登山史
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1873年(明治6年) - 深見チエが女性として立山初登頂で、1891年にデレーケの娘ヤコバが外国人女性としての立山初登頂。 1878年(明治11年)- バークス・アーネスト・サトウが、針ノ木峠を越え立山に登頂し、『日本旅行日記』などを出版している。 1879年(明治12年) - ウィリアム・ゴーランドが立山に登頂。 1893年(明治26年) - 英国人のウォルター・ウェストンが、大町市の麓から針ノ木峠とザラ峠を越えて立山温泉に入り、室堂を経由して立山町の麓への探険的登山を行った。 1896年(明治29年) - 日本山岳会の第3代会長木暮理太郎が針ノ木峠を越えて立山に登頂。 1914年(明治37年) - ウォルター・ウェストンが再び日本を訪問。再登頂し、その後1918年に『The Playground of the Far East(極東の遊歩場)』をロンドンで出版し、この山を世界に紹介した。 1919年(大正8年)7月 - 富山県立富山高等女学校と富山県女子師範学校の女生徒ら49名(女学生38名と校長含む引率者11名が、学校から3泊4日で立山に登頂。 1923年(大正12年)1月 - 雄山に冬季登頂した槇有恒、板倉勝宣、三田幸夫がスキーで下山中に猛吹雪に遭い遭難。板倉は立山カルデラの縁にあたる松尾峠付近で低体温症により死亡。 1947年(昭和22年) - 佐伯房治が地獄谷温泉に房治小屋を建設。 1961年(昭和36年) - 佐伯利雄が立山の北側にある真砂岳山頂直下の東側で内蔵助山荘を開業。 1967年(昭和42年) - 立山駅前の千寿ヶ原に文部省登山研修所が開設。 1970年(昭和45年)12月2日 - 房治荘から撤収中の従業員、複数の大学などのスキー部員らが吹雪のため集団遭難、一時は23人が行方不明となった。後に、16人が無事下山するも同志社大学の学生7人が死亡。 1972年(昭和47年) - 山小屋であるニューサンブジ(現在の雷鳥沢ヒュッテ)が、地獄谷温泉の北東端で開業。 1986年(昭和61年) - それまで山小屋として使用されていた室堂小屋(立山室堂山荘)が富山県指定有形文化財に指定され、翌年西側に新たな山小屋の建物が造られた。 1989年(平成元年)10月8日 - 北の真砂岳で8人が凍死する遭難事故が発生した。
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登山史
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1879年 - ベラ・スチェチェニー伯爵の遠征隊による最初の測量が行われ、7,600メートル(24,936フィート)と測定された。当時の名称は「ボー・クンカ」とされている。 1929年 - ジョセフ・ロックによる探査行が行われ、標高7,803メートル(25,600フィート)と算出された。 1930年 - 広東の中山大学遠征隊(アーノルド・ハイム隊長)による測量が行われ、7,700メートル(25,262フィート)と算出。これとは別にジャイアントパンダの調査のためにこの地域を探査したルーズベルト兄弟は疑問符付きながら9,144メートル(30,000フィート)と報告した。 1932年10月28日 - アメリカ隊のリチャード・バードソル、テリス・ムーアの二名が初登頂。バードソルは指に重度の凍傷、最終キャンプを守っていたエモンズも足の指を全て切断する重度の凍傷を負う。 1957年 - 中国隊が登頂、山頂に「缶」を埋めたとされるが、下山中に3人が転落死。 1980年 - 山域周辺への外国人立入禁止措置が解除、以降、各国の登山家が登頂を目指す。 1981年5月24日 - 北海道山岳連盟登山隊8名が滑落死。 1982年5月 - スイス隊が北西稜ルートで登頂。市川山岳会登山隊2名が遭難。山頂直下で無線機が故障したためサポート隊員が下山中のアタック隊員を遭難死と誤認。前進キャンプをすべて撤収してしまったため、体力が回復できないまま菅原真隊員が行方不明となり、松田宏也隊員は遭難から19日後に薬草採集のためベースキャンプ近くを訪れたイ族の住民に救出され生還した。5ヵ月後、遺体捜索に向かった市川山岳会のメンバー1名が高山病で死亡。 10月 アメリカ隊が北西稜ルートで登頂 1984年10月 - ドイツ隊が北西稜ルートで登頂。 1994年 - 日本ヒマラヤ協会隊の4名が行方不明。 1997年5月2日 - コンカ山登山隊(芳賀正志隊長)の横山英雄、長原孝友が北西稜ルートで登頂(日本人初登頂)。 1998年11月 - 韓国隊が北東稜ルートで初登頂。下山中に一人が墜落死。 2006年 - 韓国隊が1981年に遭難死した北海道山岳連盟登山隊の遺体を発見、翌年回収された。 2009年 - アメリカ隊の3名が燕子溝氷河を挟んだ向かいにある愛徳加(エドガー)峰に向かう途中で遭難。
