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屋代郷民の苦しみを背負い散っていった、義民・高梨利右エ門

2024.09.18(14:32) 352

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しわ寄せというものが弱いものに行くのは世の常とはいえ、身分社会の江戸時代においてはこれは当然過酷なものになります

徳川方に敗れた上杉藩は石高は120万石から30万石に減らされ、さらに世継ぎ問題がからんでとうとう15万石にまで落ち込みました。しかしプライドが許さなかったんでしょうね、上杉様は。この厳しい状況にあってリストラ一つなしの殿様商売でしたから財政は深刻な危機に陥りました。で、そのしわ寄せはもちろん農民層へ回ることになります。


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高畠町の二井宿は昔宿場でした。小学校の脇の高台に酬恩碑と掘られた高さ5メートルの巨大な石碑が建っています。これは江戸時代、寛文6年(1666)に屋代郷の農民の先頭に立って米沢藩の悪政を幕府に直訴し死罪となった二井宿の肝煎、高梨利右エ門に対する農民たちの報恩碑です。でもこの石碑は当時のものでなく後に新しく建てられたものです。

藩の財政立て直しのために米沢藩が目を付けたのが幕府から石高を減らされ米沢藩の預かり地となったまほろばの里・屋代郷でした。高い年貢のみならず、無賃の強制労働、様々な名目の雑税徴収、藩の専売制など、あらゆる過酷な要求が下されました。これに対し高梨利右エ門は農民の代表として藩の苛政と村の惨状など六十二箇条を訴状にしたため、寛文6年(1666)代官所に訴えました。ところが受理されず公儀への直訴に発展してゆきました。しかし認められることはなく逆に死罪となりました。


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高畠石で作られた石碑は明治に入ってから再建されたもので凝灰岩としては日本最大の5メートルの高さを誇ります。今のこの石碑はお上の命令で倒されて現在の石碑の台座になったりしているというから複雑な背景があるのです。石碑の脇に組み込まれた銅の銘板があります。ここには高梨利右エ門への報恩の思いや、鳥海山人という雲爺に関係がある方の歌が載っています。さらに見ていたら屋代村、二井宿村の村長や発起人の名を発見しました。いずれの方も雲爺家の新家と親戚の方です。ああ、あの爺さんたちがなあ、こうして利右エ門に関わっていたんだ、と思いを深くしました。それにしても銅板ってすごいですよね。この刻板は昭和25年のものですが、鉄のように錆びるわけでなく緑青も吹かず刻字は劣化せず73年間当時の姿をとどめていました。銅は金と銀には無い長所を持っています。

石碑は文政10年(1827)に建立されました。酬恩碑と書かれた揮毫は迫力がありますね、まさに農民たちの怨念が籠っているかのようです。石碑の揮毫者は武田鳥海山人という方です。この方は高畠の小郡山村の名主で織田高畠藩の高名な漢学者であり歌人でした。ちなみにこの方の孫に武田軍太という方がおりますが、彼は武元流なる百姓の剣術の達人でした。身分を超越した異色の達人として学識者の研究対象になっています。ここで話は飛びますが雲爺の母はこの武田家の生まれです。雲爺としましてはこの歳であらためて何か誇りのようなものを感じているところです。

文武を尊ぶ小郡山武田家のルーツはもとは甲斐源氏の一族、武田家でした。あの戦国武田氏の滅亡により一族は各地に散り、一部はここ出羽の国高畠の泉岡村に移るとともに、身分を離れて農業に従事したようです。その後小郡山村に分家しております。




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二井宿小学校

350年の年月を越え利右エ門の碑がここから屋代郷を見守り続けます。



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高梨利右エ門は二井宿の一ノ坂で処刑されました。

これからその現場を確かめてみます。
この道は二井宿峠に向かう古道です。昔の面影を残しているでしょうか。天領であった昔幕府の御城米がこの道を運ばれました。二井宿峠は関山峠や笹谷峠と違って標高が低く人や物資の行き来が楽だったとされています。


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標識を見ると昔の古道とくねくねした古い国道113号線、そして現在のトンネルをくぐる新しい113号線が記されています。

最近まで雲爺は古い国道がイコール古道と思っていました。古い国道は古道と違う改良道ですから同じルートとは限りません。ですから昔の古道は結構残っているでしょう。手が加えられた古道はトレッキングが楽しめます。



