「釈迦物語」はスゴ本
生々しい伝説からドラマティックな要素を剥ぎ取り、淡々とした筆致で諄々と説くのはひろさちやの十八番。一緒に解説される仏教の知識は、わたしの蒙を啓くのに役立った。
わたしが仏教を学ぶのは、楽に、幸せに生きるLifeHackがあるのじゃないかという卑俗な動機から。たとえば、怒りを"手放す"ための「怒らない技術」や、心配事で心のキャッシュメモリを食いつぶさせないための「考えない技術」は、そこから得たもの。tumblrで拾ったブッダの言葉は、手帖の1ページ目に書きつけてある。悟りを得ると、「"いま"が見える」というのは、「あっかんべェ一休」から得たものだ。
過去にとらわれるな
未来を夢見るな
いまの、この瞬間に集中しろ
Do not dwell in the past,
Do not dream of the future,
Concentrate the mind on the present moment.
本書で目ぇ剥いたのは、「苦」について。どうやらわたしは、とんでもない勘違いをしていたようだ。門から出るとき、老人、病人、死者に出会い、無常を感じたという四門出遊は聞いたことがあった。それが四苦(生老病死)であることも知ってはいた―――が、これらは「苦しみ」ではないのだというのだ。
生老病死に対する感覚は、相対的なもの。赤ん坊にとって「老いる」とは成長であり、喜ばしいことだ。老いて病苦に犯された肉体にとって、死は救済となる場合もある。
しかし、釈迦は、すべてが"苦"であると教える。"苦"の意味が違うのだ。"苦"はサンスクリット語で"ドゥフカ"といい、その本来の意味は、「思うがままにならないこと」。
"苦"が生じる因縁は、思うがままにならないことを思うがままにしようとする。その瞬間、われわれに「苦しみ」が生じるというのだ。たとえば、ままならない「老い」を、アンチエイジングと称して「老い」を拒絶するところに苦しみが生じるという寸法やね。
この説明は腹に落ちる。生きることも死ぬことも、老いることも病を得ることも、思うがままにならない。一時的な緩和はできてもコントロールはできない。同様に愛するものと別れる"苦"や、望むものが手に入らない"苦"などの「八苦」も理解できる。「二の矢を受けず」は、最初の"苦"から「苦しみの苦」をフリーにさせろという教えなんだね―――と、一編に分かる。これは、怒りを手放す技術や、心のキャッシュメモリを解放する方法につながってくる。
分かった目で眺めると、釈迦の生きる有様はまさに、「ままならないこと」のオンパレードになる。つきつけられる難問と、生臭い人間関係が引き起こす危機と、命を張った冒険と、心身を苛む悪魔の言葉(これは釈迦の内面を人格化したものらしい)―――の連続になる。手塚ブッダはドラマチックにしすぎだろうと眉唾で読んだものだが、なかなかどうして、「釈迦物語」の釈迦もエライ目ヒドイ目に遭う。
そこでは、自分探しにハマった若者を入信させる新興宗教の教祖としての一面や、弟子が話を聞いてくれないと嘆く年寄りの寂寥感も滲み出る。「伝説ではこうだったけど…」とスーパーヒーロー・ブッダを語った後、人間ゴータマを描く。この辺のバランスが見事だ。
数百円で、さらりと読める名著なり。ベンさん、おすすめありがとうございます。
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