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チベット仏教信徒による巡礼登山は数百年前から行われてきたが、いずれも山腹にある寺院までである。登頂の試みは1902年ごろに始まり、アメリカ、イギリス、日本、中国などがそれぞれ5~6回ほど登山隊を派遣してきた。三江併流の険しい地形やモンスーン地帯特有の厳しすぎる気候のために登頂は全て失敗に終わり、「神々の山」は未踏峰のままである。 地元では「神聖な山を汚す存在」として登山隊を嫌う風潮が根強く、「登山隊の遭難は当然の天罰」とする考えを持つ者も少なくなかった。2000年、雲南省デチェン・チベット族自治州徳欽県人民大会において、カワクボなどの主要な峰々はチベット仏教の巡礼地であり、この信仰と文化の尊重の為、将来に渡り登山活動は禁止されることが正式に立法された。
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登山史
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2021年11月17日 - 東野幸治、小阪健一郎5人が南壁の初登攀に成功した。
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登山史
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2016年4月、小阪健一郎ら二人の登山家が初下降に成功した。 2020年11月、小阪健一郎ら三人の登山家が初登攀に成功した。このクライミングが離島大滝の頂点として評価され、初登者の小阪が第5回日本開拓大賞を受賞した。
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登山史
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1931年 ソ連隊のミハイル・ポグレベツスキが北壁ルートから初登頂 1989年 国際山岳キャンプとして開放される。小野武彦、中野善人、小西浩文らが日本人初登頂 1993年 田部井淳子が登頂 2012年 平出和也が登頂 典拠管理 GND: 4516318-2 LCCN: sh2010013418 VIAF: 239637883 WorldCat Identities(VIAF経由): 239637883 この項目は、カザフスタンに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:アジア / プロジェクト:アジア)。 この項目は、山岳に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ山)。 座標: 北緯42度12分39秒 東経80度10分30秒 / 北緯42.2108度 東経80.175度 / 42.2108; 80.175
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登山史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 09:40 UTC 版)
フェアウェザー山の初登頂に成功したのは、1931年6月8日のことで、アレン・カーピ(Allen Carpe)、テリス・ムーア(Terris Moore)の2人パーティーが、この山の南東側の尾根を経由して山頂まで登ったことだとされている。なお、フェアウェザー山の西の尾根経由では、1968年6月12日に、ローレン・アドキンス(Loren Adkins)、ウォルター・ゴーブ(Walter Gove)、ポール・ミレ(Paul Myhre)、ジョーン・ニール(John Neal)、ケント・ストックス(Kent Stokes)の5人パーティーが、山頂まで登ったとされている。また、フェアウェザー山の南西の尾根経由では、1973年7月10日に、ピーター・メトカーフ(Peter Metcalf)、ヘンリー・フロースチュース(Henry Florschutz)、トビー・オー・ブリーン(Toby O'Brien)、リンカーン・ストラー(Lincoln Stoller)の4人パーティーが、山頂まで登ったとされている。
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登山史
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「セイントイライアス山」の記事における「登山史」の解説
セイントイライアス山に初めて登頂を成功させた人物は、アブルッツィ公であったとされている。彼は1897年7月31日に、山岳写真家のビトリオ・セラ(Vittorio Sella)を伴って、この登頂を記録させた。その後、知られている中で彼の次に山頂まで登ったのは、半世紀近く後の1946年に、ハーバード山岳クラブ(Harvard Mountaineering Club)のメンバーが、南西の尾根を経由したルートで登頂に成功したとされている。この登頂は、山岳史記録家のディー・モリナー(Dee Molenaar)によって記録されている。なお、この時のパーティーは、ディー・モリナーの他に、コーネリアス・モリナー(Cornelius Molenaar)、アンドリュー・カウフマン(Andrew Kauffman)、ベティー・カウフマン(Betty Kauffman)、メイナード・ミラー(Maynard Miller)、ウィリアム・ラタディ(William Latady)、ベンジャミン・フェリス(Benjamin Ferris)による7人パーティだったとされている。