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古道に沿うこの大滝川は屋代川に合流します。この川の周辺はゲンジボタルが飛び交う名所になっています。


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しばらく歩いたら高梨利右エ門の刑場に着きました。今日のお供は従兄の長谷川氏です。石碑と阿弥陀堂が多くありました。長谷川氏の後ろのくり抜かれた無銘の石塔が利右エ門碑です。



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平場になっていますがここで磔の刑が行われたのでしょうか。この時代は並行してキリシタン禁令による処刑も全国各地で行われました。江戸期に入り天下統一が成った幕府としては何としても統治体制を乱す芽は徹底して摘んでいったのです。



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藩の財政悪化から発展していった利右エ門事件ですが当時の直訴は大罪でした。この直訴により米沢藩の横暴が将軍家の知るところとなり、翌年元禄2年(1689)に米沢藩は屋代郷が取り上げられ幕領となりました。これにより米沢藩の支配から離れた幸せは以後53年間続きます。


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しかしその後に屋代郷はまたや米沢藩の預領に成りました。文久年間には文久一揆が起こり文久3年(1863)に到頭米沢藩の私領になってしまいます。しかし運命は変転するものでこれらの状況は幕藩制度の崩壊により一気に脱することになります。明治維新を最後にようやく長く続いた苦難の歴史が終わりました。

関ケ原の戦い以降置賜地方は明治維新まで苦しみという貧乏くじを引き続けてきた歴史の連続でした。こんなだから置賜には情けないマイナスイメージの文化意識がしっかりと根付いてしまったのかのう・・・🤧


文献では高梨利右エ門は100%義民ではないなどの解釈もあります。でも命を懸けた行為は義民そのものです。



参考文献
高畠町略年表
ウェキペディア
ホームページ 新、県民ケンちゃん
コトバンク
東北大学リポジトリTOOR 武田軍太肖像画



9月19日
県南囲碁会事務局  平吹


山形県・県南囲碁リーグ戦


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コメント
江戸時代は、米を基本に徴税した為に天災や悪天候により飢饉が多発し、耕作者である農民を苦しめたことは洋の東西を問わず一揆が発生しております。その多くは、村など地域の指導者が家族を含めて磔や打ち首となって決着しています。我が故郷でも吉野川の洪水や日照りやイナゴの大量発生の伴う飢饉など枚挙に苦労しません。米の外の要因も阿波には数多く有ります。藍作農民の一揆である五社宮一揆や藍作が盛んに成った故に藩外から米を密輸入に絡み、幕府からの追求を逃れるため、鳴門近郊の庄屋板東家に密輸入の濡れ衣を押付た例等があった。傾城阿波の鳴門の浄瑠璃に歌われて有名に成ったが本音は悲しい物語である。私も、古文書研究で「佐倉騒動記」を解読したが、譜代大名堀田家の圧政に苦しんだ農民を救う為、江戸に上京し老中に越訴した為、惣五郎夫妻は磔に、三人いた男子は悉く斬首に処せられたもので、幼い子供達が斬首される場面などを解読したが、感慨深いものがあった。この様な先駆者の犠牲の上に現在があることに思いを致し日々平穏な生活を満喫している我が身がいる。恥ずかしい限りである!
【2024/09/20 15:03】 | 髙見禎宏 #- | [edit]
高見翁 へ

いや~ 次から次と固有名詞が出て来るもんだのう。
五社宮一揆、庄屋坂東家、傾城阿波の鳴門浄瑠、佐倉騒動記、堀田家
まあ一つ一つ興味あるものばかりで入り込んだら最後、雲爺90歳になっても最後まで終わらんな。それだけ地方史も奥が深いのだよ。春先まであった古文書解読講座がまた始まるだろうしのう・・・・高見翁は関西四国人だから陸奥の雲爺なんかとえれえ違うな、歴史の宝庫だからなあ・・・・阿波の周りは古より常にどこかで戦が起きとる物騒でにぎやかな所のイメージだしな・・・・三好地区は吉野川の上流で三好長慶が出たんだろ・・・・吉野川上流は平家の落人部落がいっぱいありソラ部落という天空の所に住まかいしているなどテレビでこの前見たな。
【2024/09/20 20:01】 | きりちがい #- | [edit]
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