民族史
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民族史(みんぞくし)は生活や歴史に関する情報の典拠と同じく文化や先住民の習慣の研究である。今も存在したり存在していない可能性のある様々な民族性の歴史の研究でもある。この用語はアメリカ大陸史について書く際に最も広く使われている。
民族史はその根拠として歴史学的なデータと民族学誌的なデータの両方を用いている。その歴史学的な手法と道具は、文書と写本の標準的な利用に勝っている。専門家はこのような根拠となる資料を利用することを地図や音楽、絵画、写真、民間伝承、口承、遺跡探査、考古学的出土物、博物館収蔵品、恒久的な習慣、言語、地名として認めている[1]。
歴史的展開
メキシコの先住民の歴史を研究する学者には植民地時代に遡る長い伝統があり、メキシコの先住民の歴史を書くのにアルファベット文書などの典拠を用いた。考古学者ロバート・ウォーチョープが編集した中央アメリカの先住民便覧は1973年に著される民族史に関わる典拠への案内として出版されるメソアメリカの民族史に関する多様な書物を作るのに関わった[2]。書物が出版された時に「「民族史」という用語とここで使われる観念としての概念の両方が最近の傾向よりも文献に入っていて十分に合意が得られていない」[3]。書物は「後に専門家が専門的に受け入れられる民族史を示すのに利用できる」典拠の目録であることを意図された[4]。
20世紀中葉から後半にメキシコの多くの民族史学者が現在新哲学として知られる民族史の分野にメキシコの先住民の言語に系統立って多くの植民地のアルファベット文書を発行し始めた。これは十分に先住民の歴史を統合するメキシコの歴史を書く専門家の旧来の伝統を構築した[5][6][7]。
アメリカ合衆国ではフィールドは先住民権利委員会から求められるアメリカ先住民社会の研究から発展した。専門家が先住民に有利になろうと不利になろうと宣誓する中で理論的な関心よりも実践的な関心が得られた。新興の方法論は文書に示された歴史的な出典や民族誌学的な方法を用いた。事例研究をした学者にフロリダの先住民やジカリラ・アパッチやエミニー・ウィーラーヴィージリンについて研究するよう依頼された五大湖とオハイオ渓谷調査事業の代表でアメリカ民族史協会の創設者ラテンアメリカ学者ハワード・F・クラインがいた[8]。
フィールドはメラネシアにも到達し、ここでは最近のヨーロッパの接触で研究者が直接後期接触期の前期を観察し重要な理論上の疑問を明らかにできた。マイケル・ハーキンは民族史は20世紀後半の歴史と人類学の間の一般的な友好関係の一部であったと主張している[9]。
民族史は有機的に包括的な指標や意識した計画のないままに外部の非学術的圧力への謝意を増大させ、それにしても文化的・歴史的分析に中心となる問題を引き入れることになった。民族史学者は特定の集団に関する特別な知識や理解、文化的現象の解釈を用いることに誇りを持った。平均的な歴史学者がある集団によったりその集団のために作られた文書に単に基づいて行動する能力以上に深入りできる分析を発展させていると主張している[10]。自身の言葉や文化的な規範によって文化を理解しようとしている[11]。民族史は分析方法としての観点を含む歴史的に関連のある方法論とは異なっている。フィールドとその手法は全体論的で包括的な枠組みのためにアメリカ先住民の歴史を著すのによく合致している。異なる枠組みに橋渡しでき更に見識の深い過去を解釈する際の文脈につながれるために特に重要である。
フィールドの定義は長年の間に洗練されたものになっている。嘗ては民族史はウィリアム・N・フェントンが言うように特に「歴史的な出土物を利用することで民族学的概念や物質を批判的に利用する」新しい観点を加えた厳密な意味での歴史とは異なっていた[12]。後にジェームズ・アクステルは民族史を「民族学的概念と分類で定義される文化における本質の知識と変化の原因を得る歴史的・民族学的手法の利用」と表現した[1]。他に以前は無視された歴史的な関係者にこの基本的な概念を当てている人がいる。例えばエド・シーフェリンは民族史は基本的に事件がどのように起こるかという人々自身の感覚即ち文化的に過去を構築する手法を考慮しなければならないと主張した[13]。最後にシモンズは「出典物が許す限り長期に様々な証拠として生かす一種の文化的な伝記」として民族史を理解することを明確に述べた。民族史を「生きる人々の記憶と声に結びつけられるなら」最も有益なホーリズムと歴史に関わる手法に基づく試みと表現した[14]。
アメリカ合衆国の調査フィールドとして民族史の歴史を思い浮かべながらハーキンは歴史と人類学のフィールドの集合と分岐の広範な概念と20世紀中葉の北アメリカの先住民の土地要求と法律史の特別な環境の中に関連付けて考えた[15]。
(アイルランドのような)ヨーロッパの伝統的な社会の民族史研究に関する可能性を論評しながらガイ・バイナーは「民族史の発展に貢献する人々は効果的に西洋社会の研究に応用できるこの研究法を論じてきたがこのような新しい試みは獲得されておらずヨーロッパ社会で殆ど明白に示されていない民族史が現在までのところ書かれている」と気付いた[16]。
関連項目
参照
- ^ a b Axtell, J. (1979). “Ethnohistory: An Historian's Viewpoint”. Ethnohistory 26 (1): 3–4. doi:10.2307/481465. JSTOR 481465.
