当ブログは政治ブログとして3年目を迎えたが、過去2年と違って今年はフラストレーションがたまる年だ。
昨年夏までは、安倍晋三にターゲットを絞って、政治思想的には国家主義、経済思想的には新自由主義をとる安倍政権への批判を続けてきた。安倍内閣の支持率は急低下し、昨年7月の参院選での自民党惨敗や昨年9月の安倍首相退陣をピークに、当ブログへのアクセス数も一本調子で増え続けた。一昨年4月のブログ開始以来、参院選のあった昨年7月までは、月間アクセス数で前月を下回ったことは2回しかなかった。
だが、安倍の退陣を境にアクセス数は落ちた。現在では、最盛時の3分の2程度のアクセス数になっている。今年前半の累計アクセス数は、昨日(6月29日)までで536,602件(FC2カウンタ計数のトータルアクセス数)だが、これは、昨年7月のアクセス数(135,546件)を6倍した数字の66%に当たる。私が参加しているSNSの仲間にたずねてみたところ、安倍退陣のあと政治ブログはあまり読まなくなったとの返事が返ってきた。
昨年まで安倍晋三を批判していたブログの中には、安倍退陣と同時に「水に落ちた犬は叩きたくない」などと言って、安倍の批判を止めてしまったところもある。あるいは、福田政権が発足すると、「なんだ、福田なんて安倍以下じゃん」と書いたブログもあった。当該ブログは、安倍が一昨年の総裁選を争っていた頃から安倍を批判していたにもかかわらずである(もっとも、あの総裁選では、福田康夫は早々と下りてしまったのだったが)。
私はそれを見て、この人たちは一体何を考えて「AbEndキャンペーン」に賛同していたのかと訝った。ただ単に政府批判をしてアクセス数を稼ぎたかったからではないのかとさえ思う。現在では、福田政権を倒すために、安倍に近い「右」側とも手を組もう、という人もいるが、私には賛成できない。
今年前半の当ブログのアクセスを押し上げたトピックとしては、年初の「水からの伝言」騒動と、4月から5月初めにかけての映画『靖国』への政治家の圧力問題、それに4月27日に投開票が行われて民主党の平岡秀夫氏が圧勝した衆院山口2区の補選などがあった。
このうち、「水からの伝言」騒動は、政治ブログの世界の未成熟さを露呈した。当ブログのアクセス数からいうと、1月に参戦した時にはアクセス数が増えたが、いったん騒ぎが沈静したあと4月以降に騒動が再燃してからは、この件を取り上げるとアクセス数はむしろ減る傾向がある。騒動は現在も続いているが、その大部分は実りをもたらすものではない。だが、この種の騒動は一度は経験しなければならなかったことだと思う。
私個人としては、この騒動のポイントを、以下のように考えている。すなわち、狭く閉鎖的な「政治ブロガー」の集団に対して、外部からの批判を許さない妙な同調圧力がいったんはかかったが、それはその外側から見たら、「何やってるんだ」としか思われず、同調圧力による言論封殺は成功しなかった。その結果、一部のコミュニティは分裂するなどしたが、それはお互い譲れないものがあるからそうなったのであって、「議論はすべきではない」とか「批判はすべきではない」などというヘンテコな方向に結論づけをするのは、的外れもいいところだ。右顧左眄してブログの言論の方向を決めるのは、同調圧力を強めて異分子を排除する全体主義的やり方だと知るべきだ。
4月の映画『靖国』をめぐる政治家の圧力問題では、機を見るに敏な田原総一朗が声高に稲田朋美を批判した(4月6日放送テレビ朝日「サンデープロジェクト」)。当ブログの主張は、世論に沿ったものとなったし、納得できる推移となった。私は、実際にこの映画を見て、映画評もブログで公開したが、騒動がなければ映画を見に行くこともなかっただろう。稲田朋美は、期せずして映画の宣伝をしてくれたようなものだった。
衆院山口2区補選では平岡秀夫が圧勝したが、当ブログは対立候補の山本繁太郎を批判する記事でアクセスを稼いだ。
だが、当ブログは平岡当選、山本落選に寄与したなどというつもりは全くない。影響力など皆無に等しい。両者の明暗を分けたのは、後期高齢者医療制度だ。コイズミカイカクの遺産であるこの制度が、山本繁太郎の首を絞めた。
今年前半の政治状況で一番イライラしたのは、「国民の生活が第一」をスローガンに昨年の参院選に圧勝した民主党が、なかなか国会での論戦で年金や社会保障に焦点を当てなかったことだ。暫定税率が中心だったが、そのことに対する民主党への違和感は再三表明した。
しかし、昨日(6月29日)のNHKテレビ「日曜討論」に出ていた額賀福志郎財務大臣は、消費税の引き上げと所得税および法人税の引き下げを主張していた。
http://www.47news.jp/CN/200806/CN2008062901000217.html
一方、同じ番組に出演していた神野直彦教授は、社会保障の財源を消費税のみに限定するかのような政府自民党の主張を批判し、税制全体の見直しを求めていた。神野教授は民主党や社民党に影響力を持っている人だ。テレビを見ていて、やはり、自公政権よりは民主・社民・国民新の3党を軸とした政権に交代したほうが良いと思った。
