ローマ人の物語XI「終わりの始まり」の読みどころ
ここは抜群に面白かった。
長い間、カエサル萌えにあてられるか、「たら・れば・思う」でお腹いっぱいになるか、でなければ「世界史の教科書」並みの解説に付き合わされて退屈だった。「史料のコピペ」+「だが、しかし」+「塩野節」のパターンは、正直ウンザリしてた。
だが、しかし、この巻は「今までのまとめ」+「塩分ひかえめ」なところがいい。そう、塩野節は塩味のようなもの。ないと締まらないし、強いとこっちもしょっぱい顔になる。ローマ帝国の凋落はここから。来し方を感慨深くふりかえり、行く末を諦観する、ちょっとおセンチな塩野氏が可愛い。塩分キツくて投げた人はここから再開するといい。
■ 「ローマ人」を投げ出した人のために
極端な話、ハンニバル(3-5巻)とカエサル(8-13巻)だけ読んだら、あとはすっ飛ばしてここ(29-31巻)を読めばいいんじゃないかと。ハンニバルとカエサルの面白さは徹夜レベルだし、この「終わりの始まり」は総集編なので、ここだけ押さえておけばOK。
さらに、読み方を変えるといいかも。これは、「ローマの歴史物語」なんかじゃなく、「彼女の物語」なんだと再定義する。つまり、「(塩野七生の)ローマ人物語」なのであり、ローマ史をベースに彼女の好きなように語った「大説」なんだ。「(巨泉の)クイズダービー」みたいなもの。彼女の塩味というか演出というか妄想を一緒なって味わうのが、楽しく読む方法。
■ 「ローマ人」の外側を楽しむために
とはいうものの、これが歴史書扱いされると話は別になる。おそらくアシスタントはいるだろうが、ほとんど独力でまとめあげたはず。主張や論拠は、学術的な検証にさらされておらず、[ こうした ]プロフェッショナルからの烽火も見える。
ああ、それでも彼女の言い分(言い訳?)が見えるよ。専門家の批判に追い詰められる前に、こう言い放つはず→「だって物語だもん」。あるいは、「わたしは小説家だ。史料を元に、わたしの頭で再構成した仮説を説明しているんだ」なんて開き直るかも。単行本は完結したから、そろそろ反撃の鬨の声が挙がってくるはず、バトルが楽しみ~
■ 塩野節を誉めてみる
まず、たとえがうまい。比喩的な言い回しから文明論まで膨らませる語りがいい。
たとえば、高架水道。ローマ遺跡として有名だが、塩野氏はこれを首都高にたとえる。つまり、都市の外側から中心部へ入り込んでいる建築物として。自動車と水、レンガとコンクリートを鮮やかに対比させている。
あるいは、ローマ国体を「身体」に置き換えるセンスが素晴らしい。ローマ中枢の元老院の議員と、辺境の防衛線を任される兵士が、同じ「蛮族への脅威」を抱いているとき、それを「頭」と「手足」と読み替えて説明する。作家を生業とするだけあって、この比喩はよく分かる。
さらに、時代も場所もまるで異なる文明を、分かりやすく噛み砕いてくれる。軍団基地の物資を最小限に押さえる取り組みを、トヨタのジャスト・イン・タイムにたとえたり、属州や辺境に行かず、ローマ中枢でコントロールする皇帝を「本社に集まってくる情報をもとに、本社にいつづけながら多国籍企業を経営するトップに似ている」という、うまい。
こうした比喩のおかげで、数千年の時を越えてローマをつかまえることができる(丸めすぎて誤解しているところもあるかもしれないが…)。
シロウト目線もありがたい。あれだけ参考文献を読み込んでいるくせに「シロウト」の隠れ蓑をかぶるのはズルい。しかし、そのおかげで彼女と同じ感覚をもってローマを「観る」ことができる。
なるほど、ヨーロッパに住んでいるローマ史研究家は多々あれど、中心←→辺境を放射状に行ったり来たりする人は塩野氏ぐらいだろう。だからこそ、一口に「ローマ」といっても中身は多種多様であることを実感として指摘できる。かつて統治者も辺境からローマ都市へ還ってきたとき、同じ感懐を抱いたに違いない。「分割統治」が書物ではなく、体験から説明できるのは強みだろう。「ローマ人の物語」の連作を書くためにローマに住んでいるが、それによる利点の一つは、ここからは昔のローマの防衛線のどこにも、飛行機二時間以内で達せることにある。都市ローマはかつてのローマ帝国の中心に位置しているので、放射線状に行きたい地に行っては帰ってこられるからだ。だが、これを日常にしていると、ローマ帝国が、人種や民族や文化の別だけでなく、地勢的にも気候的にも実に多種多彩であったことを痛感させられる
■ 天邪鬼な書き手には天邪鬼な読み方を
たとえばマルクス・アウレリウス。哲人皇帝として名高いし、「自省録」読んだならその真摯さに撃たれるだろう。だからこそ、こういう「できた人」を貶めるんだろうなー、と気をつける。通説に異を唱えるのが塩野流だろうと予測して読めば、とまどわずにすむ。
案の定、出だしが好意的。気持ち悪いぐらい持ち上げられているので、「だが、しかし」に気をつけて読む。
だが、しかし、あんまり攻撃されていないので拍子抜けする。哲学に悩むマルクス・アウレリウスの手紙に「茶々」を入れる程度。もちろん、マルクスの「至らなさ」をカエサルと比較してあげつらうところもある。けれど、いつもと違って迫力ないなー、やっぱりいちゃもん付けにくいのかなー、と思っていたら、逆天邪鬼に面食らう。
マルクス・アウレリウスは、歴代皇帝の中でも評価の高かったにもかかわらず、無能で無責任な実の息子コンモドゥスを後継者としたことが「失策」として挙げられている。コンモドゥスは、映画「グラディエーター」に出てきた暴虐帝だ。