ただし、この他にウィリアム・パトナン(William Putnam)も登山に参加していたのだが、彼は山頂までは登らなかった。ちなみに、この8人の中には1人女性が含まれているわけだが、この1946年頃においては、登山パーティーに女性が含まれているということ自体がやや珍しいことであった。登頂までに彼らは11泊を要しており、うち8泊はアイシィー湾からセイントイライアス山に近づくために行い、残りの3泊はセイントイライアス山の山中で行った。しかも、彼らは食料を空輸して投下してもらうというサポートを受けながらの登頂であった。
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登山史
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ニコラ山の初登頂に成功したのは、1991年5月20日に、ジャームズ・ガレット(James Garrett)、ローレン・グリック(Loren Glick)、ケナン・ハーベイ(Kennan Harvey)の3人によるものだとされている。彼らは、最大で65度の傾斜がある氷壁を登って山頂に達したと言う。
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登山史
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2015年7月28日 小阪健一郎ら二人の登山家が初登攀に成功した。
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登山史
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1984年7月28日 - 広島山岳会(三好忠行総隊長)の名越實、木佐英一、岡本良一がI峰に初登頂。2日後にも二次アタック隊の5人が登頂に成功。 1985年 - キキ・パブロ(スペイン)隊、落石、氷塔の崩壊、雪崩の頻発により敗退。 1986年 - 成田俊夫(日本・パキスタン・アメリカ合同)隊が5,500mまで到達するが、落石の頻発により敗退。 1987年 - 長谷川恒男(ウータン・クラブ)隊、7,020mまで到達するが悪天候のため敗退。 1988年ヴィクター・サンダース(英米合同)隊、南東ピラーからアルパインスタイルで挑むが、アイゼンの破損、悪天候などにより敗退。 ミック・ファウラー(イギリス)隊、南稜からアルパインスタイルで挑むが悪天候により6500mで敗退。 1991年 - 長谷川恒男隊(長谷川恒男・星野清隆)の2名が雪崩に巻き込まれ遭難死。 1992年 - 成田俊夫隊、悪天候により5,400mで敗退。 1993年 - ノルウェー隊、悪天候により5,800mで敗退。 1994年ジュリアン・フリーマン(英米合同)隊、初の北面からの攻略が行われるが、悪天候により6,000mで敗退。 高橋堅(カトマンズ・クラブ)隊、6,900mで敗退。黒川溶三郎隊員が墜落死。 1996年7月11日 - 山崎彰人、松岡清司(碧稜山岳会)(日本山岳会東海支部)隊、南西壁をアルパインスタイルで初登頂。ABC(アドバンスドベースキャンプ)帰還後に山崎隊員が急死。 7月31日 - カトマンズ・クラブ隊の5人が南稜ルートで第2登を果たす。 2005年 - ヤニク・グラツィアーニ、クリスティアン・トロンスドルムが南東ピラー6,000m地点まで試登。 2007年 - コリン・ハレー、ジェド・ブラウンが南東ピラーに挑むが敗退。 2011年 - アルパインクライマーの佐藤裕介、一村文隆が南東ピラーに挑むも6,500mで敗退。 2018年 - クリスティアン・ヒューバーが雪崩により遭難死。同パーティのティモシー・ミラー、ブルース・ノーマンが負傷し救出される。
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登山史
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1786年8月8日、水晶取りのジャック・バルマ(英語版)とミッシェル=ガブリエル・パッカール(英語版)が、初めてモンブランの登頂に成功した。この登山は近代登山の創始者といわれるオラス=ベネディクト・ド・ソシュールの主導のもとに行なわれ、これが成功した要因の一つであるとされる。 1808年、マリー・パラディス(英語版)が女性として初めて登頂に成功した。 1886年、後のアメリカ合衆国大統領、セオドア・ルーズベルトが新婚旅行中に登山隊を率いて登頂した。
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登山史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 09:10 UTC 版)