このところの原油高は、ここ何十年か経験していなかった物価上昇を引き起こしている。一方、国民生活の窮乏化はどんどん進む。石油ショックが引き金になった73?74年の「狂乱物価」の時には賃金も上がったが、今回は賃金も上がらない。スタグフレーション(不況下の物価高)は、今でもぎりぎりの生活をしている人たちを直撃する。このまま新自由主義政策が続けば、日本社会全体がクラッシュしてしまう。もはや、悠長なことを言っていられない段階にきていると思うのだ。
年の後半にも明るい展望は持てず、混迷はますます深まりそうだ。
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まず、『日本がアブナイ!』の6月27日付記事「テロ指定解除は、日本が米国離れをして自立した国家になるビッグ・チャンスかも!」(下記URL)。
http://mewrun7.exblog.jp/8203860/
管理人のmewさんは、必ずしも護憲派ではないとのことだが、その外交・安全保障についての考え方は典型的な「ハト派」だ。最近は、反貧困でリベラルと民族主義系右派が提携しようとする動きが盛んだが、これは、格差が拡大し、生活に苦しむ人の心に、排外主義を声高に叫ぶ民族主義系右派の訴えが浸透しつつあることのあらわれではないかと私は懸念している。政治思想面では国家主義、経済政策面では新自由主義をとった安倍政権の時代には、反新自由主義でリベラル・左派と民族主義系右派が提携する意味合いもあったが、比較的ハト派的な外交・安全保障政策の方向性を持つ福田政権に変わった現在、リベラル・左派が国家主義的な外交・安全保障政策を唱える民族主義系右派と提携する意味合いは失われていると当ブログは考えている。そんなブログ管理人にとって、外交・安全保障政策に関する『日本がアブナイ!』の主張には、共鳴するところが多い。
今回の同ブログの記事から一部を引用する。
何だかウヨ保守系の政治家や識者、国民の中には、福田首相に批判の矛先を向けようとするような雰囲気もあるのだけど。
それは、チョット違うのではないかという感じがする。(・・)
じゃあ、安倍氏が首相なら、このテロ指定の解除を止めることができたのだろうか?
おそらく、その答えは「NO」だろう。
<そんなに言うなら、安倍氏や麻生氏など、それなりの地位にあった超保守派の議員は、すぐにでも米国に飛んで、ブッシュか政府高官に直接会って、解除するなと迫ってみればよかったのに。(+_+)>
そもそも、私は、以前から、何故、安倍氏ら拉致議連の人たちの多くが、米国の北朝鮮に対するテロ支援国家の指定と、日本人の拉致問題をリンクさせることができると考えているのか、すご?く不思議に思う&理解しかねる部分があった。(-"-)
(『日本がアブナイ!』 2008年6月27日付記事 「テロ指定解除は、日本が米国離れをして自立した国家になるビッグ・チャンスかも!」より)
まっとう至極な主張で、当ブログも、こんな当たり前のことがなぜ国民の共通認識にならないのか、経済紙である日経新聞が、なぜ産経新聞以上に過激にアメリカを批判するのか、朝日新聞までもが、なぜ社説から天声人語に至るまで保守派メディアと同様の方向性をとるのか、さっぱりわからない。
2つめのおすすめ記事は、『「猫の教室」 平和のために小さな声を集めよう』の6月28日付記事 「北朝鮮核申告は、評価すべき前進だと思うのだが。」 (下記URL)。
http://heiwawomamorou.seesaa.net/article/101689259.html
眠り猫さんの政治的スタンスは、私とかなり近いが、小沢一郎に懐疑的な私に対して、もう少し小沢氏に容認的だ。だが、ともすれば政治思想的にも経済政策的にも「右」に傾きがちな民主党の方向を、少しでも脱保守のリベラル側に持っていくよう国民が働きかけるべきだという認識で一致している。それは、国会における議席数からいっても止むを得ないことだ。日本が焦土になってから、いくら「私たちは正しい主張をしていたのに」と言っても何の意味もない。
こちらからは、記事から拉致問題に触れた部分を引用する。
拉致問題については、私は以前から、日本は北朝鮮ときちんと対話の場を設け、アメリカの背後からものを言うのではなく、独自外交で北朝鮮と交渉し、できれば日朝の窓口を開き、日本人が現地入りして拉致問題の調査にあたれるように、国交正常化に向けて交渉すべきと考えている。
ただひたすら制裁だとか、非難を続けていても、何も出てこないのは、これまでの北朝鮮の対応からわかりきっていることだ。また、日本独自の外交を行えないあたり、日本の外交力のなさを如実に示している。