- ^ Handbook of Middle American Indians, Guide to Ethnohistorical Sources, volumes 12-16, Howard F. Cline, general editor. Austin: University of Texas Press 1973.
- ^ Howard F. Cline, "Introduction: Reflections on Ethnohistory" in Handbook of Middle American Indians, Guide to Ethnohistorical Sources, vol. 12, p. 3.
- ^ Cline, "Introduction: Reflections on Ethnohistory", p. 4.
- ^ James Lockhart, "Charles Gibson and the Ethnohistory of Postconquesst Central Mexico" in Nahuas and Spaniards: Postconquest Central Mexican History and Philology. Stanford University Press and UCLA Latin American Studies, vol. 76. 1991, p. 178
- ^ Restall, Matthew, "A History of the New Philology and the New Philology in History", Latin American Research Review - Volume 38, Number 1, 2003, pp.113–134
- ^ “Sources and Methods for the Study of Postconquest Mesoamerican Ethnohistory, Provisional Version, James Lockhart, Lisa Sousa, and Stephanie Wood, editors (2007)”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ Newsroom, IU Bloomington. “IU ethnohistory archives to bear name of pioneering researcher Wheeler-Voegelin: IU Bloomington Newsroom: Indiana University Bloomington” (英語). news.indiana.edu. 2015年9月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年3月1日閲覧。
- ^ Michael E. Harkin, "Ethnohistory's Ethnohistory," Social Science History, Summer 2010, Vol. 34#2 pp 113-128
- ^ Lurie, N. (1961). “Ethnohistory: An Ethnological Point of View”. Ethnohistory 8 (1): 83. doi:10.2307/480349. JSTOR 480349.
- ^ DeMallie, Raymond J. (1993). “These Have No Ears": Narrative and the Ethnohistorical Method”. Ethnohistory 40 (4): 515–538. doi:10.2307/482586. JSTOR 482586.
- ^ Fenton, W. N. (1966). “Field Work, Museum Studies, and Ethnohistorical Research”. Ethnohistory 13 (1/2): 75.
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- ^ Simmons, W. S. (1988). “Culture Theory in Contemporary Ethnohistory”. Ethnohistory 35 (1): 10. doi:10.2307/482430. JSTOR 482430 .
- ^ Harkin, Michael (2010). “Ethnohistory's Ethnohistory: Creating a Discipline from the Ground Up”. Social Science History 34 (2): 113–128. doi:10.1215/01455532-2009-022.
- ^ Guy Beiner, Forgetful Remembrance: Social Forgetting and Vernacular Historiography of a Rebellion in Ulster (Oxford University Press, 2018), p.10.
参考文献
- Adams, Richard N. "Ethnohistoric research methods: Some Latin American features." Anthropological Linguistics 9, (1962) 179-205.
- Bernal, Ignacio. "Archeology and written sources.". 34th International Congress of Americanists (Vienna, 1966). Acta pp. 219–25.
- Carrasco, Pedro. "La etnohistoria en Meso-américa." 36th International Congress of Americanists (Barcelona, 1964). Acta 2, 109-10.
- Cline, Howard F. "Introduction: Reflections on Ethnohistory" in Handbook of Middle American Indians, Guide to Ethnohistorical Sources, Part 1, vol. 12. pp. 3–17. Austin: University of Texas Press 1973.
- Fenton, W.N. "The training of historical ethnologists in America." American Anthropologist 54(1952) 328-39.
- Gunnerson, J.H. "A survey of ethnohistoric sources." Kroeber Anthr. Soc. Papers 1958, 49-65.
- Lockhart, James "Charles Gibson and the Ethnohistory of Postconquesst Central Mexico" in Nahuas and Spaniards: Postconquest Central Mexican History and Philology. Stanford University Press and UCLA Latin American Studies, vol. 76. 1991
- Sturtevant, W.C. "Anthropology, history, and ethnohistory." Ethnohistory 13(1966) 1-51.
- Vogelin, E.W. "An ethnohistorian's viewpoint" The Bulletin of the Ohio Valley historic Indian conference, 1 (1954):166-71.
