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「怒らないこと」はスゴ本

 怒らずに生きるための一冊。

 自分を壊さないための怒り方として、[正しい怒り方]を書いた。この記事がきっかけになって、本書に出会う。著者はスリランカ上座仏教の長老で、アルボムッレ・スマナサーラという。「怒り」に対する考えや姿勢を、わたしの記事なんかよりも、ずっと分かりやすく・直裁に具体的に紹介している(誓っていうが、これをタネ本にしてませんぞ)。怒りのない人生が欲しい方へ強くすすめる。わたしにとって、「それなんて俺」的な確認のための読書となった。次にわたしが「怒る」とき、よりその本質を観ることができるだろう。

■ 「怒り」について、誰も知らない

 最初に著者は挑発する、「怒り」について誰も知らないと。「怒るのは当たり前だ」と正当化したり、「怒って何が悪い?」さもなくば「怒りたくないのに、怒ってしまう」という人は、自分にウソをついていると断言する。「本当は怒りたくない」なんて言い訳して、ホントは怒りたくて怒っているのだと喝破する。そして、怒りたくないなら、怒らなければいいというのだ。

 著者は、怒りをごまかす方法などに関心を持たない。人生は短いから、自己欺瞞はやめよう。そして、まず「わたしは怒りたいのだ」ということを認めろという。そして、「なぜ怒るのか?」を理解せよと促す。どのようにして怒りが生まれるのか?Dhammapada(法句経)によると、以下の場合になる。

   1. 私をののしった/バカにしている(akkocchi mam)
   2. 私をいじめた/痛めつけた(avadhi mam)
   3. 私に勝ってしまった(ajini mam)
   4. 私のものを奪った(ahasi me)

カッコ内はパーリ語。いちいち頭の中で考えて怨み続ける。わざわざ思い出しては、悶々と悩んだり悔しがったりしているのが、「怒り」なのだという。全力で思い当たる。特に1.と3.の場合がセキララに思い出されて、ア・チチとなる。

■ 「怒り」の根っこにあるもの

 さらに、「怒り」の根っこには必ず、「私が正しい」という思いが存在するという。かつて自分が怒ったとき、その理由を冷静に客観的に分析してみると、「自分の好き勝手にいろいろなことを判断して怒っている」というしくみがあるというのだ。これは、他人に対する怒りだけでなく、自分自身に向けられる怒りも同様だという。

 つまりこうだ。「私にとって正しいなにか」があって、それと現実がずれているときに怒るのだ。「私は正しい」「私は完璧だ」という意思があるのが根本で、実際そうではない出来事に会うとき、自分のせいにするのだ。「私は正しい」のに、「この仕事がうまくいかない」と自分を責めたり、「私は完璧」なのに、「自分が病気になってしまった」と自分に対して怒りを抱いたりする。そういう人こそ、建前として「私はダメな人間だ」と謙虚(?)に振舞いつつ、実は心の奥底では、「絶対にそうじゃない、私こそ、唯一正しい人間なんだ」と考えているという。しかしそれこそが、怒りスパイラルの原因なんだ。

 だから著者は、「正しい怒り」は存在しないと言い切る。よく母親が子供を怒ったり、先生が生徒を怒ったりするのは、間違えた子供・生徒を正すための「正しい怒り」だと自己弁護する人がいるが、それこそ誤りだというのだ。間違えただけなら、単にそのことを指摘すればいいのに、わざわざ怒るということは、その根っこに「自分が正しい、自分の言葉も正しい、自分の考えは正しい」という考えがあるからだという。わたし自身も思い当たる。「あなたのためだから」という思い込みでオレサマ判断を押し付けているかもしれない。

■ どうすれば怒らずにすむか

 では、どうすればよいのか?怒りを押さえ込めばよいのか?著者は、それは新しい「怒り」だとして退ける。「怒りと戦う」感情もまた「怒り」なので、良くないというのだ。または、ストレスのように発散させればどうだろう?これも誤りだという。怒りをワーッと爆発させてガス抜きをしようとするのは、怒りの感情を正当化し、原因をごまかすことになる。より強いストレス要因を持ってきて、最初の怒りをカモフラージュしているのだから、根本的な解決になっていないと指摘する。