この背景には、北朝鮮を敵視し続けることによって、弾道ミサイル防衛構想など、軍拡を進める口実にしたい、軍需利権を漁る安倍らの政治業者の思惑が絡んでいるのであろう。旧ソ連時代の北方領土問題と同様、問題の存在を言いたて、相手国に罵声を浴びせるだけで、実際の具体的解決行動を全くとらず、その問題を口実に軍拡を続けてきたのが日本の自民党政府である。
はっきり言えば、拉致被害者の家族の方々は、威勢の良いことを言う与党政治家にだまされているのであって、自民党には、拉致問題解決の意図は無いのである。与党に必要なのは、軍拡の理由として使える仮想敵国にすぎない。
(『「猫の教室」 平和のために小さな声を集めよう』 2008年6月28日付記事 「北朝鮮核申告は、評価すべき前進だと思うのだが。」より)
要は、安倍晋三の極右的・反動的政策のほうが間違っていたのだ。6年前、コイズミ内閣の官房副長官だった安倍は、対北朝鮮強硬論を唱えて「コクミンテキニンキ」を獲得した一方、官房長官として拉致被害者家族に応対した福田康夫は、「冷酷な応対ぶり」を非難されて人気を落とした。このいきさつからなのか、安倍晋三と福田康夫はソリが合わない。
当時、人気急上昇で図に乗った安倍は、菅直人や土井たか子を「間抜け」呼ばわりし、とてもむかついたのを覚えている。あの当時は、安倍を批判することがはばかられるような、とてもいやな空気があった。しかし、ここにきて『世界』7月号に掲載された衛藤征士郎や平沢勝栄、それに安倍と口喧嘩した山崎拓などの発言を知るにつれ、自民党の政治家の意見も変わってきていることを感じる。相変わらず、ヒステリックに対北強硬論を唱え続けているのは安倍や平沼赳夫など、ごく一部の極右政治家たちだけだ。
田原総一朗も、『世界』7月号に、「水面下の交渉は始まっている」という文章を寄稿している。
田原は、横田めぐみさんの遺骨とされる骨について、北朝鮮は本物、日本は偽物だと主張しているが、英国の科学雑誌『Nature』のインタビューで、鑑定した当事者が結果は確定的でないと答えたことを紹介している。
この件は、一昨年の7月に、『カナダde日本語』 の記事 「安倍は総裁選のためにめぐみさんや北朝鮮まで利用している」 で知った(下記URL)。
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-185.html
この記事を読んだ私は管理人の美爾依さんに頼んで、『Nature』の記事のpdfファイルを送ってもらった。2年前の懐かしい思い出だ。
田原総一朗は書く。
あえて記す。宋日昊(筆者注:日朝国交正常化交渉担当大使)の説明には不自然だと感じられるところはない。どちらかといえば、北朝鮮側が "死亡した" と発表した八人を "生きている" と主張している日本側の方に無理があるのではないか。それに、日本側が調査を依頼していない人々の中には生存者がいる、と、これは交渉に当たった外務省の当事者から直接聞いた。
私は、いつまでも頑迷にフィクションの部分にこだわって圧力一辺倒を続けるのではなく、現実的な交渉をすすめるべきだと思うが、最近得た情報では、どうやら日朝間の非公式の交渉ははじまっているようである。
(『世界』 2008年7月号掲載 田原総一朗「水面下の交渉は始まっている」より)
安倍晋三の欺瞞が誰の目にも明らかになる日は、もう遠くない。
[追記] (2008.6.29)
『世界』7月号発売後の6月11、12両日に北京で日朝外務省による非公式実務者協議が行われたが、田原総一朗は、6月29日放送のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、水面下では昨年末から交渉が行われていたと発言した。
同番組において田原と高村外相が対談したが、アメリカによる北朝鮮のテロ国家指定が解除される8月11日までに拉致問題の交渉が進展することは間違いなさそうだ。
なお、横田めぐみさんの遺骨とされる骨のDNA鑑定の件については、田原は番組では発言しなかった。
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その多くは、植草さんの著書『知られざる真実?勾留地にて』からの引用であり、そこにはネオコン批判もナショナリズム批判もある。西部邁や安倍晋三(!)の言葉を引用している点は、「古い左派」の私には引っかかるが、それでもこのエントリからは、同じ植草さんのブログの「政治の対立軸(2)三つのトピックス」を読んだ時のような違和感は感じられない。
安倍晋三が首相就任時の所信表明演説で、アインシュタインの言葉を引用したと書かれているのを読んで、一瞬、安倍の盟友である平沼赳夫が信じている「アインシュタインの予言」なるトンデモかと錯覚したが、いかに頭の悪さで知られる安倍とはいえ、総理大臣としての初の所信表明演説でそんなへまをするはずもなく、真正のアインシュタインの言葉の引用だった。そういえば、安倍が総理大臣に就任した日は、私は運よく海外出張中で、不快なニュースをさほど見ずに済んだのだった。
