川は私を見ない
ここから語るのは演劇についてだ。つまり、私には関係のない話だ。自宅の書棚にあった本を見つけて読み返す。鈴木忠志 『演劇とは何か』 岩波書店。私は147ページの6行目からを読む。
《つまり一般の住居であろうと体育館であろうと、あるいはお寺であろうと野
外であろうと、俳優と観客との関係が方法的にきちんと位置づけられた
演出というものがあれば、劇が行われる場になると思います。ですから
私は、つねに「劇場」というものは劇場になりうる空間と考えている。日
常見慣れた光景のなかに、別な日常が入り込み、空間を構成する関係
を組み変え、空間の印象を変容させるところに演劇性があり、演出とい
う仕事があると思っています。》
私がこの本を初刷で読んだのは、1988年のことだ。今日にはテキスト群を美濃加茂市内の3ヵ所に置いた劇作家のKさんが元旦に生まれた年だ。それで一体何が痕跡として残っているのだろうか。しかし大丈夫だ。こんな風に演劇は始まる。いつもこんな風だ。目を上げ、町に出ろ。
「まち×演劇×アート 早稲田・美濃加茂交流まち演劇プロジェクト」
台風一過で秋日和の2017年9月18日、美濃加茂へ車を走らせる。特定非営利活動法人きそがわ日和と早稲田大学OBOGチームと美濃加茂市が組んだ早稲田大学・美濃加茂市学生演劇公演10周年記念の催事を観る。
まず、影山直文氏(カゲヤマ気象台)のプロジェクト「月はお前を見ない」を観る。美濃加茂市中央図書館、旧小松屋裏の土手のベンチ、コクウ珈琲…設置場所でテキストを読み巡る、約1km弱の小さな旅。木曽川の土手で涼風に吹かれながら、既に演劇の公演1回目を観てきた早大生と談話する。私は川を見る。川は私を見ない。
次の催事会場、御代桜醸造へ。出張喫茶の「コクウ珈琲」のグァテマラを飲みながら、髙田裕大氏のドローイングファイルを捲り観たり、来場者と談話したり…夕陽が射す待合空間で遊ぶ。
日暮れた頃、アムリタによる本日2回目の公演「みち・ひき」(脚本・演出:荻原永璃/出演:河合恵理子・藤原未歩・大矢文・金子美咲/音:白樺汐/ドラマトゥルク:吉田恭大)が始まる。前説で「第四の壁」を壊しそうな雰囲気が察せられ、酒蔵の奥に並べられた椅子に座って身構えたが、川にも道にも見立てた通路状の舞台に次第に馴染んで魅入られる。木曽川に太田宿に商店街に自転車に鳥に魚に…美濃加茂のご当地描写がてんこ盛りでサービス過剰気味の感。だが、甘言や媚態とまでは言えない《俳優と観客との関係が方法的にきちんと位置づけられた演出》が上手い。私は川を見る。川は私を見ない。
アムリタの劇「みち・ひき」に早稲田銅鑼魔(どらま)館の話が出てきた。私は暗闇でニヤリとし、「あんねて」で喫したコーヒーの香味を想起した。森尻純夫氏は芝居も珈琲もつくっていた。1982年 森尻純夫 「芝居も珈琲もぼくの祝祭」 月刊喫茶店経営別冊『blend ブレンド─No.1』 柴田書店 173ページの中段5行目から。
《ぼくが書き、演出する芝居もそうだ。若い演劇を支える上昇思考、もしくは
指向には、どっかで見切りがある。仮の宿、って感じ。芝居なんてもとも
とそうしたものです、ってこととはちょっと違うことだ。ある名人の神楽び
とが「たかが神楽ですから」といったことがある。あ、ぼくのいい方に似て
いるなあ、とうれしかった。たかが珈琲、と常にいうのだ、そしてたかが
芝居、その背後にある重さ、ついでにそういいきれる余裕、客観性、「醒
め」みたいなものに生きることのできる強さ、が「文化」を紡ぎだす条件
なんだ。 四年前、芝居と珈琲とをごちゃまぜにひとつの会社にして、自
身の等身を投影したような建物をつくっちゃったのも、そんなところでぎ
りぎりになっちまおうと決意したからだ。》
催事はお開きとなり、御代桜醸造の会場で撤収作業を手伝う。汗をかいた身体に夜風が涼しく吹いて、心地好い。「コクウ珈琲」へ移り、イタリアンブレンドのアイスコーヒーやタバコを喫して、店主らと談話する。私は美濃加茂に住んでいない。だがそれは大事なことではない。演劇とは何か? 私の言葉に重みはない。私は店を出る。車で木曽川を渡って帰る。帰る家の方角を一瞬見失ったような気がした。もう深夜かもしれない。私は川を見る。川は私を見ない。