 OK、それは分かった。では、どうすれば怒らずにすむのか?著者は、「ブッダのことば」の最初の一文を引用する。

「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」

「ブッダのことば」は難しい。いや、やさしい言葉で書いてあるのだから、読むのは容易なのだが、本意を汲むには手助けが必要だ。著者に言わせると、怒ることは、自分で毒を飲むのと同じだそうな。怒ることで、自分を壊してしまう。だから、怒ったら、怒らないようにする。怒りをコントロールするのだ……ただそれだけ。それができれば苦労はしないんだが……

 も少し具体的に砕くならば、怒りを観られた瞬間、怒りは消えるという。次に怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ、怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐに自分を観察してみろと提案する。「今この瞬間、私は気持ちが悪い、これは怒りの感情だ」と外に向いている自分の目を、すぐに内に向けて"観る"ことで、怒りを勉強してみせよという。わたしのエントリでは「怒りを味わえ」と説明したが、本書では「怒りを観察しろ」という。冷静・客観化するメリットとともに、「わたしは何に怒っているのか」を問うことで、根本に気づくことができる。かなり難しそうだが、やってみよう。

■ それでも攻撃する人にはどうするか?

 「怒り」は観られた瞬間、消えるという。「怒らない」を実践できたとしよう。しかし、そこにつけ入るような人が出てきたらどうすればよいか。自分で怒ってしまうようなことは回避できたとしても、「怒らせてやろう」と攻撃したり、けなしたり、やりたい放題にやってくる人にはどうする。耐え忍べというのか?

 これに対し著者は警戒する。悪口を言ったり、自分を弁護したりなんかしたら、相手の怒りの思うツボだという。怒りというのは伝染性が高い感情で、自分が嫌な気持ちになったのなら、ののしっている相手の希望が叶っているというのだ。だから耐え忍ぶ必要もないし、怒り返しても本末転倒になる。

 自分を攻撃する人、自分に怒りをぶつける人には、「鏡を見せろ」とアドバイスする。もちろんこれはメタファーで、エンマ大王が鏡を通して生前の行いを見せつけるように、相手のふるまいを逐一説明してあげればいいという。ホンモノの鏡を見せるのではなく、ののしっている相手に対して、

「ああ、そちらはすごく怒っているのだ。苦しいでしょうね。手も震えているようだ。簡単に怒る性格みたいです。これからもいろいろたいへんなことに出会うでしょうね。それで大丈夫ですか?心配ですよ」

と指摘する。相手が言うことに反論せず、相手を善悪判断しないで、心配する気持ちで説明してあげればいいというのだ。これも難しい。イヤミにならないように手加減する必要はあるが、相手の「怒り」そのものを肯定するのは良い方法だと思う。「怒り」の正当性を認める、ではないことに注意。怒っている原因とか理由とか責任とかに言及せず、ただ、怒りの感情を認める。言い換えるなら、「あなたがものすごく怒っていることは、よく分かります」「絶対に許さないと、強く怒っているのですね」などと、相手の怒りだけを指摘する。慎重に選ぶ必要はあるが、言葉にすることが肝要なのだ。

 それでどうなる?わたしの経験によるが、「わたしが怒り返すよりも、はるかに良い結果が得られる」だった。怒りに対して怒りで応えると、ヒートアップしたり不毛な水掛け論になったり、さんざんな展開になる(嫁で実証済)。しかし、怒りに対し、「それは怒りだ」と指摘することで、大なり小なり客観視できるようになる。怒りという感情よりも、それを招いた原因の方に目が向くようになる。自己防御と相手の攻撃にアタマを使わなくなる(←これ大事!)。鏡を見せるテクニックは万能ではないかもしれないが、怒り返しよりも良い結果が得られる。お試しあれ。

 仏教法話という形をとっているが、「怒らないこと」は、文化や宗教を超えた普遍性を持っていると思う。自分の中の「怒り」を手放すことで、怒りのない人生をすごしたい……そんな願いを持つ方に、ぜひオススメしたい。

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コメント

大変興味深く読ませていただきました。
ただ一点

”簡単に怒る性格みたいです。これからもいろいろたいへんなことに出会うでしょうね。それで大丈夫ですか?心配ですよ”