コイズミカイカクを強く批判していたはずの植草さんが、コイズミの経済政策をそのまま受け継いだ安倍晋三の演説を著書で引用しているとは意外だが、論旨そのものには異存はない。しかし、「属人的議論」をいとわない私としては引っかかりが残るというのが正直なところだ。
だが、本エントリで一番言いたいのはそこではない。引っかかるのは、
という植草さんの主張だ。私の言説に対する批判を私は一切排除しないが、批判する際には、私のこれまでの著作を踏まえてほしいと感じる。歴史認識、外交政策、経済政策などについて、マスメディアなどが勝手に創り出してきた事実と異なる私に対するイメージに基づいて批判されても、私としてはいわれなき事実誤認だとしか反論できない。
私は、植草さんのブログを読むまでは、植草さんに対してネガティブな先入観は全く持っていなかった。
ネット検索すると、2002年に榊原英資氏が竹中平蔵を「ペーパードライバー」呼ばわりして激しく批判し始めた時、植草さんも榊原さんと共同戦線を張っていたようだ。私にとっては、当時の榊原さんの激論はきわめて印象的だった。それまで新自由主義的な印象が強くて「いやなやつ」だと思っていた榊原さんが、突如としてコイズミ?竹中カイカクを批判し始めた時には、意外感と爽快感が入り混じった気分だったし、これでコイズミも終わりだ、と小躍りしたものだ。そうは問屋が卸さなかったわけだが。
率直に言って、植草さんの印象は榊原さんよりは薄かったが、それでもコイズミカイカクを批判した学者という認識はあり、植草さんに対して、ネガティブどころか肯定的な印象を持っていた。
ところが、植草さんのブログを開くと、右派民族主義系、陰謀論系、擬似科学系のブログへのリンクがずらりと張られている。特に私が問題にしたいのは、「4つの目で世の中を考える」へのリンクだ。これは、典型的な擬似科学系のブログである。
当ブログにおいて継続的なアクセスを得ている記事の一つとして、昨年12月23日に公開した「ネットに横行する「トンデモ」や「陰謀論」を批判する」がある。この記事で当ブログは、「ケムトレイル」だとか、「アメリカで行われている高周波活性オーロラ調査プログラム(HAARP)を気象兵器だとか地震兵器だとか騒いでいる人たち」などを批判したが、この時私が念頭に置いていたのが、この「4つの目」がどうこう、とかういうトンデモブログだった。
私が未知のブログを見るとき最初に気にするのは、そのブログからどういったブログにリンクが張られているかということだ。だいたい、どういうブログにリンクが張られているかでそのブログの性格がわかる。植草さんのブログを見てあ然としたのは、キラ星のごとく並ぶ右派系、陰謀論系、それに擬似科学系ブログ群へのリンクだったのだ。
植草さんは「ブログ初心者」とのことだから、単に植草さんを支援してくれるブログへのリンクを並べただけなのかもしれない。しかし、「リベラル・左派系政治ブログ」と呼ばれる世界に2年間いた私の経験からいうと、この世界では魑魅魍魎が跳梁跋扈している。そんな世界に参入してこられて、「批判する際には、私のこれまでの著作を踏まえてほしいと感じる」という言い分は通用しない。
念のため言っておくと、当ブログは植草さんの意思表示を尊重する。すなわち、次の植草さんへの批判は、植草さんが示された著書(『知られざる真実?勾留地にて?』)を読み終えるまでは行わない。まだ購入してもいないから、その時期は少し先になると思う。だが、いくら著書で高邁な理想を掲げていても、一銭にもならないブログだからといって、そこで擬似科学や陰謀論に迎合するようないい加減な記事や、本来のご自身の主義主張から離れているかもしれない右派民族主義者におもねるような記事を書かないでほしい。著書の主張とブログで書き飛ばした記事に整合性がない場合、言論人はその主張の正当性を疑われる。それで飯を食っているプロフェッショナルならなおさらだ。
プロなら、ブログの言論にも責任を持ってほしい。「著書を読まずにマスコミの宣伝による印象批評でいい加減なことを書くな」などと言わないでほしいと思うのである。
ちなみに、私がブログの記事を書くために費やした累積のコストは相当なものだが、リターンは一銭たりとも得ていない。それでも、自分の内心から突き上げるものに動かされて、ブログの記事を公開し続けている今日この頃なのである。
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とのコメントをいただいた。kojitakenさん、お久しぶりです。
>「誹謗中傷」と言われても仕方ない記事にしてしまいました。
と言うことですが、あの程度の表現で、そんなに問題になるのでしょうかね?
私も、植草氏の言論・主張は基本的に、間違っては居ないと思いますが、全面的には支持できません。
その辺での、批判はあっても然り…と思うのですが、ある意味、植草氏の批判は「タブー」となっているのでしょうか?
