2025-07-01

死ぬ”予定だった30歳に、犬のおかげで“夢を叶える”予定を入れた

私は、犬に人生を救われた。

今の私は、そう言い切れる。

でも、最初からそうだったわけじゃない。

しろ真逆だった。

人生、ずっとしんどかった。

今でこそオタク文化市民権得てきたけど、

当時は「オタクキモい」って空気がまだ全然強くて、授業中にキャラ描いてただけで「えーキモ〜w」とか言われてた。

しかも、昔から地毛の色がめちゃくちゃ茶色かった。

染めてないのに明るい色で、

学校は厳しかったけど「地毛やから」ってギリ許されてた。

でも周りはみんな真っ黒やから自分だけ浮いてて。

なんであの子だけ?って言われて、

「染めてるくせに〜」って陰で言われて。

オタクで、髪の色も周りと違って、だから余計に変なやつ認定されて、

中学では普通にいじめられて、高校でもずっと浮いてた。

「なんかあの子変だよね」って空気の中で生きてきた。

大学に入って、周りも大人になって、髪のこともオタクってことも誰も気にしなくなって「ちょっとやり直せるかも」と思ったけど、

実習に追われて、課題レポートの山に潰された。

そもそもずっといじめられてたから人付き合いが怖くて、グループLINEの通知が来るだけで動悸がして。結果、大学生活にもロクな思い出はなかった。

その時から、私は本当ににおかしかった。

国試の問題を一問間違うたびに、自分の首を自分で絞めてた。

間違う度に価値がない人間だと自分に吐き捨て、ボールペン自傷もした。

積み重なってきたもの限界になって来てたんだと思う。

この頃にはもう、「ああ、何も変わらんかったら30までに死のう」って思ってた。

なんで「30までに死のう」って思ったのか、正直よく分からん

でも、たぶんまだその頃は、“希望”があったんやと思う。

…まあ、「30」って数字が、自分の中でキリがよく思えたってのもある。

そこまで生きて、何も変わらんかったらもうええかなって。

今思えば、あのときの私は“人生区切り”を探してたんやと思う。

当時は、今すぐ死ぬ勇気なんてなかった。

怖かったし、家族にバレたらめんどくさそうやなって思ってたし、

「どうせ死ぬなら、もっと完璧に準備してから」とか、

そんなことばっかり考えてた。

それでも、国家試験に受かって、

国家公務員として資格持って働けば、きっと何かが変わるって思ってた。

自由に使えるお金があれば、人生ちょっとは楽になるんちゃうかって。

それがきっと、あのときの“生きる希望”やったんやと思う。

でも現実は違った。

仕事想像以上にしんどくて、

人間関係はギスギスで、

患者さんに怒鳴られたり、先輩に無視されたり、

夜は眠れず、

気づけば、自分感情がどこか遠くにいってた。

変わるどころか、どんどん心が削られて、

最後にはもう、“無”みたいになってた。

「何かが変わる」ってあれだけ信じてたのに、

その希望が裏切られた瞬間から

本気で“終わり”を考えるようになった気がする。

さな失敗すら、自分全否定する理由になってた。

なんなら、牛乳もうまく開けられなくて。

ちょっとだけ手にこぼれただけ。

それだけのことで、泣いた。

「こんなこともできへんのか」って。

誰も怒ってないのに、誰にも責められてないのに、

ひとりで「ごめんなさい」って繰り返してた。

床に落ちた白いしずくを見ながら、

「私って、なんのために生きてるんやろ」って思った。

もう、自分存在が全部まちがいやって思ってた。

その頃、やっと「うつ病ですね」って言われた。

ちょっとだけ、ホッとした。

「ほら、やっぱり私は壊れてるんだ」って。

あの診断は、“生きることをやめてもいい許可証”みたいに感じた。


そこからは、何度も自殺未遂を繰り返した。

リストカット過呼吸OD救急搬送

死ねないこと」が苦痛だった。

生きてるだけで誰かに迷惑をかけてる、

お金時間心配も、全部私のせいで浪費されてる。

から、死にたかった。

で、ある日。本当に決心して

アセトアミノフェンカロナール)を100錠以上飲んだ。

知識があるからこそ、肝臓がやられて、死ぬって分かってて。

それでよかった。最悪後遺症が残ることもわかって飲んだ。

苦しんで死ねば、後遺症でも残れば少しは罪滅ぼしになるかもって思ってた。

ほんまに、生きてることが“罪”やと思ってた。

社会謝罪しなあかんと思ってた。

めちゃくちゃ苦しくて。

けど、体はそう簡単には壊れてくれなかった。

嘔吐発熱、震え、息苦しさ、

そして、死ぬのが怖くなった。

涙が止まらなくて、「死にたくない」って、思ってしまった。

そして、泣きながら救急車で運ばれた。

 