外部リンク
民族史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 22:54 UTC 版)
問言汝者天神御子仕奉耶之時。諸魚皆仕奉白之中。海鼠不白。爾天宇受売命。謂海鼠云。此口乎。不答之口而。以紐小刀。拆其口。故於今海鼠口拆也。・・・・(古事記)天宇受売命(あめのうずめのみこと)が海の魚を集めて「天つ神の御子に従うか?」と聞いたときに、魚達は皆「従う」と答えたのに、ナマコだけは黙殺した。そこで怒った天宇受売命は、「この口は答えぬ口か」と紐小刀でナマコの口を切り裂いた。そのためいまでもナマコの口は裂けているという。 平城宮に隣接して在ったとされる長屋王家の邸宅址より発掘された木簡(「長屋王木簡」と称される)のうちにも、「熬鼠」・「熬海鼠」の表記でナマコの煮干品が記載されている(ただし、マナマコ以外の別種のナマコ類を加工した製品が混在していた可能性はある)。 王慧棽、2012.ナマコ食文化の変容に関する考察―中国・遼東半島の事例を中心に―.哲学(128): 347- 367. ⇓ 中国では、燕窩・魚翅・乾鮑(干鲍)・熊掌などとともに食材として珍重され、「海参」と称される。生食する習慣はなく、もっぱら乾燥品を戻してから調理される。中国においては、ナマコの食習慣の中心は、東北部の山東省・遼寧省(遼東)にある。 朝鮮でも、李睟光が著した「芝峯類説」(1614)に「海参」の名があらわれる。朝鮮でも、17世紀に至って、生のナマコと干しナマコとを、ともに「海参」の名で呼ぶようになったが、それ以前は「泥(진흙)」と呼ばれていたという。 日本の文献上では、まず古事記に「海鼠」として登場する 於是送猿田毘古神而、還到、乃悉追聚鰭廣物鰭狹物、以問言、汝者天神御子仕奉耶、之時、諸魚皆、仕奉、白。之中、海鼠不白。爾天宇受賣命謂海鼠云、此口乎、不答之口、而以紐小刀拆其口。故、於今海鼠口拆也。 是に於て猿田毘古神(さるたびこのみこと)を送りて、還り到りて、乃ち悉く鰭(はた)の広物(ひろもの)・鰭の狹物(さもの)を追ひ聚め、以て問ひて言ふ、「汝(な)は、天つ神の御子に仕へ奉らむや。」と。之の時、諸々の魚、皆、「仕へ奉らむ。」と白(まを)す。この中、海鼠(こ)のみ白さず。爾(ここ)に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、海鼠に謂ひて云く、「此の口や、答へざるの口。」と。而して紐小刀(ひもかたな)を以て其の口を拆(さ)く。故に、今に於いて海鼠の口、拆くるなり。 天宇受売命は、ここで天孫降臨の先導を務めてくれた猿田毘古神(さるたひこのみこと)を送って帰って来て、即座に海中の大小のあらゆる魚たちを悉く呼び集めて尋ねて言った、「お前達は天つ神の御子に従順に仕え奉るか?」と。すると、魚どもは皆、「お仕へ奉りまする。」と申し上げる。 と、その中、海鼠だけは答えようとしない。 ここに天宇受売命(あめのうずめのみこと)は海鼠に向かって言った、「この口は、答えぬ口なのね。それじゃあ、こんな口はいらないわ。」と。そして飾り紐の付いた小刀で、その海鼠の口を裂いた。故を以て今に至るまで海鼠の口は裂けているのである。 平安時代の「和名類聚抄」 には「老海鼠」・「虎海鼠」として収録されている。 [[崔禹錫食經云海鼠。和名古本朝式加熬字云伊里古。似蛭而大者也 崔禹錫ヶ「食經」ニ云ク、『海鼠。』和名、『古(こ)』。本朝式ニ「熬」ノ字ヲ加ヘテ『伊里古』ト云フ。蛭ニ似テ大ナル者ナリ。]] また「令義解(りょうぎのげ)」や「延喜式」にも見出されるなど、古くから比較的に親しまれたことがうかがえる。 戦国期、山科言継 が遺した 言継卿記には、浪岡城(青森県青森市浪岡:旧南津軽郡浪岡町)主であった浪岡北畠氏が、言継のもとに使者を派遣し、朝廷から位を受ける許可を得ようとさまざまな働きかけをしていたことが触れられている。その根回しの一環である 賄いとしての贈答品の中に、「煎海鼠(いりこ)』が挙げられており、また、逆に『昆布や煎海鼠等を度々送ってきている浪岡北畠氏の使者・彦左衛門に、保童円(ほどうえん:胃腸用丸剤の一種)と五霊膏(ごれいこう:眼病用の軟膏) とを遣した』との記事もみえる。 