なんか、ひっかかりましたので。
また、昨日のエントリ「「植草一秀さんを中心にした反自民の結集」には応じられない」に対して、名無しの方から
とのコメントもいただいている。『非礼』をもって言葉を封じ込めていいのでしょうか?と言う思いが拭えないのですが?しかも、第三者が、インターネットのコミュニティで。
暗黙裡に『タブー』のようなものが形成されつつある(形成しようとしている?既にある?)ような気が(私も)します。該当のブログエントリを『非礼』だとも感じませんでした。
公開されてしまうと、なんだか後味のよくない状況ですが。これで終わりですか?メールなど、当事者間だけでのやりとりなら、別に構わないのですが。やり取りが公開されて、しかし成り行きそのものは批判を受けず、これで終わり、とされると、なんだか、その成り行きが既成化されてしまうような懸念があります。内容よりも、そのような雰囲気が懸念されます。
他方、数々の悪(政治の結果)は嫌です。立場を超えて皆で反対し、正して行くべきです。
以上は、一連の当ブログのエントリが、植草元教授への批判をタブー化する同調圧力を強める方向につながるのではないかとの批判だと思う。
だが、私は、『kojitakenの日記』の6月22日エントリ「植草元教授への疑念」の主張は取り下げていない。6月23日のエントリ「天下の経済学者なのだから、TBくらいしてきてほしいものだが...」のエントリ中にある、
などの感情的な表現をしてしまったことについて謝罪したのだ。トラックバックくらいしてきてほしい、という表現は、どっかで大トラブルに発展してしまった件を思い出させるものだが、それを批判していた私自身が同じことをやってしまった。あの例におけると同様、私もまた感情的になっていたのだ。植草元教授にトラックバックを強要する権利など、私にはない。植草元教授には、当ブログに言及するんだったらTBくらいしてきてほしいものだと思いますが、TBやコメントを受けつけないブログだから、まあしかたないか。
さらに、昨日のエントリは植草さんの右派民族主義的傾向への批判を含むと私自身は考えている。
そもそも、最初の構想は、一昨日の謝罪エントリと、当ブログの立ち位置を明記した昨日のエントリをくっつけたエントリを公開する予定だった。しかし、それだと植草さんに謝罪しているのか植草さんを批判しているのかわからなくなってしまうので、けじめをつけるために謝罪文のエントリを独立させた次第だ。
『カナダde日本語』の管理人・美爾依さんから公開を勧められたから公開したような書き方をしてしまったのは、私の至らぬところだが、植草さんへの違和感とその理由の説明については、もともと公開するつもりだったことは申し添えておく。
さらに付け加えると、植草さんの主張する「独立自尊外交」は国際的孤立を招きかねず、それよりは従来の従米一辺倒を改めてアジア外交を重視する自民党の加藤紘一や福田首相の行き方のほうが理にかなっていると私は考えている。
政権交代後の政権は、民主党から新自由主義勢力を除いた勢力と社民党、国民新党、それに場合によっては自民党の加藤紘一や河野洋平らのリベラル派を加える形が良いのではないかと私は考えている。以前失敗した「自社さ」的発想ではあるのだが、当時と比較して新自由主義を見直す必要性が認識されてきた現在であれば、また違った形になるのではないかと思う。
それから、平和外交の政策をとることは絶対に譲れない一線であって、ともすればタカ派に傾きがちに決まっている「独立自尊外交」は私には支持できない。『世界』7月号の特集「対北朝鮮 いまこそ対話に動くとき」は、リベラル・左派にとっては必読だと思う。
とはいっても、当ブログは「私闘論理派」に属するので、植草元教授への批判を封じる同調圧力はあってはならないとは思うが、その抵抗力には限界がある。それに対しては、どしどし植草元教授なり当ブログをご批判いただければ、と思う次第である。ブログでの議論は、なかなか理想どおりにはいかず、「ネットでの言論は公論であるべきだ」と主張する人が、自らの支持者のおかしな言説に対しては全然批判しないどころか、それを庇い立てる実例を、「水伝騒動」で目の当たりにした。それが現実だ。
そんなわけで、私は自分なりのやり方で、今後もブログでの意見発信を続けていきたいと思う。
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とのメッセージをいただいた。非礼な記事を書いた私に対し、温かいメッセージを下さった植草さんに感謝したい。「kojitakenの日記」、ならびに「きまぐれな日々」主宰者のkojitaken様、ご丁重なメッセージを掲載くださいましてありがとうございました。過分なお心遣いを賜りましてありがとうございます。私の説明も不十分であったと感じております。意見や主張がそれぞれの個人によって異なるのは当然のことだと思いますが、各人が互いに尊重し合いながら健全な論議を深めてゆくことができればうれしく思います。今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。