1936年、「ジョージ・マロリー最後の目撃者」であるノエル・オデールと、ビル・ティルマンが初登頂に成功。1950年にアンナプルナが登頂されるまで、人類が登頂した最高峰であった。 1976年、高見和成と長谷川良典が主峰と東峰の縦走に初成功。
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登山史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 22:39 UTC 版)
1950年、南西壁ルートでデービッド・ハラーとジェームズ・マクスウェルが初登頂。 1966年、西壁直登ルートでリーフ・パターソンとホルヘ・ペテレクによる第二登。当該ルートによる初登頂。 1968年、北東壁ルートでクリス・ジョーンズとポール・ディクスが初登頂。 1969年、ラインホルト・メスナーとピーター・ハーベラー(英語版)による東壁登攀(登頂は標高6,121mのイェルパハ・チコ)。 イェルパハの南壁 イェルパハの遠景
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登山史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/24 18:08 UTC 版)
1917年に三角点が設置され、本格的な登山は1926年北海道スキー部山班の須藤宣之助らが最初であり、1929-1930年ごろに木下弥三吉が縦走に成功したのに対し、積雪期は1931年の鈴木音吉らが最初であった。
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登山史
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1921年にWordie、Mercanton、Lethbridgeが初めて登頂したとされている。
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登山史
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1289年に現地の部族が登頂したという記録があるが、史実かどうかは疑われている。1519年にエルナン・コルテスの部下、ディエゴ・デ・オルダスら3人がヨーロッパ人として初めてポポカテペトル山に登頂した。
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登山史
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1956年 - イギリス隊とフランス隊の初登頂争いとなり、わずか五日の差でイギリス隊に凱歌があがった。7月6日 - イギリス隊のジョン・ハートッグ、ジョー・ブラウン(英語版)、トム・ペイティ(英語版)、イアン・マクノート=デイヴィス(英語版)の四人が西面の北西稜から初登頂。 7月11日 - 初登頂の五日後、フランス隊のギド・マニョーヌ(フランス語版)、ロベール・パラゴ(フランス語版)、アンドレ・コンタミヌ、ポール・ケラー(フランス語版)の四人が南東陵から第二登に成功。 1984年 - イギリス隊のマル・ダフ、サンディ・アランらによって第三登。 2008年 - スロベニア隊が北東壁ルートの初登頂を目指したが、強風のため断念。バブル・コジョックが遭難死。 2012年8月25日 - ロシア隊のセルゲイ・ニロフ、ディミトリ・ゴロヴチェンコらにより北東壁ルートで初登頂。 ウィキメディア・コモンズには、ムスターグ・タワーに関連するカテゴリがあります。 典拠管理 VIAF: 315130796 WorldCat Identities(VIAF経由): 315130796 この項目は、山岳に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ山)。ページサイズ順山岳ページ一覧(小/大)
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登山史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 14:47 UTC 版)
1985年2月17日 一人の登山家が単独で初登攀に成功した。ただし最下段は巻いている。 2014年5月1日 成瀬陽一ら二人の登山家が最下段を含む初登攀に成功している。 2017年、2020年にもそれぞれ登山家らが最下段を含まずに登攀に成功している。
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登山史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 22:19 UTC 版)
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登山史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 15:12 UTC 版)