「海鼠」の語源については、本朝食鑑によれば、「訓奈麻古(奈麻古(なまこ)ト訓ズ」と付記されている。この記事ではまた、前述した古事記への登場を引用し、さらに調理法や薬効についても触れている。 [[土肉:郭璞ガ江賦(カウノフ)ニ『土肉石華』ト。文選註ニ曰ク『土肉ハ正黒、小児ノ臂(ヒ=二の腕)ノ如クニシテ長サ五寸、中ニ腹(ハラ=内臓)有リテ口・目ハ無ク、三十ノ足ガ有リ』、ト。故ニ世人、以テ海ノ鼠ニ似タルヲ別名ト爲ス。江海ノ處處(ところどころ)ニ之(こ)レ有リ、之江東ニ最モ多シ。尾ノ和田・參ノ柵ノ嶋(さくのしま)・相ノ三浦・武ノ金澤、本木(ほんもく)也。海西ニモ亦(また)多ク采ル(=多産する)。就中(なかんづく)、小豆嶋ニ最モ多シ。状(かたち=形態)ハ鼠ニ似テ頭モ尾モ手足モ無ク、但(ただ)前後ニ兩口(りょうのくち=口および肛門)ガ有ルノミ。長サ五、六寸ニシテ圓(まる)ク肥ユ。其ノ色ハ蒼黒ク、或イハ黄・赤ヲ帶ブ、背ハ圓(まどか)ニテ腹ハ平ラカ、背ニ瘖㿔(=いぼ)多クシテ軟カナリ。兩脇ニ在ル者ハ足ノ若(わか)キニシテ、蠢跂來徃(しゆんきらいわう)ス(「蠢跂來往(たえずうごめか)ス」と読み下す説もあり)。腹ノ皮、青碧、小瘖㿔(しやういぼ)ノ如クニシテ軟カナリ。肉味、略(ほぼ)、鰒魚(ふくぎよ=アワビ)ニ類シテ甘カラズ。極メテ冷潔ニシテ淡美ナリ。腹内ニ三條ノ膓有リ。色白クシテ味ヒ佳ナラズ。此物、殽(=酒肴)品中ノ最モ佳ナル者ナリ。 本朝ニテ海鼠ト伝フ有ル者尚)シ、矣『古事記』ニ曰ク、諸魚奉ヘ仕ルト白(まう)スノ中ニ、海鼠、不白。爾(ここ)ニ、天宇受賣命(あめのうずみのみこと)海鼠ニ謂イテ曰ク『此ノ口ヤ、不荅口。』ト伝ヒテ、細小刀ヲ以テ其ノ口ヲ拆(さ)ク。故ニ今ニ於イテ、海鼠ノ口ハ拆ケタリ。 一種、長サ二三寸、腹内ニ沙(すな=砂)多クシテ、味モマタ短キ(=劣る)モノ有リ。一種、長サ七八寸有リテ肥大ナル者有リ、腹内ニ三條(=三本)ノ黄腸(きわた)ガ琥珀ノ如クシテ、之ヲ淹(つ)ケテ醬(しゃう)ト爲シ、味ワヒ香美、言フヘカラス。諸(さまざま)ナ醢(ひしお=塩辛)ノ中ノ第一ト爲スナリ。事、後(しり)ヘニ詳カナリ。其ノ熬(いり)シテ而乾ク者ハ亦見于後(しり)ヘニ詳カナリ。今庖人(はうじん=料理人)、生鮮ノ海鼠ヲ用ヒ、灰砂ヲ混ジテ籃(らん=籠)ニ入レテ之ヲ篩フ。或ハ白鹽(=塩)ヲ抹シテ擂盆中ニ入レ、杵ヲ以テ旋磨スルトキハ則チ久シクシテ凝堅(ぎゃうけん=堅く締まる)ス。其ノ味ハヒ、鮮脆ニテ甚ダ美、呼(よび)テ「振鼠(ふりこ)」ト稱ス也。肉ハ性鹹寒ニシテ毒無シ(稲草・稲糠・灰砂及ビ鹽ヲ畏レ、河豚毒ヲ伏ス):腎ヲ滋シ、血ヲ凉シウシ、髪ヲ烏(くろ)クシ、骨ヲ固クシ、下焦ノ邪火ヲ消シ、上焦ノ積熱ヲ祛(さ=去)ル。多ク食クエバ則チ腸胃冷濕シ洩レ易ク、熱痢ヲ患(うれ)ヘル(患っている)者、宜シク少食スヘシ。或イハ頭上ノ白禿及ヒ凍瘡ヲ療(いや)ス。 海鼠の肉は鹹寒(かんかん)。毒はない。〔稲藁・稲の糠(ぬか)・灰砂(はいずな)及び塩を畏(おそ)れる。また、河豚(ふぐ)の毒を制する。〕。腎を健やかにし、熱を持った血を穏やかに下げ、髪を黒々とさせ、骨を堅固にし、下焦(げしょう)の客熱を収め、上焦(じょうしょう)の鬱積した熱を速やかに去る。多く食べると、直ちに腸・胃が急速に冷濕(れいしつ)の性に向かうため、排泄に於いては洩らし易くなるので、熱を伴う痢病(りびょう)を患っている者の場合は、くれぐれも適量たる少量を食すよう、心掛ける必要がある。なお、これとは全く別な附方として、頭部に出来た白癬(しらくも)及び、やや進行した凍傷を療治することが出来る。]] 江戸時代中期に編纂された和漢三才圖會 では「海鼠」の項を設け、[[石華が「文選」の註に云ふ、『土肉は、正黑にして、長さ五寸、大如小兒之臀、腹有りて、口・目無く、三十の足、有り。可炙食。』と。と引用し、さらに按、海鼠中華之海中之無、見遼東・日本之熬海鼠、而未見生者。故載諸書上所、皆熬海鼠也。剰「文選」之土肉入下「本草綱目」恠類獸。