『古事記』
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黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか)といい、葦原中国とつながっているとされる。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったという。古事記には後に「根の堅州国」(ねのかたすくに)というものが出てくるがこれと黄泉国との関係については明言がなく、根の国と黄泉国が同じものなのかどうかは説が分かれる。黄泉比良坂の「坂本」という表現があり、これは坂の下・坂の上り口を表しているという説と、「坂」の字は当て字であり「さか」は境界の意味であるという説とがある。また古事記では、黄泉比良坂は、出雲国に存在する伊賦夜坂(いぶやざか)がそれであるとしており、現実の土地に擬されている。 そこで変わり果てたイザナミの姿を目撃したイザナギが、黄泉の国から逃げ帰る場面が以下のように表現されている。 逃來猶追到黄泉比良坂之坂本時(訳)逃げ来るを、猶ほ追ひて、黄泉比良坂の坂本に至りし時 口語訳では「(イザナギが)逃げるのを、(イザナミは)まだ追いかけて、(イザナギが)黄泉比良坂の坂本に着いたとき」となる。この時、追いすがる妻やその手下の黄泉の醜女(しこめ)達を退けるため、黄泉路をふさいだ大石を、道反の大神(ちがえしのおおかみ)といった。道反の大神は岐神として、日本各地に祀られている。 そしてさらにその場にあった桃の木から実をもぎ取ってを投げつけることで黄泉の醜女を追い払っており、このときの功績によって桃は意富加牟豆美命(おおかむつみのみこと)という神名を賜り、「これからも(今私にしてくれたように)困った人を助けておくれ」と命じられた。 イザナミは逃げ帰るイザナギに対し、「1日に1000人殺す」と脅した一方、イザナギは「1日に1500の産屋を建てる」(1500人新しく生まれさせる)と応酬した。これによりイザナミは黄泉津大神と呼ばれる。
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『古事記』
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神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現・宇佐市)に着く。菟狭津彦命(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、筑紫国の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。速吸門で亀に乗った国津神に会い、水先案内として槁根津日子という名を与えた。 浪速国の白肩津に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。 神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。 神倭伊波礼毘古命は高倉下に大刀を手に入れた経緯を尋ねた。高倉下によれば、高倉下の夢に天照大神と高木神(タカミムスビ)が現れた。二神は建御雷神を呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、建御雷神は「平定に使った大刀を降ろしましょう」と答えた。そして高倉下に、「倉の屋根に穴を空けてそこから大刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に大刀があったので、こうして運んだという。その大刀は甕布都神、または布都御魂と言い、現在は石上神宮に鎮座している。 また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて、あるいは、天上や石が落ちてきて、押し潰すことで、圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏(大伴連)らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出し、バラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。 忍坂の地では、土雲の八十建が待ち構えていた。そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。 その後、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)の兄弟と戦った。最後に、登美毘古(ナガスネビコ)と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。 こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。 その後、大物主神の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。
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『古事記』
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「キサガイヒメ・ウムギヒメ」の記事における「『古事記』」の解説
大国主の神話で、たくさんの兄神たちである八十神から嫉視された大国主神が、八十神が猪と偽って山上より転がした焼ける岩を抱き止めて焼け死んだところへ、神産巣日之命の命令によって両神が派遣され、キサカイヒメが「刮(きさ)げ集め」、ウムカイヒメが「持ち承(う)けて、母(おも)の乳汁(ちしる)を塗り」て治療を施すと大国主神は蘇生したとある。 ここの記述については、粉末にした赤貝の殻を母乳に見立てた蛤の白い汁で溶き、火傷の治療に使ったという民間療法を表すとする説があるが、一方で、蛤の汁が母乳に見立てられた点を重視し、これは母乳の持つ生命力の促進・回復の効能を期待して蘇生に利用したもので、神名の「ウム」から「母(おも)」が喚起され、そこから「母乳による蘇生」という一つの神話素(英語版)が形成されたものと指摘する説もある。なお、蛤は『和名抄』に「海蛤ウムキノカヒ」とあり、古くから薬剤として利用されていた。 一方、赤貝は『和名抄』に「蚶キサ」とあり、「状(かたち)蛤ノ如ク円クシテ厚ク、外理(すじ)有リ縦横ナリ」とあるので、貝殻の表面に付いた「刻(きざ)」(年輪)から名付けられたものであり、「刮(きさ)げ集め」の部分は赤貝の殻を削ってその粉を集めたと解釈できるが(「刮キサぐ」は「削る」意味で「刮コソぐ」とも読める)、赤貝の殻がどのような効能を持つものとされていたかは不明である。キサカイヒメが「きさげ集め」の語を喚起しているのは確かであるものの、その点以外でこの説話及びウムギヒメとどう関連するのかは語られないため、キサカイヒメの「キサ」に「父」の古語である「カソ」の音を響かせ、ウムカイヒメの「ウム=母(おも)」に対するものとして登場させたとする説もある。
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『古事記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:31 UTC 版)
上巻では、月讀命は伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成され、天照大御神や須佐之男命とともに「三柱の貴き子」と呼ばれる。月讀命は、伊耶那伎命から「夜の食国を知らせ」と命ぜられるが、これ以降の活躍は一切ない。夜を治める月は「日月分離」(後述)後の満月を現すと考えられる。
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『古事記』
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 22:28 UTC 版)
『古事記』では、別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としている。最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代とする。 国之常立神(くにのとこたちのかみ、別天津神の5代目) 豊雲野神(とよぐもぬのかみ) 宇比地邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ) 角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ) 意富斗能地神(おおとのぢのかみ)・大斗乃弁神(おおとのべのかみ) 淤母陀琉神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ) (左側が男神、右側が女神)
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