のところは本当に相手のことを心配しているのでしょうか?自分は相手の心配までしてあげている、と自己肯定、ひいては相手を否定しているような態度に思えるのですが。

相手のためを思って、、という言葉は多いですが、本当に相手のことを思って発せられる言葉はめったにない、と思っております。多くの場合は自己満足を得るために相手を心配するポーズを押しつけているにすぎない。そのことは本文中でも指摘されていますが、

”それで大丈夫ですか?心配ですよ”

の部分に同じような自己欺瞞を感じるのは考えすぎでしょうか

投稿: ごんざれふ | 2010.04.07 14:50

雑誌「プレジデントファミリー」に、この本が紹介されていたので、この本を皮切りに、5冊ほどアルボムッレ・スマナサーラの著書を読みました

>”それで大丈夫ですか?心配ですよ”
>の部分に同じような自己欺瞞を感じる

自己欺瞞を感じる → 著者に対する怒り につながります。
すなわち、そう考えることもイカンということです。

著者は論理的な考えの持ち主なので、このあたりは分かってて敢えてこう書いているのではないかと思いました。

この本の出だしからして、(このエントリーでは引用されていませんが、)禅問答みたいですし。

投稿: ジルボ | 2010.04.07 23:30

>>ごんざれふさん

   > 自己満足を得るために相手を心配するポーズを押しつけているにすぎない
   > ”それで大丈夫ですか?心配ですよ”の部分に同じような自己欺瞞を感じる

はい、確かにそのとおりだと思います。優越感ゲームってやつでしょうか。「アナタを心配するぐらいの余裕」を示すようにも読み取れます。「あなたのためだから」ってやつですね。

しかし、ここは、わたしの紹介がまずかったからだと思います。著者は、かなり厳しい言い方をしたり、ニュアンスが伝わらないかもしれないが、なるべく直裁に述べる、と断っています。この旨はエントリで記していません。そのため、ごんざれふさんが欺瞞を感じるのは当然でしょう。そのセリフは口にださずに胸にしまっておいて遠まわしに伝えると吉です。

ちなみに、わたしの例でいうならば、大切な人がすごく怒っている場合には、このようにしています(嫁さんで実証済)。この怒りの矛先は、自分に向いていてもいなくても有効ですが、自分に対して怒っている例で書きます。

  1. あなたをこんなに怒らせるようなことになってしまって、ごめんなさい
  2. そんなに感情を乱せて苦しい思いをさせてしまって、すまない
  3. その苦しみをなんとかしたい
  4. なぜなら、心配しているから/大切だから

まず、「あなたを怒らせるようなことになって、ごめんなさい」を伝えます。つまり、「怒り」の感情に対して謝罪します(怒っている理由や原因について【でない】トコロがポイント)。次に、「そんなに苦しい思いをさせてしまって、すまない」と伝えます。そして、「その苦しみをなんとかしたい」といいます。あくまでも、苦しみを取り除きたいというのです。そして、どうしてその苦しみをなんとかしたいかというと、「あなたが心配だから、大切だと思っているから」というのです。これはウソでもなんでもなく、本当にそう思います。「あなたのためだから」というセリフは、口にするとチープで陳腐ですが、こころにしまっておきながら(言葉にせずに)分かってもらおうとあがくと、3. と 4. を伝える強い手段になります。

「あきらめたら、そこで試合終了です」という至言があります。相手を大切に思っていることは事実ですから、粘り強く、3. と 4. をくりかえします。自分も含めて、誰も騙したりごまかしたり、おざなりに済ますつもりはありませんから、たとえ上手くいかなくても、悲しみや徒労感は感じません。もっとうまく伝えよう、どうすれば伝わるだろうと考えます。ちなみに、どうでもいい人が怒っている場合は逃げるに如かずです。相手にしないが吉ですね。

怒りから派生した相手の苦しさを指摘すると、「怒っているから苦しい→苦しいから余計に腹が立つ」のスパイラルが切れます。そして、「苦しさ」を修復するために、怒りの原因を解決することが必要なら、それに向けて自分ができる最大限の努力をすると述べます←この時点で、「怒り」ではなく、「怒りの原因をなんとかすること」に焦点が移っています。そして、「怒りの原因をなんとかすること」を具体的に考えるとき、すでに客観的になっています(すなわち、もう怒っていません)。この辺りの微妙な言い方を端折ってまとめてしまうと、自己欺瞞/優越感ゲームに読めてしまいます。確かに、ことば足らずでした。