惟「寧波府志」言所、詳也。寧波甚不遠去日本、近年以來、多日本渡海舶以寧波爲湊。海鼠亦、少移至哉。於今唐舩來時長崎、必買多熬海鼠而去也。]]と記して、長崎に寄港した唐船向けとして重要な交易品であったことを紹介している。また、加工品としての「いりこ」や「このわた」についても、別項を設けて詳述している。 熬海鼠(或イハ「熬」ハ「煎」ニ作ル(=…と表記する)俱ニ「伊利古」ト訓ズ)。釋名=海參。李東垣(氏が著した)『食物』ニ曰ク、『功、補益ヲ擅(ほしいまま)ニス』ト。故ニ之ヲ名ヅクル乎(か)。世人、間(まま)、之ヲ稱スル者有リ。『本朝式』ニ「熬海鼠」ト稱ス。之ヲ造ルニ法、有リ。鮮生ノ大海鼠ヲ用イテ、沙(すな=砂)・腸ヲ去リテ後、数百枚、空鍋ニ入レテ活火(つよび)ヲ以テ之ヲ熬(い)ルトキハ、則チ鹹汁(しほじる)自ラ出デテ黒ク焦ゲ燥(かは)キテ硬キヲ取リ出シ、冷(さむる)ヲ候(うかが)ヒテ兩小柱ニ懸ケ列(つら)ヌ。一柱、必ズ十枚ヲ列ヌ。呼ビテ『串海鼠』ト號シ、「久志古(くしこ)」ト訓ズ。大ナル者ハ藤蔓ニ懸ク。今江東ノ海濱及ビ越後ノ産、斯(か)クノコトシ。或ハ海西・小豆嶋ノ産、最モ大ニシテ味モ亦(また)甘美也。薩州・筑州・豊ノ前後ヨリ而出ル者ハ極メテ小ナリテ之ヲ煮ルトキハ則チ大(おほ)ヒ也。熬(い)リト作(な)スノ海鼠ハ六七寸ヲ過グル者ヲ以テス。其ノ小キナル者ハ佳ナラズ。大抵、乾曝ルニ串ト作(な)シ、藤ト作(な)シ、之ヲ用ユ。先ヅ水ニ煮、稍(やや)久シク時ンバ、彌(いよいよ)肥大ニシテ軟ナリ。味モ亦、甘美ナリ。稲草・米糠ノ類ト或ハ合ハセ煮熟スモ亦(また)軟ラカカリ。或ハ土及ビ砂ニ埋ムコト一宿(=一晩)ニシテ取リ出ダシ、洗浄シテ煮熟スモ亦(また)可也。古ヘヨリ之ヲ用ヰル者久シ。「本朝式」・「神祇部」ニ『熬海鼠二斤』ト有リ、「主計部」ニ『志摩・若狹・能登・隱岐・筑前・肥ノ前後州、之ヲ貢ス』ト。今、亦、上下、之ヲ賞美ス。氣味ハ鹹、微甘、平、毒無シ:主治ハ氣血ヲ滋補シ、五臓六腑ヲ益シ、三焦ノ火熱ヲ去ル。鴨肉ト同ジク烹熟(はうじゅく)シテ之ヲ食セハ、勞怯・虚損ノ諸疾ヲ主(す)ベル。猪肉ト同ジク煮食セハ、肺虚・欬嗽ヲ治ス(此、李杲ガ『食物本草』ニ據ル)。腹中ノ悪蟲ヲ殺(さっ)シテ然シテ小児ノ疳疾ヲ治ス。 海鼠腸(古乃和多ト訓ズ)或ハ「俵子(たわらこ)」』ト稱ス。腸醬ヲ造ル法、先ヅ鮮腸ヲ取リテ潮水ノ至ッテ清キ者ヲ用ヰテ洗浄スルコト數十次、沙及ビ穢汁ヲ滌去シテ白鹽ニ和シテ攪勻シテ之ヲ收ム。以純黄ノ光有リテ琥珀ノ如キ者ヲ以テ上品ト爲シ、黄中、黒・白相ヒ交ジル者ヲ以テ下品ト爲ス。今、三色相ヒ交ジル者ヲ以テ日影ニ向ケテ箆(へら)・箸ヲ用ヰテ頻ニ之ヲ攪ク(=撹拌する)時ハ則チ盡ク變ジテ黄ト爲ル。或ハ腸一升ニ雞子ノ黄汁一箇ヲ入レ、箆・箸ヲ用ヰテ之ヲ攪勻スルモ亦、盡ク黄ト爲ル。味モ亦、稍(やや)美ナリ。一種、腸中ニ色赤黄、糊ノ如キ者有リ、號シテ鼠子(このこ)ト曰(い)フ。珍ト爲サズ。凡ソ海鼠、古(いにし)ヘハ能登ノ國、海鼠腸一石ヲ貢ス。「主計部」ニ『腸十五斤』ト有リ。今、能登、之ヲセズ。尾州・参州ヲ以テ上ト為シ、上武ノ本木、之ニ次グ。諸海國、海鼠ヲ采(と)ル處(ところ)多クシテ、而腸醬ヲ貢スル者少ナシ。是(これ)黄腸ハ好ム者全ク希ナルノ故也。近世、參州柵ノ嶋ニ異僧有リ、戒ヲ守リテ甚ダ厳ニシテ、腸醬ヲ調和スルハ最モ妙ナリ。浦人、腸ヲ取リテ洗ヒ浄メテ盤(うつわ)ニ入ル。僧、之ヲ窺ヒ、腸ノ多少ヲ察シテ妄(みだ)リニ白鹽(なまじほ)ヲ擦(す)リテ腸ノ中ニ投ズ。浦人、木箆ヲ用ヰテ攪勻シテ之ヲ收ム。二三日ヲ經テ之ヲ甞ムレバ、其味ハヒ言フ不可(べからず)。今、貢獻ル者、是也。故ニ參州之産ヲ以テ上品ト爲ス。後ニ僧故(ゆえ)有リテ尾州ニ移リテ、復(ま)タ腸醬ヲ調ヘテ尾州之産ヲ以テ第一ト為ス。世、皆、奇ナリト稱ス。附方凍腫裂レント欲ス(鮮海鼠ノ煎濃汁ヲ用ヰテ頻頻(ひんぴん)、之ヲ洗フ。或ハ熱湯ヲ用ヰテ腸醬ヲ和シ、攪勻シテ洗ヒ、亦(また)好シ。頭上ノ白禿(しらくも)、生海鼠ノ腹ヲ割キ、腸ヲ去リ、掣(を)シ張リテ厚紙ノ如クニシテ頭上粘スル時ハ則チ癒ユ。