《つまり一般の住居であろうと体育館であろうと、あるいはお寺であろうと野
外であろうと、俳優と観客との関係が方法的にきちんと位置づけられた
演出というものがあれば、劇が行われる場になると思います。ですから
私は、つねに「劇場」というものは劇場になりうる空間と考えている。日
常見慣れた光景のなかに、別な日常が入り込み、空間を構成する関係
を組み変え、空間の印象を変容させるところに演劇性があり、演出とい
う仕事があると思っています。》
私がこの本を初刷で読んだのは、1988年のことだ。今日にはテキスト群を美濃加茂市内の3ヵ所に置いた劇作家のKさんが元旦に生まれた年だ。それで一体何が痕跡として残っているのだろうか。しかし大丈夫だ。こんな風に演劇は始まる。いつもこんな風だ。目を上げ、町に出ろ。
「まち×演劇×アート 早稲田・美濃加茂交流まち演劇プロジェクト」
台風一過で秋日和の2017年9月18日、美濃加茂へ車を走らせる。特定非営利活動法人きそがわ日和と早稲田大学OBOGチームと美濃加茂市が組んだ早稲田大学・美濃加茂市学生演劇公演10周年記念の催事を観る。
まず、影山直文氏(カゲヤマ気象台)のプロジェクト「月はお前を見ない」を観る。美濃加茂市中央図書館、旧小松屋裏の土手のベンチ、コクウ珈琲…設置場所でテキストを読み巡る、約1km弱の小さな旅。木曽川の土手で涼風に吹かれながら、既に演劇の公演1回目を観てきた早大生と談話する。私は川を見る。川は私を見ない。
次の催事会場、御代桜醸造へ。出張喫茶の「コクウ珈琲」のグァテマラを飲みながら、髙田裕大氏のドローイングファイルを捲り観たり、来場者と談話したり…夕陽が射す待合空間で遊ぶ。
日暮れた頃、アムリタによる本日2回目の公演「みち・ひき」(脚本・演出:荻原永璃/出演:河合恵理子・藤原未歩・大矢文・金子美咲/音:白樺汐/ドラマトゥルク:吉田恭大)が始まる。前説で「第四の壁」を壊しそうな雰囲気が察せられ、酒蔵の奥に並べられた椅子に座って身構えたが、川にも道にも見立てた通路状の舞台に次第に馴染んで魅入られる。木曽川に太田宿に商店街に自転車に鳥に魚に…美濃加茂のご当地描写がてんこ盛りでサービス過剰気味の感。だが、甘言や媚態とまでは言えない《俳優と観客との関係が方法的にきちんと位置づけられた演出》が上手い。私は川を見る。川は私を見ない。
アムリタの劇「みち・ひき」に早稲田銅鑼魔(どらま)館の話が出てきた。私は暗闇でニヤリとし、「あんねて」で喫したコーヒーの香味を想起した。森尻純夫氏は芝居も珈琲もつくっていた。1982年 森尻純夫 「芝居も珈琲もぼくの祝祭」 月刊喫茶店経営別冊『blend ブレンド─No.1』 柴田書店 173ページの中段5行目から。
《ぼくが書き、演出する芝居もそうだ。若い演劇を支える上昇思考、もしくは
指向には、どっかで見切りがある。仮の宿、って感じ。芝居なんてもとも
とそうしたものです、ってこととはちょっと違うことだ。ある名人の神楽び
とが「たかが神楽ですから」といったことがある。あ、ぼくのいい方に似て
いるなあ、とうれしかった。たかが珈琲、と常にいうのだ、そしてたかが
芝居、その背後にある重さ、ついでにそういいきれる余裕、客観性、「醒
め」みたいなものに生きることのできる強さ、が「文化」を紡ぎだす条件
なんだ。 四年前、芝居と珈琲とをごちゃまぜにひとつの会社にして、自
身の等身を投影したような建物をつくっちゃったのも、そんなところでぎ
りぎりになっちまおうと決意したからだ。》
催事はお開きとなり、御代桜醸造の会場で撤収作業を手伝う。汗をかいた身体に夜風が涼しく吹いて、心地好い。「コクウ珈琲」へ移り、イタリアンブレンドのアイスコーヒーやタバコを喫して、店主らと談話する。私は美濃加茂に住んでいない。だがそれは大事なことではない。演劇とは何か? 私の言葉に重みはない。私は店を出る。車で木曽川を渡って帰る。帰る家の方角を一瞬見失ったような気がした。もう深夜かもしれない。私は川を見る。川は私を見ない。
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