今回の件で、私が一番気になっていたのは、私の記事が、植草さんを中心に「反自民」ブロガーが結集しよう、と呼びかけていた『カナダde日本語』の管理人・美爾依さんの心を痛めてしまったことだ。美爾依さんは、一昨年前に「安倍を『the End!』させよう」を合言葉にした「AbEndキャンペーン」がスタートした頃からお世話になっているブロガーで、私にとってとても大切な友人でもある。
私は、「水からの伝言」騒動にかかわり、「共感が大切か論理が大事か」とか、「ブログでの言説は私闘か公論か」などを論点とした論争に参加したが、当ブログを含むブログ群は、「共感派」からは「論理村(あるいは『言葉の国』の人たち」と揶揄され、「公論派」からは「属人的議論をしている」と批判された。いわば中間派なのだが、私はブログの記事には論理が大事(というより、理にかなわない記事は批判されて当たり前)ではあるが、同時にブログは私的なものであるとも考えており、ブログの言説の公共性は、たまたまその記事の記述に普遍性があれば勝手についてくるものだ、と割り切っている。だから、この件で大切な友人との友好関係を失うことはあってはならないと考えた。しかし、それにもかかわらず私は植草さんへの違和感を表明せざるを得なかった。自分自身を裏切るわけにはいかなかったからである。その理由を以下に述べる。
最初に私が気になったのは、植草さんのブログから張られているリンク集だった。『神州の泉』、『喜八ログ』、『新三ログ』などの、右派民族主義系のブログが目立つ。また、私がふだんから「陰謀論系」とか「擬似科学愛好系」などとして批判しているブログへのリンクも多い。
民主党左派や社民党に近い学者としては、政治学の山口二郎氏や経済学の神野直彦氏らの名前が思い浮かぶが、植草氏は山口氏や神野氏らとは異質の存在で、むしろ、右派民族主義系の佐藤優氏や関岡英之氏などに近い存在に思えた。そんな植草さんのブログは、「古い左派」かもしれない私にとっては、どうしても違和感をぬぐえないものだった。
植草さんのスタンスは、おそらく平沼赳夫一派との親和性が強いのではないかと思う。ネット検索で調べてみると、過去に植草さんをサポートした人たちの多くは、ポリティカルコンパスでいうと、政治思想軸では保守、経済思想軸では左派に当たる「保守左派」のスタンスだった。佐藤優や関岡英之も、このカテゴリーに属する。
一方、私は政治思想軸ではリベラル、経済思想軸では左派に当たる「リベラル左派」の人間だ。福田首相は、政治思想軸、経済思想軸ともに原点に近い、「右でも左でもない」人だと思う。そして、しばしば私を苛立たせるのは、「保守左派」の人たちが、政治思想軸の「右」側から福田政権を批判することなのだ。「保守左派」の特徴として、私があらゆる政治家の中でもっとも嫌ってやまない安倍晋三に対して宥和的であることが挙げられる。安倍というと対北朝鮮強硬政策で知られるが、植草さんも、
を批判している。しかし、私は安倍晋三の対北朝鮮強硬政策の方が誤りであったと考えており、福田首相は理性的な方向へと政策転換を図っていると評価している。拉致問題の解決なく経済制裁解除に動き始めた福田政権
そんなわけで、私は「植草一秀さんを中心とした反自民ブロガーの結集」には応じられない。美爾依さんにメールでそう伝えたところ、彼女からは、むしろ私の考えをブログで公開したほうが良い、との助言をいただいた。立場は違えど、日本の社会を良くしたいという思いは同じだ。
「古い左派」たる私は、愚直にベタでダサいやり方で、平和国家かつ福祉国家への道を追求していきたい。だから立場は分かれるけれど、植草さんの、
という言葉を肝に銘じ、建設的な議論をしていきたいと思う今日この頃だ。各人が互いに尊重し合いながら健全な論議を深めてゆくことができればうれしく思います。
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6月23日付『kojitakenの日記』のエントリ 「天下の経済学者なのだから、TBくらいしてきてほしいものだが...」 において、植草一秀元教授に対する無礼な表現がありました。
植草元教授ならびに植草様の支持者に対し、不快感を与えたことを謝罪いたします。
弊ブログは、植草様の言論を必ずしも支持いたしませんが、植草様のブログへの違和感の表明にとどめておくべきところを、行き過ぎた攻撃的な表現を用いて、「誹謗中傷」と言われても仕方ない記事にしてしまいました。
今後は、実りある議論につながるような記事を公開するよう心がける所存です。
『きまぐれな日々』 『kojitakenの日記』 管理人
kojitaken (古寺多見)
安倍辞任を受けて成立した福田康夫政権は、構造改革(新自由主義政策)の手直しをする必要に迫られたが、財界や構造改革遂行の圧力がそれを許さなかった。また、後期高齢者医療制度などは、小泉時代に強行採決で決定された制度であって、いまさら変えられなかった。それで、構造改革の痛みの手当てをしようとしているのだが、その財源として福田政権が考えているのが消費税率の引き上げだ。
