子どもはどこまで残酷になれるか
劇薬小説
いじめられるキングショーと、いじめるフーパーの一人称が交互に続く構成となっていて、それぞれの母、父の独言がこれまた一人称で縒り合わさっている。一人称×4人分で読みにくいことこの上ない。ガマンして読み進めていくと、キングショーが次第に追い詰められていき、ついには「出口なし!」にまで達する様、フーパーのいじめ慣れていない子どもの執拗なイジメがよく分かる。
11歳の子の罪深い心理を描写した衝撃作! と銘打っているが、子どもが抱く悪意のどす黒さにひるむこと請け合い。見所はいじめられるキングショーの心理描写ナリ。例えばこんなカンジ…
そう、つよい憎しみは口いっぱいに広がる。人を真剣に憎んだとき、自分の感情のあまりにも強烈さに慄くことだろう。キングショーは追い詰められながら「人を憎む」という自身感情に苛まれる。どうすることもできない、逃げ出す以外は。
キングショーは誰からも遠く隔たり、自分が殻に閉じこもるのを感じる。母でさえ分かってもらえない。母でさえ遠い存在となる。
これは子どもに宿る悪意、邪の力と残忍性の童話なんだ。さいなむ者とさいなまれる者の物語。登場人物のだれひとりとして、愛することも愛されることもない。不自然なまでに孤立だけが強調されていて、読者はいたたまれない気持ちになる。
おしまいまで読むと、フーパーやオトナたちの残酷さよりも、キングショー自身の残忍性が浮かび上がってくるという仕掛け。
フーパーの「子どもらしい」残酷さは想像がつく。しかし、自分の内なる残忍性に驚き畏れおののきながら、ひとつの決断を下すキングショーは、最も罪深い、たとえその方法でしかなかったとしても。追い詰められ、死を選ぶ子どもたちがいる。彼らはまさに、このキングショーが考えたとおりの思考ルートを辿り、周囲からは「それ」以外を選ぶことを拒絶される。「どうして話してくれなかったのか?」「他の方法はなかったのか?」という問いが、とてつもなく無意味であることがよく分かる。
このテの話題になると、
笑い声が、また震えるように反響した。
理性を超えた根源的な虚無と破壊への意志。子どもを純真無垢な存在としてみると痛い目に遭う。孤島での子ども達の殺し合い→「バトルロワイアル」を思い出す人がいるかもしれないが、状況が人に施す狂気を描いたものとして映画「es[エス]」の方が近いような。ここで映画「チルドレン・オブ・ザ・コーン」をケッサクなどというと石が飛んでくるので映画ネタはここまで。
状況が人に及ぼす最悪の結果は
切ない青春小説のノリで陰惨な出来事が淡々と描かれる。救いは「親」であるオトナが悪者になっているところ。上記2冊をはるかに凌駕する鬱小説なのだが、ここだけが救いなのかも。
ここでも残虐な行為をする子どもが描かれているが、親がけしかけている。いわゆるドキュソ親というやつ。親は触媒だ。子どもの狂気を引き出すことの天才だ。そして家庭内いじめだと逃げ場がない。外に逃げるって? 世界で最も安全で安心できる場所が苛もうとしているのに、どこへ逃げる? 私は子どもだ。子どもの言うことなんて、誰も信じてはくれない。どこへ逃げるというのだ? …精神的に肉体的に徹底的にいじめ抜かれる少女は、それでもどこかで「ストップ!」を期待していたんだろうと。誰かが止めてくれるか、オモチャとして飽きられるか、どこかでこれが終わる日を想像していたんだろうと。歯止めが利かなくなるのは子どもの常なんだが、な。
子どもは、どこまででも、残酷になれる。
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