に3回程度、懇談会を定期的に開く。
(2)郷土を映画で考える会:「マスタープラン」「市街地改造事業」「かけ橋計画」などの映画を巡回して行い、本格的な市民のPRにつとめる。月に3回程度
(3)マスタープランの展示会と説明会
(4)研修会:行政担当者・学者・新聞社の3者に、地域市民のオピニオンリーダーを加えて、月に2回程度の研修会を開き、ここで生まれた考え方を実践に移す。
(5)他府県の視察:問題によっては他府県での経験を吸収し、参考とするため、月に1回程度視察に行く。
(6)地域視察:実際に問題のある地域にはいりこんで、問題解決の糸口を見つけ出す作業と取り組む。
(7)マスタープラン実施計画審議会との交流:つねに審議会との意見の交流をはかり、円滑な市行政の前進に積極的な協力体制をととのえる。

 この活動方針を読むと、現在の(萎縮した)神戸市職員などはびっくり仰天するにちがいない。そこには「地域住民の要求開発調査」とか「住民の正しい要求の開発につとめたい」とか、とかく行政にありがちな上から目線の指導者意識は拭えないものの、「いずれの調査も長期にわたる継続・濃密調査とし」といった物凄い熱意と意気込みに溢れていた。これらの活動方針は「輝ける神戸」のパワーとエネルギーを遺憾なく印象付けるものであり、当時の地方自治体の水準を遥かに抜きん出たものだった。『会』は発足後直ちに活動を開始し、1966年3月に丸山地区で開催された第1回住民懇談会を皮切りに、以降、多彩でダイナミックな活動を展開する。

 丸山地区は『会』の重点活動地域だった。というよりは、神戸市の宅地造成工事を切っ掛けにして始まった「道路公害反対」の住民大会(1963年)が丸山地区文化防犯協議会の結成(1965年)につながり、それ以降、丸山のまちづくり運動は「戦う丸山」との姿勢を強め、神戸市が『65年計画』策定中の頃はすでに市幹部との交渉を連続して行うまでに存在感を高めていたからである。これは私の推測だが、丸山地区のまちづくり運動が宮崎助役に『会』のような行政と住民の架け橋(緩衝地帯)になる組織の必要性を痛感させ、『会』の設立を決意させたのではないかと考えている。『会』会報第3号(1969年5月)に、宮崎助役の次のような言葉を寄せた。

 「丸山の人達の要求は、はじめは唐突で単刀直入であった。丸山の地域を取り巻く様々な都市病理がすべて行政の責任だ。すぐに改善しろ、といった直線的な主張が殆どであった。私達には丸山の要求の真意すらなかなか理解できない状態で、丁度近頃の学生運動にみられるような不毛の対話にも似通っていた」
 「新聞・学者・行政が集まって対話のなかから住民のニーズをつかみ、欲求解決の途を開いていこうとする『住みよい神戸を考える会』と丸山の接触が、丸山の真意を行政語?に翻訳していく架け橋となった。それでも彼等のひとりよがりの言葉を一般の職員に理解させるには時間がかかった。だが、数限りない住民と行政との“もみ場”の試練を経て、いまでは行政と一緒になって住民の手でできることは積極的に協力していこうとする実践的な方向に進んでいる。いつしか行政の内部からも、『戦う丸山』は『考える丸山』に変わり、『実践する丸山』に変貌したとの評価が高まった」

 この文章は当時の住民運動に対する行政の姿勢(の変化)をよく表している。住民要求を「ひとりよがり」と決めつけ、行政の招いた都市問題を「都市病理」と言い換えるなど自らの責任は回避しているものの、もはや住民を無視して問題を放置することは許されず、住民との対話のなかで問題解決をする以外に方法がないことをよく認識している。そしてこの柔軟な姿勢が「宮崎カラー」となって「まちづくり行政」「コミュニティ施策」を生み出す素地になり、丸山地区は「美しい町づくり賞」や自治省のモデルコミュニティ事業指定第1号など数々の評価を我が物にしていくのである。(つづく)