1890年に紀伊国の修験者天野磯次郎が鴛泊から北峰に登り不動明王を安置したのが最初とされる。翌1891年には水科七三郎と和田雄治が測量のために登攀し、1899年10月10日には陸地測量部の舘潔彦が長官山に登り一等三角点を選点した。鬼脇コースは1917年に鬼脇の住人斉藤熊蔵、集蔵親子が東陵道を開拓し、1921年に完成を見ている。冬季は1936年12月30日から1937年1月6日にかけて北海道大学の照井孝太郎ら4人が鴛泊ルートより初登頂に成功し、冬季単独初登頂は1951年2月1日に登歩渓流会の川上晃良が初の登攀者となっている。南稜の初登頂は1952年7月16日に同じ登歩渓流会の山口ら3人が初登頂に成功している。
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登山史
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北半球のバンクーバー山の初登頂は、1949年7月5日に、アラン・ブルース・ロバートソン(Alan Bruce-Robertson)、ボブ・マッカーター(Bob McCarter)、ノエル・オーデル(Noel Odell)の3人パーティーが、ウォルター・ウッド(Walter Wood)による援助を受けながら、この山の北西の尾根を経由して北峰の山頂まで登ったことだとされている。なお、この山の北東の尾根経由では、1975年に、クリフ・カンター(Cliff Cantor)、バブ・ダンゲル(Bab Dangel)、ポール・レドウクス(Paul Ledoux)、ロブ・マイルン(Rob Milne)、ハル・ムーレイ(Hal Murray)、ボブ・ウォーカー(Bob Walker)、ジョン・ヤテス(John Yates)、バートン・ディウルフ(Barton DeWolf)の8人パーティーが、北峰の山頂まで登ったと、バートン・ディウルフが翌年に発表している。また、この山の西の斜面経由では、1977年に、ジョン・ラチラン(John Lauchlan)、ジョン・カルバート(John Calvert)、トゥリバー・ジョーンズ(Trevor Jones)、マイク・ソーヤー(Mike Sawyer)の4人パーティーが、山頂まで登ったとされている。
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登山史
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富士登山の伝承においては伝説的な部分が多く入り混じっており、諸説存在する。 富士山の登山史和暦西暦内容補足推古天皇6年 598年 平安時代の甲斐の黒駒伝承には、聖徳太子が神馬に乗り富士山の上を越えたとする記述がある。 諸国から献上された数百頭の中から白い甲斐の烏駒(くろこま)を神馬であると見抜き、同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。 天智天皇2年 663年 役小角が、流刑された伊豆大島から毎晩密かに逃げ出し、富士山へ登ったという伝説が残る。 役小角は「富士山開山の祖」ともいわれる。この役小角の登山はマルセル・クルツの『世界登頂年代記』に掲載されており、記録は改訂されたものの「世界初の登山」という記述がされていた。 貞観17年 875年 平安時代の学者である都良香が『富士山記』の中で山頂火口のさまを記す。 山頂には常に沸き立つ火口湖があり、そのほとりに虎の姿に似た岩があるなど、実際に見た者でなければ知りえない描写から、実際に登頂したか、または登頂した者に取材したと考えられる。なおこの約10年前には山頂噴火ではないが有史最大の貞観大噴火があった。 久安5年 1149年 『本朝世紀』には末代上人が数百回の登山を繰り返したとある。 回数は一致するものかは不明であるが、登山を多く行った人物として知られる。 江戸時代に入ると富士講が盛んになり、多くの参拝者が富士登山(富士詣)をした。 特に江戸後期には講社が多数存在し、富士詣は地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っていた。最盛期には吉田口だけで百軒近くの宿坊(山小屋)があった。 文政11年 1828年 気圧計による高度測定の試み シーボルトの弟子である二宮敬作が登頂し、気圧の変化により高度測定を行った。伊能忠敬の測量では2603–3732 mとされていたが、この測定では3794.5 mと算出されている。 天保3年 1832年 高山たつが女性として初登頂。 女人禁制が敷かれていた時代である。 嘉永6年 1852年 松平宗秀(本庄宗秀)が近世大名として初登頂。 富士宮市の有形文化財となっている、造り酒屋の主人が記した『袖日記』という古記録に、宮津藩主松平宗秀が富士登山を行った記録がある。『袖日記』の6番によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されており、これを逸脱したり、たとえ社寺参詣であっても寄り道したりすることは許されない。このため富士に登山を幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。馬返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという地点である。