濕冷ノ蟲(=虫)痛及ビ小児ノ疳傷・泄痢(=下痢)、常食シテ好シ。又、熬海鼠ヲ用ヒテ保童圓ノ中ニ入リテ謂フ、能ク疳ノ蟲ヲ殺ス、ト。 和漢三才圖會において示されている「たわらご」という呼称について、江戸時代後期の風俗習慣についてまとめた嬉遊笑覧では、[[俵子(たわらこ)は沙噀(さそん:海鼠の別称)の乾たるなり。正月祝物に用る事目次のことを記ししものにも唯その形米俵に似たるもの故俵子と呼て用るよしいへり。俵の形したらんものはいくらもあるべきにこれを用るは農家より起りし事とみゆ。庖丁家の書に米俵は食物を納るものにてめでたきもの故たわらごと云ふ名を取て祝ひ用ゆるなり]]と述べ、伊勢貞丈もまた「海鼠の乾したるなり(中略)其の形少し丸く少し細長く米俵(こめだわら)の形の如くなる故タワラゴと名付けて正月の祝物に用ふる事、庖丁家の古書にあり。米俵は人の食を納る物にて、メデタキ物故タワラコと云ふ名を取りて祝に用ふるなり。」と要約している。いっぽう、蔀関月は、「俵子は虎子の転じたるにて、ただ生海鼠の義なるべし」と簡潔に触れているのみである。 現代においても、九州各地や長崎県下では、雑煮になまこをとり合わせる習慣が残っている。 和漢三才圖會の別項(卷第五十一 魚類 江海無鱗魚)では「海鼠(とらご)」の項を設け、「「五雜組」に云ふ、『海參は、遼東の海濱に之有り。一名、海男子。其の狀、男子の勢(へのこ)のごとし。其の性、温補、人參に敵するに足り、故に海參と曰ふ。』と。」と述べるとともに、このわたについても簡単な説明を与えている。 紐(ひも)状の生殖腺を海鼠鮞(このこ)という。これを乾したものを俗にくちこと名づけ、能登、丹波、三河、尾張の四地方産のものが知られており、ことに能登鳳至郡穴水湾産のくちこは古い歴史をもっている。毎年12月下旬から翌年1月までの間にナマコを採取してその生殖腺を取り、塩水でよく洗い、之を細い磨き藁(わら)に掛けて乾かすか、又は簀の上に並べて乾す。雅味に富んだ佳肴(かこう)である。 和漢三才圖會では、卷第五十一(魚類 江海無鱗魚)に「海鼠(とらご)」の項を設け、[[海鼠腸(このわた)は、腹中に黄なる腸三條有り。之を腌(しほもの=塩漬け)とし、醬(ひしほ)と爲る者なり。香美、言ふべからず。冬春、珍肴と爲す。色、琥珀のごとくなる者を上品と爲す。黄なる中に、黑・白、相ひ交ぢる者を下品と爲す。正月を過ぐれば、則ち味、變じて、甚だ鹹(しほから)く、食ふに堪へず。其の腸の中、赤黄色くして糊(のり)のごとき者有りて、海鼠子(このこ)と名づく。亦、佳なり。]]と、附記がある。 文化8(1811年)年に栗本丹洲が著した「千蟲譜」の「海鼠」の項では[[此のもの、靑・黑・黄・赤の數色あり。「こ」と単称する事、「葱」を「き」と単名するに同じ。熬り乾する者を、「いりこ」と呼び、串乾(くしほ)すものを「くしこ」と呼ぶ。「倭名抄」に、『海鼠、和名古、崔禹錫「食鏡」に云ふ、蛭に似、大なる者なり。』と見えたり。然れば、『こ』と称するは古き事にして、今に至るまで海鼠の黄腸を醤として、上好の酒媒に充て、東都へ貢献あり。これを『このわた』と云ふも理(ことはり)ありと思へり。]]とあり、加工品としての熬海鼠やこのわたについても言及がなされている。 江戸時代中期(元禄8年ごろ)には、熬海鼠はいわゆる俵物三品の一つとして、ふかひれや干し鮑とともに… 熬海鼠(いりこ)〔或いは「熬」は「煎」に作る。俱に「伊利古(いりこ)」と訓ずる。〕海参(かいさん)(李東垣(りとうえん)の「食物本草」に謂う、『その功、あざやかにすばらしく補益を恣(ほしいまま)にする。』と。さればこそ、「海の人参」と名づけたのであろうか? 世人は、まま、この「海参」を以って海鼠を称する者を見かける。古えの「延喜式」にもすでに『熬海鼠』と称して載っている)。これを造るには特殊な方法がある。生の新鮮な大海鼠を用いて、沙や腸を取り去った後(のち)、数百枚を空鍋(からなべ)に入れて、強火を以ってこれを煎る。すると、即座に塩辛い汁が海鼠の体から自ずと出でて、黒く焦げる。十分に水分が出て乾き、硬くなったそれを取り出だし、冷めるのを待って、二本の小柱に懸け列ねる。