これに真っ向から反論するのだ、「仕方がなかった」と。コンモドゥスを擁護するのではなく、彼を後継者にしたマルクスは非難されるべきでないと弁じる。弁護のいちいちに反応してはならない。なぜなら、「~と思う」で終わっているから疲れるだけでしょ。むしろ、「しょせん賢人マルクス・アウレリウスもこの程度ね~」という含みを味わうべし。
■ ハリウッド映画に噛み付く塩野節を楽しむ
一番の読みどころはここ。映画「ローマ帝国の滅亡」や「グラディエーター」をこき下ろす。エンターテイメントなんだから時代考証はホドホドでいいでしょ、と嘆息するわたしを尻目に、すごい勢い。
極めつけは戦闘シーン。めったに誉めない一文がある。一、マルクス・アウレリウスの死が他殺であったとは、ローマ時代の史書でも年代記でも、唯一の例外を除けば言及していない。唯一の例外とはカシウス・ディオの著作だが、この場合も、コンモドゥスに気に入られようとして侍医が皇帝を毒殺したらしいという噂を伝えているだけである。(中略)映画「ローマ帝国の滅亡」はこの侍医による毒殺説を採っているのだが、フィクションでもかまわない映画は別としても、最後の数年間のマルクスの体調の衰えは、長年彼に仕えてきた家臣たちにも将軍たちにも明白な事実であった。
二、「グラディエーター」には、その日の勝利の功労者であった将軍マクシムスを、皇帝が自分の天幕に招じて話し合う場面ばある。その最後で、コンモドゥスに代えて彼を皇帝にしたいと告げるのだが、それをする前に皇帝は将軍に、望みは何かとたずねる。それにマクシムスは、家族の許に帰りたいと答える。主人公の人間味を強調したかったのだろうが、マルクス・アウレリウスならば、この答えだけで、皇帝不適格者と断定しただろう。(中略)最高司令官である皇帝ともなると、いかなる事情も職務放棄の理由になりえない。無責任きわまる言動に、「任務を何と考えている!」と一喝されるのがせいぜいであったろう。
「天邪鬼読み」を実践しているならばピンとくるだろう。こんな風に持ち上げた後には、必ずケチつけるパターンが待っているんじゃないかと。正解ッしかし、映像には、文章では逆立ちしたってかなわない利点もある。その利点が最も良く活かされるのは戦闘の場面だが、映画「グラディエーター」でも冒頭の戦闘場面は、時代考証もよく成されていて秀逸だ。
嘘だッ!(わたしの知ってる)ローマ軍はそんな闘い方はしない、何かの間違いだッ ローマ軍は広所で高台から敵陣容に相対するのがセオリーだッ と鼻息荒い。話はここで済まされず、時代考証の人がローマの戦法を知らないはずがない、とDVDを買い求め何度も見たそうな。そのうちに、「マルクス・アウレリウスが最高司令官を務めたゲルマニア戦役は、あの程度の闘い方しかしていなかったのではないか」と思い始める。要するに、地勢の考慮、戦闘の進め方が、(あたしの知ってる)ローマ軍にしてはお粗末すぎるのは、映画どうこうよりも、最高司令官がアレだからねー、というノリである。そしてカエサル、いつもカエサル。250年たっても出てくるカエサル。カエサルの呪いはローマ全史のみならず、現代まで続くかの勢いである。加速する妄想にふりおとされないように。ゲルマンの蛮族もローマ軍も、いずれも林を背にして、その中間に切り開かれたでもしたような狭い地帯に相対している。しかも、高所から攻め降りてくるのが蛮族で、ローマ側は低所で迎え撃つという陣容になっている。これでは、絶対にローマ側に不利な地勢であり、闘い方である。
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コメント
リドリー・スコット監督は考証も重視しますけど、何より映像美を追求する人ですからね。冒頭の火矢をかけるシーンで溝を掘って点火したのは創作ですし、剣闘士の武器にも創作武器が混ざっています。衣装も多少アレンジがかかってるように見えますし。その時代に存在するハズのない錠前があるのは失敗したとコメンタリーで言っていました。
まあ、あえてそういう野暮な突込みを入れて考察するのも映画や小説の一つの楽しみ方じゃないかと思います。2chのSF板や軍事板で、知識を総動員してアニメやラノベの無意味な考察を行っているのを見ると楽しそうだなあ・・・と。
投稿: jackal | 2008.01.30 13:51
>> jackal さん
> あえてそういう野暮な突込みを入れて考察するのも
> 映画や小説の一つの楽しみ方じゃないかと思います
完全同意ですが、「野暮を承知で」が暗黙の了解ですよね
わたし自身、塩野ローマにからんでいるのも野暮&ネタですし
しかし、マジになって、あれがダメだ、これがなっとらん、などと
糾弾したら、「オトナ気ない」「不粋」と後ろ指さされるでしょう
しかも、「わたしは作家だから(根拠レスの)自分の想像力を信じる」
ときた日にゃ、「おまえが言うな」「オマエモナー」と言われるでしょう
エンターテイメントとして素晴らしい「グラディエーター」の時代考証を
エンターテイメントとして評判の「ローマ人の物語」でやってるのが、
奇妙な自家撞着です
おそらく塩野氏は、良い出来だが、あれを歴史モノにするには
勉強してなさすぎー、というのが正直なところでしょう
そして、その感想がまさに「ローマ人の物語」に対する歴史家の
反応なのです…で、「野暮を承知で」「捨てて置けない」という
前口上とともに、反撃がくるんじゃぁないかと…
投稿: Dain | 2008.01.30 23:26