江戸初期
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室町時代に流行した私印は江戸時代初期にも見られ、藤原惺窩や林羅山などの儒者を中心に用いられた。また本阿弥光悦や俵屋宗達などの芸術家も独自の印を用いている。これらの印章は誰が刻したのかは明らかではない。ただこの時代にあって、石川丈山の篆刻は他とは異なり、明代文人の趣味に通じる華美な様式が取り入れられている。明人との交友があることから篆刻を学び自ら刻した可能性もあり、日本篆刻の先駆者のひとりとできる。丈山を除けばこの時代の印章は概して実用目的で用いられ、正しい篆法・印法・刀法に則っていない。
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江戸初期
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「新川 (東京都中央区)」の記事における「江戸初期」の解説
寛永元年(1624年)向井忠勝が屋敷地東方の沼沢地を幕府に寄進、霊巌に下賜され、埋立の後霊巌寺が建立された。寛永7年(1630年)には東南角に向井忠勝が屋敷地を拝領し、代々向井将監支配による御船手組の番所が置かれた。またその北には越前堀に囲まれた越前福井藩越前松平家中屋敷が明治まで存続した。また明暦以前の古地図にはこれ以外にも旗本等の屋敷が散見される。 町人地としては以下の町が成立していた。 霊岸島町 霊岸島門前 - 霊岸島と共に移転した。寛政3年(1791年)霊岸島表門前町、霊岸島裏門前町に分立した。 東湊町一・二丁目 - 町名は亀島川対岸の湊町に因る。当初は勘左衛門町と称した。 南新堀一・二丁目 - 元和6年(1620年)頃新堀川が整備されて成立した。対岸の現在の日本橋箱崎町には北新堀町が成立した。
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