一柱につき、必ず十枚を列ねるのが決まりで、これを称して「串海鼠」と号している(これは「久志古(くしこ)」と訓ずる)。特に大きなものの場合は、藤蔓(ふじづる)に懸ける。今、東日本の海浜及び越後の産は、このようにして製する。或いは西日本は小豆島の産は、この最も大なるものにして、味もまた良い。また、薩摩・筑紫・豊前・豊後より出ずるものはこれ、極めて小さい。しかし乍ら、これを煮る時には、則ち、大きく膨らむ。但し、この「熬(い)り」として製するところの海鼠は、六、七寸を過ぐる大きなものを以ってするのが上製となるであって、そうした小さなものは結局は佳品にはならない。大抵、乾して曝(さら)すに串に刺し、或いは藤蔓にて挟み止め、しかしてこれを食材として用いる。まず、水にて煮(に)、やや久しく煮込むと、則ちいよいよ肥大して軟かくなるのである。味もまた、甘美である。或いはまた、稲藁や米糠の類と合わせて煮熟(にじゅく)しても、これも軟らかいものになる。或いは土及び砂に埋ずめること一夜にして、翌日には掘り出して洗浄して煮熟してもまた、よろしい。古えより永くこれを食材として用いる者のあることは久しい。「延喜式神祇(じんぎ)部」にも『熬海鼠(いりこ)二斤(きん)。』と載り、「延喜式主計部」にも『志摩・若狭・能登・隠岐・筑前・肥前・肥後、これを貢(こう)する。』とある。今また、貴賤に拘わらず、これを賞味している。 鹹(かん)・微甘(びかん)にして平(へい)。毒はない。気血をよく補い、五臓六腑を活性化させ、三焦(さんしょう)の邪火(じゃか)・客熱(きゃくねつ)を去る。鴨の肉と同じく、十分に烹込んでこれを食すれば、あらゆる虚弱虚損に基づく諸疾患を快方へ向かわせる。猪の肉と同じく、煮て食すれば、弱った肺や咳を治癒する〔これは李杲(りこう)の「食物本草」に拠る。〕。また、腹の中の悪しき虫を殺し去り、然して小児の疳の虫をも快癒させる。 海鼠腸(このわた)〔「古乃和多(このわた)」と訓ずる。〕或いは「俵子(たわらこ)」とも称する。この腸醤(ちょうしょう)を造る方法は以下の通りである。まず新鮮な海鼠の腸(わた)を取って、潮水(しおみず)の至って清浄なるものを用いて洗浄すること、数十次、砂及び汚れた汁(しる)をきれいに洗い流し去ってから、白塩(なまじお)に和して攪拌しつつ、塩とよく合わせて平らにならした上、これを保存する。至って黄色い光りを帯びて琥珀の如きものを以って上品とする。黄色の中に黒や白の部分が相い交じっているようなものはこれ、以って下品とする。しかし、今、この三色の相い交じっているものを以ってこれを日の光に当てつつ、箆(へら)や箸を用いて、存分に攪拌し続けると、則ち、ことごとく黒白の部分の変じて、全く黄色となる。或いはまた、腸(わた)一升に対して鶏卵の黄身一箇を投入し、やはり箆や箸を用いて、これを均一になるまで攪拌してもまた、ことごとく黄色となる。これは味もまた、他の色の交っていた時に比すれば、やや美味となる。一種に、腸中に色の強い赤みを帯びた黄色の、糊のようなものがある場合があるが、これは呼んで「鼠子(このこ)」と言う。但し、これは海鼠腸(このわた)の中では珍味とはしない。およそ海鼠に就いては、古えは能登の国が海鼠腸一石を貢(こう)した。「延喜式主計部」にも『腸十五斤』と載る。しかし今は能登の国はこれを貢していない。尾張・三河から産するものを以って上品とし、武蔵国の本牧(ほんもく)のものが、これに次ぐ。諸国に於いて海鼠(なまこ)を漁(と)るところは多いけれども、膓醤(ちょうしょう)を名産として貢納して来た地域は少ない。これは、かの黄色の腸(わた)を好む者が、全くもって稀(まれ)であったことに起因する。近頃の話、三河国の柵島(さくしま)に一人の異僧がいた。戒を守ること、これはなはだ厳格なれども、海鼠の腸醤を調和し成すことに於いては異様な才能を持っており、その技(わざ)たるや、これ、最も奇々妙々なるものであった。その精製行程は以下の通りである。浦人が海鼠の腸(わた)を取り出して洗い清めた上、小さな壺に入れて僧の前に差し出す。