そこで宗秀は嘉永6年(1852年)6月21日、幕府に秘密裡に登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。 万延元年 1860年 英国公使オールコックが外国人として初登頂。 『古事類苑』にオールコックの登山についての記録(富士重本が寺社奉行所に提出した届出)があり、「英人富士山ヲ測量スルニ就キ、大宮司ヨリ届書寫…廿二日大雨にて、廿四日晝立、大宮小休、村山泊に相成り、廿五日快晴致し、不士山六合目へ泊り、廿六日快晴頂上いたし…」とある。オールコックは7月24日に大宮から村山に入り登山を行い、26日に登頂した。 明治4年 1872年 女人禁制が解かれる。 明治時代になると信仰登山は徐々に衰退してゆき、代わって娯楽やスポーツとしても登られるようになり、欧米の近代登山技術が取り入れられることになる。 明治25年 1892年 英国人のウォルター・ウェストンが登頂。 翌年にも登頂した。その後、本を出版して富士山などの日本の山々を世界に紹介した。 明治28年 1895年 野中到が冬季初登頂。 2月16日に御殿場口から単独で登頂。同年10月から12月まで山頂で気象観測を行った。 大正12年 1923年 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の登山 7月26日の事、須走に赴いてから8合目まで乗馬にて登山後、8合目以上は徒歩にて登山を行なった。奥宮を参拝し金剛棒に焼印などを行った後、御殿場口より下山された。 大正12年 1923年 秩父宮雍仁親王の登山 8月20日の夜に御殿場口から登山し、翌朝頂上に到着。奥宮を参拝後、下山。 昭和2年 1927年 中村テルが冬季女性初登頂 1月1日に御殿場口から登頂、男性2人と共に。 昭和47年 1972年 富士山大量遭難事故 (1972年)。 悪天候による雪崩や低体温症などで24名の死者・行方不明者を出す国内最悪の遭難事故となった。 昭和63年 1988年 浩宮徳仁親王(当時・現今上天皇)の登山。 8月1日-2日の登山で、須走口から八合目を往復した。天候の悪化で登頂は断念される。 平成20年 2008年 皇太子徳仁親王が登頂。 8月7日に富士宮口を出発後、御殿場口登山道に入り登頂。 2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染拡大の影響で4つの登山道(御殿場ルート、須走ルート、富士宮ルート、吉田ルート)が史上初の閉鎖となった。
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登山史
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1950年6月3日 - モーリス・エルゾーグとルイ・ラシュナル(フランス語版)が北東壁ルートで初登頂。無酸素。ルートは北氷河から鎌氷河を経由して北東壁。 1964年10月13日 - 京都大学登山隊が南峰(7219 m)に初登頂。 1970年5月19日 - 宮崎英子が率いる日本の女子登攀クラブ隊の田部井淳子と平川宏子、2名のシェルパがⅢ峰(英語版)(7555 m)に登頂。 1970年5月27日 - クリス・ボニントンが率いる1970年英アンナプルナ南壁遠征(英語版)において、ドン・ウィランス(英語版)とドゥーガル・ハストン(英語版)の両名が南壁からの初登頂に成功するが、イアン・クラフ(英語版)が第2キャンプ直下でセラック崩壊により死亡。 1971年 - フランスのジェラール・ドゥヴァス(フランス語版)、ジョルジュ・パイヨ、イヴォン・マジノ、モーリス・ジッケルが南峰(英語版)(7219 m)の南壁初登攀に成功。 1977年 - オランダのマシュー・ファン・リーズウィックが二名のシェルパと共に北東バットレスと鎌氷河の間にある側稜を経由して登頂。以降このルートはダッチ・リブと呼ばれ、雪崩が起きやすい鎌氷河に代わるスタンダードなルートとなるが、急峻でルート工作を必要とするため少人数の隊は鎌氷河を選ぶ傾向にある。 1978年10月15日 - アメリカ女性隊(アーリーン・ブラム隊長)のアイリン・ミラーとヴェラ・カルマコワが二名のシェルパと共にダッチ・リブより女性初登頂。第二次登頂の二名が滑落死。 1979年5月8日 - 静岡県山岳連盟ヒマラヤ登山隊の田中成三がシェルパと共にダッチ・リブから日本人初登頂。(登頂時無酸素) 1981年 - 青田浩、柳沢幸弘が南壁新ルートで登頂。 1984年 - エアハルト・ロレタン、ノルベルト・ヨースが東稜から初登頂し、北面へ縦走した。この縦走は予定になかったことであり、南側にベースキャンプを構えていた他の隊員はカトマンズで2人と落ち合うまで2人の消息をつかめていなかった。 1985年 - ハンス・カマランダー、ラインホルト・メスナーが北西壁新ルートで登頂。 1987年2月3日 - ポーランドのイイジ・ククチカとアルトゥール・ハイゼルが冬季初登頂。 1987年12月20日 - 山田昇、三枝照雄らが南壁新ルートで登頂。 1992年10月11日 - ピエール・ベジャンが南壁で墜死。パートナーのジャン=クリストフ・ラファイユは落石で右腕を骨折し、確保するギアもほとんどない状態で、一人で数日かけて下山した。 