渡辺氏は、竹中平蔵や中川秀直が唱える「上げ潮派」を急進改革路線、与謝野馨らが唱える「消費税増税派」を漸進改革路線派と位置づけている。これはよく納得できる議論なのだが、先日、当ブログがこの両派を「新自由主義陣営の路線論争に過ぎない」と主張した時、コメント欄で両者の食い違いは大きいとして、上げ潮派に肩入れされている方がおられた。てっきり、過激な新自由主義者かと思いきや、その方が「社民主義者」を自称されていると知って驚いたものだ。マスコミ報道に騙された典型例といえると思う。
福田政権は、いうまでもなく漸進改革派に傾いており、先日は福田首相自身が消費税率引き上げを言い出した。
改憲戦略でも、福田政権は立て直しを図り、安倍政権の性急な改憲路線によってひびの入った民主党との協調路線を再建しようとした。民主党の方も、保守政党としての制約があり、テロ特措法延長反対に対し、アメリカから猛烈な圧力がかかった。それに対して小沢一郎が持ち出したのが、『世界』2007年11月号に寄稿した「今こそ国際安全保障の原則確立を」という論文だった。これは、海外派兵恒久法のような法律を作って、国連のお墨付きがあれば自衛隊の海外派兵を容認するとするもので、発表当時大騒ぎになったことは記憶に新しい。この件は、昨年11月の福田康夫と小沢一郎の大連立協議でも議題になった。
さらに福田政権は、「九条の会」の右派版ともいうべき、改憲の国民運動を起こそうとしている。これには野党も巻き込もうとしており、新憲法制定議員同盟の新任顧問に、民主党の鳩山由紀夫と国民新党の亀井静香を加えた。
参院選の惨敗によって新自由主義改革と軍事大国化路線にブレーキがかかった自民党政権だが、戦略の成否の鍵を握るのが民主党だ。渡辺氏の記述を以下に引用する。
民主党は、98年以降明らかに保守二大政党制の一角を占める保守第二政党としての性格を強めてきた。ところが、2007年の参院選時には、民主党は明らかに保守政党の枠を踏み破って福祉国家的性格の濃厚な方針を提示し、構造改革や改憲に批判的な大衆の支持を獲得した。転換の直接の契機は小沢の選挙戦略であるが、その中身がかかるものになった背景には、改憲をめぐる運動の昂揚と構造改革の社会的結果の劇的顕在化があったことは明らかである。
(『世界』 2008年7月号掲載 渡辺治「新自由主義構造改革と改憲のゆくえ ポスト安倍政権の動向」より)
渡辺氏はさらに、民主党内には(左右)両極が存在するから、党がもとのように保守政党の枠に収まるか、保守政党からの逸脱を続けるかは、世論と運動の大きさに左右されると思われる、としている。
当面の課題として渡辺氏が挙げるのが、後期高齢者医療制度についての対案、自民党が突いてくる財源問題への対処と海外派兵恒久法である。
ここで民主党の帰趨は決まるし、昨年の参院選の結果を受けた現在を、改憲、新自由主義転換の分岐点にすることができるかどうかは、海外派兵恒久法や後期高齢者医療制度を葬り去ることができるかどうかにかかっている、という指摘で論文は結ばれている。
よく当ブログが民主党について書くと、あんな政党は自民党と同じで軍拡路線を目指す新自由主義政党だ、というコメントをいただく。だが、民主党は昨年の参院選で、福祉国家的政治を目指し、軍事大国化には反対する方向性を持った公約をした。その公約があったから、有権者は民主党に投票したのである。
いかに民主党内部に多数の軍拡論者や新自由主義者がいようが、昨夏の公約を民主党が果たすよう、国民が民主党に促し続けるしかない。経済政策で180度方向転換するような、よく言えば柔軟、悪く言えば無節操な政党だから、国民の声が民主党を動かすことは十分可能なはずだ。そう思ってブログを書いている今日この頃である。
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一般的に、民主党は保守政党だと位置づけられている。当ブログもその認識だ。「真の保守」をもって任ずる人たちの間には、「自民党と民主党は二大左翼政党だ」(つまり、「真の保守」は自分たちだ)と言う人もいるが、そりゃ極右から見ると自民党も民主党も「左」に見えるだろう。
ただ、歴史的には自民党の「保守本流」は修正資本主義をとった。1973年(昭和48年)を「福祉元年」と位置づけて、福祉国家指向の政策をとり始めていた。しかし、その頃から新自由主義が台頭してきた。チリでアジェンデ政権をクーデターで倒したピノチェト政権が世界ではじめて新自由主義をとったとされるが、このクーデターが起きたのが1973年の9月11日(!)だった。
自民党の政策に対して、新自由主義的な修正をかける動きはその頃から始まり、保守本流の大平正芳首相が「小さな政府」指向を打ち出したりもした。
おおむね自民党の一部と社会党の右側(ばかりではないが)が合流して作られた民主党は、本来なら自民党より左の位置づけになっておかしくなかったのだが、一時期まで自民党より過激な新自由主義政党だったのは、スタグフレーションに直面した資本主義の行き詰まりの解決策を、新自由主義的処方箋に求めるという時代の流れに乗ったためだった。
