「ファウスト」はスゴ本
「死ぬまでに読みたい」シリーズ。人生は有限だが、この事実を忘れることが多い。
古典として名高い分、敬遠してきた。もちろん新潮・岩波に手を出してヤケドしたこと幾度か。けれどもなぜか、あらすじとあの文句は知っている→「時よ、とどまれ、おまえは美しい」。ためしにGoogleってみるといい。いつもならAmazonが鎮座ましまする最上位にWikipedia「ファウスト」が居るのは、それだけ皆が本を回避してきた証拠のようにみえてくる。
それが、さっくり・すんなり読めてしまった。これには、ワケがある。
実は、今回手にしたのは、歌劇であり詩劇ではなく、散文「ファウスト」なのだ。これは訳者・池内紀氏のおかげ。氏曰く、「ファウスト」には場面に応じたさまざまな詩形が使われており、それだけでもゲーテは天才だといえる。しかし、そいつを日本語にした瞬間、彼が苦心した一切が消えてしまう。韻律が極端に乏しくなり、まるで別の構造を持った日本語においては、詩句を踏襲しても、どこまで再現できるか、疑問だというのだ。
そのため、詩句をなぞる代わりに、詩体を通して伝えようとしたことを、より柔軟な散文でとらえたのが、この集英社「ファウスト」だという。名前だけ知ってて読まれることのない『名作』を祀りあげる代わりに、「いま・ここ」の言葉であらわそうというのだ。スペクタクルなとこは山本容子の挿絵で広げ、最低限の知識のみ注釈で補う。ダブルミーニングや韻律の妙を細かく解説のではなく、まず読んでみなされ、と誘っているのだ。
おかげで、裏読み・深読みの苦労は皆無だった。時空が錯綜する第二部もつまづくことなく、解釈の迷路に行き惑うことなく、ところどころに仕掛けてある韻文すら楽しむ余裕まである読書だった。そのいっぽう、詩としてとらえず、音感を無視した分、ビジュアル面が強調された読書となった。
輝きと彩りとカタチにまみれたイメージの奔流と、英雄魔物半神怪物のどんがらがっちゃんのお祭り騒ぎが、いっぺんに挿入(はい)ってくる感覚。文字から得られるイメージは、映像の記憶を強烈に呼び覚ます。字を追っていくうちに、過去の映画のワンシーンが唐突に浮かんでくるといった、奇妙な体験をする。
たとえば、嬰児殺しによる斬首が「首のまわりの赤い線」で暗示されているグレートヒェン。ここでは、映画「女優霊」でいるはずのないフィルムの中の女優の登場シーンをフラッシュバックのように思い起こさせる。あるいは、第二部ホムンクルスの章。エーゲ海を舞台した火と水によるエロスの祭典なんて、「崖の上のポニョ」の咲き乱れる魔法のシーンと重なってしょうがない。フラスコの中の人の雛形とビンに閉じこめられた人面魚がオーバーラップしてくる。
極めつけはラストのファウストの昇天。ファウストの魂を奪い合う悪魔メフィストvs天使軍団の誘惑バトルは、量産型エヴァに喰われる弐号機を思い出す。もちろん「ファウスト」がモデルのはずはないのだが、わたしの記憶に勝手に接続してくるのは愉しいような恐ろしいような。
ただ、なんでもかんでも二元論にもっていこうとするのに辟易する。韻律の基本「対比」に乗せることができるからだろうか、神と悪魔、創造と破壊、光と闇、男と女……いくらでも対比イメージが浮かんでくる。伏線や章立てや二部構成も、それぞれ照応するように書いてあるので、研究したらいくらでも掘れそうだ。
わたしの場合、いたるところに「男と女(とエロ)」に満ちている、と感じた。ファウストとグレートヒェンといった分かりやすいものだけでなく、悪魔と天使のバトルすら交接のメタファーのように見えてくる。もちろんわたしがエロいからなんだろうが、ゲーテもかなり助平で安心した。これは、人生のそれぞれの読む瞬間(とき)に応じて、くみ出せるものが変わってくるんだろうね。
なので、「死ぬまでに『もう一度』読みたい」スゴ本になっている。
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コメント
こんにちは。
お正月明けですが、本年もよろしくお願いします。
いろんな本の紹介を今年も楽しみにしてます。
「ファウスト」ですが、考えてみたら、これほど、有名なのに、原作に目を
通してない、話を完璧に知らない、インスパイアされた作品なら読んだことが
ある、話を改変した物なら目にしたことがあるといった作品の第一候補ですね。
読みやすいのなら、挑戦してみたくなりました。
私の中のファウストとというと、大甘な結末の古い映画「悪魔の美しさ」と
後から、実はファウストが下敷きになっていたという漫画「百物語」(手塚治虫著)です。
投稿: ざわ | 2010.01.08 18:32
hachiro86と申します。
以前、鴎外訳は読みましたが、池内訳は未読。気にはなっていたのですが・・・よさそうですね。前に読んだ時は、第二部は韻文に振り回されてちょっと消化不良気味でしたので、散文でリトライしてみようかしらん。
それにしても、いつもながらの的確な本のセレクション、思わず読みたくなる紹介文、頭が下がります。これからも更新を心待ちにしております。
※そういえば、手塚治虫には『ネオ・ファウスト』という作品もありますね>「ざわ」様。
投稿: hachiro86 | 2010.01.08 23:14
新年あけましておめでとうございます。本年もどうかよろしくお願いします。
学生の頃、大人向きの本が読みたくて、「白鯨」、「嵐が丘」、「ファウスト」を主に角川文庫の一冊本で、意味も分からずに読破したことを思い出しました。この経験は自分の読書の基礎を作ってくれた重要なものだったと今では思います。ただ、散文にするという手がありましたか。今読むと昔とはまた違った感想が出てきそうな気がします
投稿: よしぼう | 2010.01.09 00:08
>>ざわさん
読むとインスパイアされます、まちがいないです。必ず「オレならこうするのに」と刺激される一方で、「これほどの美はオレには創りだせない」とうなだれるでしょう。池内訳なら構えずに読めますので、オススメですぞ。
その上で、他の訳に手を出すか決めればよいかと。
あ、「百物語」は先ほど読了しました。ゲーテから想を得て、あれほどのエンターテイメントに仕上げるなんて……スゴいです>手塚治虫
>>hachiro86さん
ありがとうございます。いわゆる「名作モノ」も手を出しますが、「外道モノ」も大好きなので、生暖かく見守っていただけると嬉しいです。鴎外ファウストは、次に読むときの楽しみにとっておきますね。
横レス?ですが、手塚治虫は、「ファウスト」、「百物語」、「ネオ・ファウスト」と3つあって、完成度からすると「百物語」がダントツとのことです……(ネオ・ファウストは未完)
>>よしぼうさん
こちらこそ、よろしくお願いします。
よしぼうさんの挙げられた三冊は、どれもわたしが撃沈した三冊です。そして、どれも「死ぬまでに読みたい」シリーズに入っていますね。
投稿: Dain | 2010.01.09 00:34