そのとき、私が言ったらしい。

「犬が飼いたい」って。

覚えてない。

でも母が言ってた。

あんた、涙と汗と嘔吐まみれの中で、何回も「犬飼いたい」って言ってたって。

ずっとずっと、子どもの頃から、犬が好きだった。

でも家には犬嫌いの祖母がいて、「犬だけは絶対ダメ」だった。

ずっと我慢して、あきらめて、大人になった。

でも死ぬ間際に出た願いは、「犬が飼いたい」だったらしい。

死ぬ間際になって何故か飛び出してきた。

それを聞いた家族が「犬を飼おう」って言ってくれた。

祖母が大の犬嫌いで、ずっとNGだったのに。

「この子が生きたいって思えるなら、何でもする」って。

たぶん、こんな理由で犬を飼うのは間違ってると思う。

命を預かることなのに、自分の心の隙間を埋めるためって、

そんなの身勝手すぎるって、どこかでわかってた。

でも、あのときの私にはそれしかなかった。

「生きたい」って言える理由が、他にひとつもなかった。

それでも、家族は飼おうって言ってくれた。

ずっと犬を反対してた祖母も、何も言わなかった。

たぶん、“アニマルセラピー”なんて言葉を使って、

なんとか私を現世に繋ぎとめようとしてくれてたんやと思う。

今思えば、あれは「飼う」ってより「救う」やった。

私の命を、なんとか繋ぎ止めるための決断やったんやと思う。

 

それで出会ったのが──今の愛犬。

ふてぶてしい顔した、ちいさな柴犬の子犬。

ぶすーーっとした顔でこっちをじーっと見て、話してる間に腕の中で寝た。

「あ、こいつやな」って思った。

その感覚、今でも忘れへん。

 

それから、私の人生は静かに変わり始めた。

まだ90日にも満たなかったからすぐには迎えられへんくて、

でもブリーダーから毎日送られてくる愛犬の写真が、生きる理由になった。

引き渡しまで何度も「死にたい」って思ったけど、

「この子に会うまでは」と思って、踏みとどまれた。自殺未遂も1回もしなかった。

 

愛犬がうちに来た日。

それが私の「再スタート」の日やった。

最初は手探りで、家具かじられるし、トイレ失敗するし、

私のメンタルも正直ギリギリやったけど、

それでも、「愛犬がいるか今日も起きる、生きる」が続いた。

 

少しずつ、心が動き出した。

愛犬がご飯を食べるから、私も少しずつ食べるようになった。

愛犬が散歩に行きたがるから、外に出るようになった。

注射が終わって、ドッグランに通い始めた。

そしたら、他の飼い主さんと喋るようになった。

私、人と話すのほんまに苦手で、

レジで注文すら緊張するような人間やったのに。

こんにちは」って言えて、

今日も来てますね」って笑えるようになって、

お土産をもらったり、野菜のおすそ分けをしあったり。

なんならみんなで旅行に行ったり。歳も年齢も性別全然違うのに。

不思議なことに人と繋がるのが、怖くなくなった。

愛犬は、社会から逃げ続けてた私に、

“つながり”をくれた。

 

そのうち、「愛犬のグッズが欲しい」と思うようになった。

でも世の中にピンとくるものがなくて、自分作ってみた

そしたら、それが楽しかった。

SNSに載せたら、「作ってほしい」って声が届いた。

びっくりした。

あんなに自信なかった私が作ったものを、

誰かが「欲しい」って言ってくれるなんて。

 

今では、「亡くなった子の毛を残したい」とか、

「思い出を形にしたい」とか、

そういうご相談もいただくようになった。

亡くなった子の被毛を送ってくださる方もいた。

の子らしさを残すように、丁寧に、愛情込めて作った。

泣きながら届いた報告を読んだ夜、

「やっと、私は“生きてていい理由”を見つけたのかもしれない」って思った。

私にできることは何かって考えて、

自分の作り出したもので、気持ちに寄り添うこと」──

それが、今の私の答え。

 

そして、夢ができた。

愛犬と一緒にいられて、

誰かの大切な気持ちを形にできる──

そんな【自分の店】を持ちたい。

“うちの子”のための、あたたか空間

愛犬から始まった奇跡を、今度は私がつなげる番やと思ってる。

 

昔の私は、「30歳で死のう」と思ってた。

でも今の私は、「30歳になったら店を持ちたい」と思ってる。

たった一匹の犬が、

人間嫌いのコミュ障社会に戻して、

自分の手で生きていけるようにして、

夢までくれた。

愛犬は、私の命の恩犬。

犬の寿命はせいぜい10〜15年。

「そんな短い命に人生託すなんてバカだ」って思われるかもしれない。

でも、私はその短い命に救われて、繋がれて、立ち上がって、今がある。

の子が旅立つときのことを考えると、今から怖い。

正直、もう一回壊れるんじゃないかって思う。

でもそのときまでに、私は“私なりの生きてていい理由”を、ちゃんと見つけておきたい。

愛犬が教えてくれた、“生きることのあたたかさ”を、今度は私が、誰かに繋いでいけたらと思う。

 

あんたが寿命を迎えるその日まで、

私は恩返ししながら、生きていく。

そしてその日が来たとき

「私、あなたに救われて、ちゃんと生きたよ」って言えるように、

今日も私は、ミシンレーザーと、手を動かしてる

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