2003年5月16日 - I峰南壁を無酸素登頂。明治大学山岳部隊: 高橋和弘, 加藤慶信, 天野和明, 森章一, 早川敦 2004年5月29日 - 竹内洋岳が北面ルートで登頂。 2004年10月10日 - 名塚秀二と佐藤理雄が北面ルートで大型雪崩により遭難死。 2007年5月21日 - スイスのウーリー・ステックが南壁ベジャン・ラファイユルートに挑むが、頭部に落石を受けて300 m転落。奇跡的に助かった。 2007年10月28日 - スロベニアのトマジ・フマルが南壁ルートで東峰に初の単独登頂。 2008年5月23日 - スペインのイニャキ・オチョアが遭難死。別ルートを登っていたウーリー・ステックが駆けつけるが助からず。 2011年10月18日 - 韓国の朴英碩が南壁登攀中に遭難し、消息を絶つ。 2013年10月9日 - ウーリー・ステックが3度目の挑戦でⅠ峰に単独初登頂(南壁ベジャン・ラファイユルート初登)。
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登山史
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マッターホルンが制覇されたのはアルプスの他の山々と比べれば最近のことである。これは技術的な困難によるものではなく、この山が霊峰であるということを初期の登山家達が恐れたからであった。マッターホルン制覇の試みが始まったのは1857年ごろで、多くの登山家はイタリア側から挑戦した。しかしイタリア側の登山路は険しく、多くの登山隊は岩壁を攻略できずに退散した。 数回の失敗と民族主義的な中傷を受けつつも、1865年7月14日、エドワード・ウィンパー、チャールズ・ハドソン、フランシス・ダグラス卿、ダグラス・ハドウのイギリス人パーティはミシェル・クロとタウクヴァルター父子をガイドにして登頂に挑戦して初めてこれに成功、これがアルプス黄金時代の終焉とされる。このとき選んだヘルンリ尾根を通る登山路は他のルートより平易であった。下山中、ハドウの滑落にクロとハドソン、ダグラス卿が巻き込まれ、クライミングロープが何らかの衝撃により切れ4人は1,400 m下に落下して死亡した。発見されなかったダグラス卿を除く3人の遺体はツェルマットの墓地に埋葬された。なおウィンパー著『アルプス登攀記』が岩波文庫上下と講談社学術文庫で刊行されている。 初登頂から3日後の7月17日、ジャン=アントワーヌ・カレル率いる登山隊がイタリア側からの登頂に成功した。1868年にはジュリアス・エリオットが自身2度目の登頂を果たし、同年ジョン・ティンダルは2人のガイドとともにマッターホルン初縦走に成功した。1871年にはルーシー・ウォーカーがライバルのメタ・ブレヴォールに数週間先だって女性初の登頂を成し遂げた。1923年には日本人として麻生武治が初登頂を果たした。 その他の主な登頂歴 1879年9月3日 - アルバート・ママリーらがツムット稜から登頂。 1931年8月1日 - トニー・シュミット、フランツ・シュミット兄弟が北壁を初登頂。 1965年2月22日 - ヴァルテル・ボナッティが初の冬季北壁単独登頂(新ルート)。 1965年8月6日 - 服部満彦と渡部恒明が北壁を日本人初登頂。 1967年7月19日 - 今井道子、若山美子の2人が女性パーティーとして初めて北壁からの登頂に成功。 1969年7月29日 - 福島博憲が単独で北壁を日本人初登頂(世界第三登)。 1977年2月16日 - 長谷川恒男が冬季北壁単独第二登。
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1920年(大正9年)7月1日に日本山岳会の藤島敏男と森喬が土樽村から案内人の剣持政吉と共に登頂し、近代登山において初の記録を残す。この時の行動は湯沢町大字土樽の毛渡沢-魚野川出会い付近からシッケイ沢を遡上し残雪期の雪渓を通るもので、現在でも同様のルートに夏道はなく土樽側からの直登は積雪期・残雪期に限られる。
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ルカニア山の初登頂に成功したのは、1937年のことで、ブラッドフォード・ウォッシュバーン(Bradford Washburn)とロバート・ヒックス・ベイツ(Robert Hicks Bates)の2人パーティーによるものとされている。その後、知られている中で彼らの次にルカニア山の山頂まで登ったのは、30年も後の1967年に、ジェリー・ローチ(Gerry Roach)らのパーティーが登頂したものとされている。
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「ガッシャーブルムIV峰」の記事における「登山史」の解説
1958年 - イタリア隊のワルテル・ボナッティとカルロ・マウリが初登頂。 1985年 - ヴォイテク・クルティカとロベルト・シャウアーが西壁の初登攀に成功。ただし悪天候と極度の疲労により登頂は断念した。
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