任天堂、マリナーズ持ち分売却決定の舞台裏
スポーツライター 丹羽政善
ちょうど、イチローが米大リーグのマリナーズからヤンキースにトレードされた時期と重なる。
2012年7月、米国任天堂の最高経営責任者(CEO)だった君島達己氏(現任天堂社長)は、故山内溥相談役とマリナーズの将来について話し合った。米国任天堂出身で、マリナーズの会長兼CEOを任せてきたハワード・リンカーン氏も72歳となり、リタイアが近い。その後をどうするか。誰がCEOとなるのか。
■山内氏、生前から売却意識
ただ、信頼ができ、スポーツビジネスを理解した上で、さらに大リーグを熟知した人材となると、名前が挙がらない。必然、1つのことが明らかになった。
適任者がいない。
「となると、任天堂以外から見つけるしかない」
君島社長は、そこへ至った当時の経緯をそう振り返る。そのとき、山内相談役も君島社長も、マリナーズのオーナーシップを手放す時期が、そう遠くない将来に訪れることを意識した。任天堂以外からCEOを迎えるとしたら、任天堂が筆頭オーナーで居続けることは難しいからだ。
それからおよそ3年10カ月がたった4月27日(日本時間28日)、それが現実となる。マリナーズは任天堂が持ち分の大部分を既存出資者で、シアトルの実業家ジョン・スタントン氏を筆頭とするグループに売却する方向で調整に入ったと発表した。
正確には、スタントン氏を含む17人の既存出資者に任天堂の持ち分が売却されることになるといい、CEOにはシアトルで携帯電話事業の創成期に関わり、現在はマイクロソフト、会員制量販のコストコ・ホールセールといった地元企業の取締役を務めるなど、地域との関わりが強いスタントン氏が就く。持ち分比率は公表されていないが、彼が事実上の筆頭オーナーになるとみられる。
任天堂も安心できると歓迎。なによりスタントン氏らが、地域に根ざしたビジネスを展開する点で任せられると判断した。
■売却、条件がそろった場合のみ
というのも実は、任天堂が持ち分を手放すときとはあくまでも条件がそろった場合に限る、という前提があった。新しいオーナーがシアトルからマリナーズを移転させるようなことがあってはならないというのがその条件であり、スタントン氏らの基盤を考えれば、それは確保されたといっていい。
では、なぜその条件にこだわるかといえば、そこに山内相談役が、マリナーズのオーナーとなったそもそもの理由があるからだ。
1991年12月6日、前オーナーがマリナーズを売りに出した。誰が買うかによっては移転する可能性も十分あった。チームの移転を阻止しようと動いていたグループはマイクロソフト、ボーイングといった地元の有力企業に打診したが断られた。シアトル郊外のレドモンドに米国本社を構える任天堂にも足を運ぶと、当初は興味がないという返事だったが、その話が日本にいる山内相談役(当時社長)の耳に入ると、あっさり解決した。
「他の企業にはもうあたらなくていい。私が、なんとかする」
アート・シール氏著「アウト・オブ・レフトフィールド」によれば、当時、山内相談役にはこんな思いがあったそうだ。
■チームのシアトル存続に道筋
「シアトルやワシントン州には、お世話になった。今度は私が恩返しする番だ。チームを街にとどめるのに1億ドル必要なら、私が出すので使ってくれ」
そのことに対し「ちょっと待ってくれ。何を考えているんだ」と反対したリンカーン氏には、こう伝えていたという。
マリナーズをシアトルにとどめるため、それがひいては街のためになるのであれば、喜んで協力する。いつか、オーナーを退くにしても、後継者はマリナーズをシアトルに残す、という路線を継承してくれる人でなければならず、いつか同じ思いを共有できるシアトルに根ざした形でビジネスをしている企業、あるいは実業家グループが現れれば喜んでお戻しする――。
それから20年以上の月日が流れたが、山内相談役の考えは変わっていなかった。持ち分を売るということを想定し始めたとき、山内相談役と君島社長は以下の点を条件とした。
・マリナーズを今後もシアトルから他の場所に移すようなことがあってはならない。
・それを確実に遂行できる、本当に信頼できる人がCEOになる必要がある。
加えて「評価額がフェアでなければならない」という話をしたと君島社長は振り返る。今回、任天堂は6億3000万ドル(約670億円)の売却益を得たと米メディアは伝えているが、お金に困って持ち分を手放すのではないので、そこも含め「きちんと確認できなければ急いで手放す必要はない」という方針が固まった。
今回の動きそのものは、リンカーン氏の辞意に端を発する。君島社長によれば「今年のシーズン前、リンカーンさんからCEOの職を辞したいとの意向が示された」そうだ。
ただ、混乱はなかった。この日のために4年前から、すべきことを整理してあった。すぐさま、スタントン氏ら既存のオーナーに任天堂の持ち分の買い取りを打診。結果、「シアトルにマリナーズがずっと存続し続けることが確かになったと判断」した。また「(上記の)条件が満たされると判断したため、今回の発表になった」と、一連の過程を君島社長は説明した。
■日本選手がメジャーへ渡る端緒開く
そうした中、持ち分のすべてを売却するのではなく、10%を残したのは「既存のオーナーからも引き続き保有の要請があったから」と君島社長はいう。
「任天堂もシアトルに米国拠点を置かせてもらっており、地域貢献の意味からも少数持ち分のオーナーとして引き続き保有できることは意味がある。生前、山内さんと話をしたときもこれらのことも想定して了解を得ていました」
さて、どうだろう。91年12月、山内相談役が1億ドルの出資を引き受けなければ、イチローがシアトルでプレーすることはなかったのではないか。マリナーズはタンパへ移転していた可能性が高い。いや、そうなっていた。
山内相談役はチームをシアトルに存続させただけではなく、将来にわたっても、チームが移転することのないよう君島社長とともにシナリオを描いておいた。シアトルの地域にとってはそれが最大の貢献だが、同時に日本人選手がメジャーへ渡るための端緒を開いた。2000年代初め、日本を代表する守護神だった佐々木主浩、日本で唯一無二の打者と評されたイチローを獲得した。かといって彼らがメジャーでも活躍する保証はなかったが、そろって活躍するのを見て多くのチームが日本にスカウトを派遣するようになった。
もはや、日本の有力選手が埋もれることはなく、挑戦の意思さえあれば、メジャー移籍がかなう時代。任天堂が積極的に仕掛けたことで、それも当たり前のようになった。まだまだ狭かった扉をこじ開けたのは、選手だけではなかった。
■表舞台去り、陰から支える側に
「日本の企業が大リーグの筆頭オーナーとなり、この縁もあり、多くの有力な日本の野球選手が米国で活躍する姿を見てもらえる一助になれたのなら幸運と思います」と君島社長。
結局、任天堂、いや山内相談役はチームを存続させ、日本人選手に門戸を開いたことになる。その役目を終え、地元グループへいい形で引き継ぐ道筋を付けた任天堂は今後、陰からマリナーズを支える側へ回る。