僧はこれを点検し、その腸の多少を仔細に観察した上、それに見合った自身の決めたところの分量の白塩(なまじお)を、これ、素早く腸(わた)に擦(す)りなしつつ、腸の中へ投入する。その後、浦人は複数個のそれらを木箆(きべら)を用いて攪拌し、塩分を均等にした上で平らにならし、これを大きな壺に収めおく。かくして二、三日を経て、これを舐めれば、その味わい、これ曰く言い難きほどに美味なのである。現在、貢献品として上納するものは、まさにこうして製したものである。故に「このわた」は、本来は三河の産を以って上品とするのである。但し、後にこの僧、故あって後に尾張に移り住み、そこでもまた、海鼠の腸醤を拵えたによって、尾張の産のそれを以って、第一等の「このわた」としているのである。巷にあって、この味を知る者は皆、奇々妙々の味わいであるとしきりに称している。凍傷が進行して腫れた部分が破れかけている症状〔新鮮な海鼠を煎って、そこで出来た濃い煮汁を用いて、それを以って何度も何度も頻繁にその患部を洗浄する。或いは熱湯を用いてそれに腸醤を和し、掻き均して何度もこれを以って、洗うのもまた、良い。〕。頭部に生じた白癬(しらくも)〔生(なま)の海鼠の腹を割(さ)き、腸(わた)を抜き去って、それをそのまま強く患部に押し張って、ちょうど厚紙のようにして患部の頭の上に貼り付けておけば、則ち快癒する。〕。冷たい湿気に基づく虫痛(ちゅうつう)〔また、それ及び小児の疳の虫に由来するところの痛みや訴えと下痢の症状に対しては、これを常食して効果がある。また、熬海鼠(いりこ)を用いて、知られる処方の保童円(ほどうえん)の中に合わせ入れてそれを用いたならば、伝え聴くところでは、よく疳の虫を殺す効果があるとする。 足利義輝が、1561年の年頭に三好義長の許を訪れたおりの酒宴では、雑煮とともに、酒肴として「するめ・かつを・にし・あわび・いりこ」が供されたとの記述がある森末義影・菊地勇次郎、1953.食物史.第一出版、pp. 107〜l08. 江戸時代には、形状に米俵を思わせるものがあるとして、豊作を祈念する縁起物に数えられ、正月の雑煮の上置きに用いる風習があった。山内料理書(1497年)にも、雑煮の材料と仕立て方の説明として、「越瓜・もちい(=餅)・いりこ・まるあはび。四色をたれみそにてに(=煮)よ」と説明されている 小笠原流の食事作法を記した「食物服用之巻」(1504年)では、雑煮の材料は七種または五種とされ、五種の場合は「いりこ・くしあはび・いへのいも(里芋)・餅・かつを、右の五種也」と規定し、各種食材の盛り付けに関しても「もりやうの事 下一わたりはいへのいも こにくしあはび三に 餠四に いりこ五に餅 そのうへに又いりことくしあはびとをよきやうにもり そのうへにかつほをほそくけづりて あなたこなたへをくべき也」と細かく定めている。 「包丁聞書」(1560〜1580年頃)にも、雑煮上置の事として「串鮑 串煎海鼠 大根 青菜 花鰹 右の五種を上置にする也 口伝 下盛に里いも 其上にもちを置也」と、やはり椀の底にサトイモを配し、その上に餅を置き、さらに煎海鼠その他を上置きとして用いたことが記述されている。 笑話集「醒睡笑」(1623年)によれば、当時の庶民が口にした雑煮では、餅以外の食材としては大根や青菜・豆腐などが用いられており、室町時代の上流階級の雑煮では,餠とともに里芋と串鮑などの海産物が加えられたのと好対照をなしていたと分析されている。 江戸初期の「料理物語」(1643年)における雑煮の解説では、「中みそ又はすましにも仕方候 もち とうふ いも 大こん いりこ くしあわび ひらがつほ くきたち など入よし」 と述べられており、いっぽうで『日本歳時記』(1687年 - 1688年) では「もちに、こんぶ・打あはび・煎海参・牛蒡・薯蕷・菘(うきな:青菜の一種)・栗・するめ・蘿蔔・いもしなどを加えて煮て羹と食ふ、俗にこれを雑煮といふ」と、さらに食材が多様化し、いっそう豪華な内容に発展している。
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