なお、これらは、「自分が怒らないこと」が前提です。怒りは伝染します。相手の怒りがうつった状態で1.~4. をやろうとすると、上から目線を見抜かれてしまうか、「怒り」を「悲しみ」や「哀れみ」で上書きしておしまいになりがちです。どうでもいいと思っているのならそれまでですが、本当に大切な相手であれば、素直に向き合うことで、あっさりと解消することがあります。

少し脱線しますが、この自己欺瞞プロセスは、「自分の小さな『箱』から脱出する方法」を読んで、文字通り"脱出"できました。過去エントリの宣伝になりますがw、以下をどうぞ。


https://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2006/10/post_2312.html


>>ジルボさん

   > 自己欺瞞を感じる → 著者に対する怒り につながります。
   > すなわち、そう考えることもイカンということです。

そのとおりです、まさに著者もそう言いたいと思います。しかし、上述のように、わたしの紹介がマズかったので、自己欺瞞が透けて見えるような「言い方」になっています。ジルボさんのように、スマナサーラの考えを吸収した人ならひっかからないでしょうが、拙文だけならごんざれふさんの指摘が自然だと思います。

上記のわたしの「回答」で、どこまで伝わるか分かりませんが、もっと言葉の精進をしますね。


投稿: Dain | 2010.04.09 00:04

怒りにもいろいろある。
怒りたければ怒ればいいじゃないか。

投稿: | 2010.04.09 00:19

> ”それで大丈夫ですか?心配ですよ”の部分に同じような自己欺瞞を感じる

事実を言っているだけですよ、これは。

車の運転で、車のコントロールもままならない運転の危なっかしい人に

「そんな運転で大丈夫ですか?心配ですよ。」

と言うのと同じなんですよ、事故って死んでからでは遅いでしょ。

投稿: kinono | 2010.04.09 15:35

>>名無し@2010.04.09 00:19さん

はい、そのとおりだと思います。怒りたければ、怒ればいい。
けれども、その怒りが炎となって自分自身を焼き尽くすようになれば?
さもなくば、その怒りの毒が全身にまわってのたうち苦しんでいるとすれば?
そういう酷い思いをした人は、「怒り」のオプションをおすすめしません。


>>kinonoさん

怒りのコントロールをクルマの運転にたとえるなんて、うまいこと言いますね。ご指摘は、そのとおりだと思います。「事実を言っているだけ」なのです。けれども、受け取る人によっては、自己欺瞞にとられかねないとも思います。

投稿: Dain | 2010.04.10 07:28

はじめまして。いつも興味深く読ませていただいてます。

>怒りが生まれたら、「あっ、怒りだ、怒りだ。これは怒りの感情だ」とすぐに自分を観察してみろと。

今、トレーニングしているゲシュタルト療法(気づきのトレーニング)に似ているなあと。
「怒り」だけでなく、いろんな感情も観察(気づく)できるようにしたいなと思ってます。

ありがとうございます。

投稿: tedanofa | 2010.04.14 11:42

>>tedanofaさん

「ゲシュタルト療法」なるものを初めて知りました、実存の話かとgoogleったらまさにそのとおりでした。勉強になります、ありがとうございます。「今の自分」を客観視することで、かつての自分にとって理不尽だった感情のコントロールが容易になったような気がします。「怒りは観られると消える」は本当ですよ。

投稿: Dain | 2010.04.15 06:30

サーっと記事を読ませていただきました(内容を理解してないかも)。
関係ない話ですが、オイラは怒り慣れた人間というものに興味がありますね。激昂して神経が高ぶりやすくて、それでも気性を変えられなくて、とうとう自分に呆れちゃったとか…。

投稿: ほめぞう | 2010.04.17 02:04

>>ほめぞうさん

「自分に呆れる」ぐらい客観視できれば上々だと思います。あとはなんとかしたいと思うかどうかの話なので……怒りは自分を焼き尽くす火であり、毒であると思っています。

投稿: Dain | 2010.04.18 21:03

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