ところで、『世界』 7月号に、渡辺治氏(一橋大教授)による「新自由主義構造改革と改憲のゆくえ?ポスト安倍政権の動向」と題した論文が掲載されている。渡辺氏は左派の政治学者で、当ブログでも昨年9月26日付エントリ「渡辺治氏「新政権、本当の課題」(日経BP)より」で氏の論考を紹介したことがある。
『世界』の論文で、渡辺氏はまず昨年倒れた安倍内閣の性格を、軍事大国化と新自由主義改革という2つの課題を完成させる任務を帯びた政権だったと位置づける。安倍は憲法改定を公約し、衆参両院の多数を背景に改憲への道をひた走った。
しかし、その過程で安倍の改憲実行への障害が現れ始めた。渡辺氏は下記の3点を指摘している。
まず、国民投票法(渡辺氏は「改憲手続法」と記述しており、もちろんこの方が法案の実態に即している)を強行採決で通したことで民主党との協調が壊れた。これは民主党代表の小沢一郎が改憲手続法制定で賛成にまわる気配がなかったためとしている。次に、2004年6月にスタートした「九条の会」が各地で爆発的に増殖し、九条改憲に反対する世論が増えたことがあげられている。さらに、保守陣営の中からも、安倍の改憲強硬路線に反対する声があがったことが指摘されている。その保守派知識人として、立花隆や保阪正康の名前が挙がっているが、実際、立花隆が安倍晋三に対する強烈な批判を始めた時のインパクトは大きかった。当ブログも一昨年9月10日、「立花隆さんが安倍晋三に「宣戦布告」したぞ!」と興奮気味に伝えている。
一方で安倍は、小泉内閣の構造改革、つまり新自由主義改革を継承し、これを強行した。ここで渡辺氏は小泉政権が行った構造改革のためのシステム作りについて指摘している。まず、構造改革の執行単位を国から地方に降ろしたこと。もう一つは、民主党を保守政党として育成して保守二大政党制の確立を目指したことだとしている。
実際、コイズミは05年の総選挙直後に民主党代表に就任した前原誠司にエールを送り続けていた。ニセメール事件で苦境に立った前原の肩を、コイズミが大きく叩いて激励した光景は忘れられない。
しかし、小泉の構造改革は、日本社会の安定を支えてきた企業社会と地方を壊し、社会保障も縮減した。すでに欧州で実現されていた福祉国家とは異なり、企業の従業員抱え込みと地方への利益誘導をセーフティーネットとしていた日本においては、新自由主義政策をとることによって、貧困や格差の問題が劇的に顕在化したのである。
昨年の参院選で自民党は惨敗したが、その敗因について渡辺氏は、特に地方で顕著になった新自由主義への怒り、大都市部で見られた安倍の改憲路線への警戒、それに民主党の反構造改革党への変身の3点を挙げている。最後の点については、民主党は小沢一郎が代表になって、党の路線を180度転換したと評価している。特に渡辺氏が評価するのは地方に対する農家戸別所得補償政策の打ち出しで、まぎれもない福祉国家的政策だとしている。
先に、前原誠司が雑誌の座談会で小沢執行部を批判したのも、まさにこの政策についてであって、新自由主義者である前原にとっては、こんな政策は認められないのだろう。6月16日付エントリにも書いたように、当ブログは前原が民主党3議員から離党勧告を突きつけられたのは当然であると考えており、それに対して前原を擁護して前原こそ民主党のリーダーにふさわしいとする菅義偉や田原総一朗は、二大ネオリベ政党制を望むゴリゴリの新自由主義者であることを、世間に向けてあからさまに宣言しているというわけだ。
民主党は、軍事大国化に関しても、自衛隊のイラクからの撤退やテロ特措法延長反対を掲げ、改憲指向をむき出しにした安倍政権との対決姿勢を鮮明にし、構造改革に怒る地方票と大都市部の反改憲票を一気に民主党に吸収した、そう渡辺氏は指摘している。
さて、安倍はというと、新保守主義的政策を振り回そうとしたが、よりどころとなる共同体をコイズミがぶっ壊していたためそれもままならず、不本意な退陣に追い込まれた。国会で所信表明演説を行った翌日に辞意を表明するという前代未聞の醜態を演じた安倍は、それだけでも議員辞職に値すると私は思うのだが、優しい「リベラル・左派」の人たちは、その安倍と深いつながりのある人たちが民主党にすり寄ってくるのをはねつけるどころか、「反自公政権」で連携せよと言う。あの安倍を終わらせるための「AbEndキャンペーン」はいったい何だったのかと思ってしまうほどだ。
渡辺氏の論考は、このあとようやく副題にある「ポスト安倍政権の動向」へと進むが、長くなったので続きは明日のエントリに回したい。
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社会に多くの自殺者やワーキングプアと呼ばれる人びとを生み出したのは、「コイズミカイカク」という名の新自由主義政策だった。そういう認識を持つ人たちは徐々に増えてきたように思う。
だが、かつて、というよりついこの間まで国民が熱狂的に支持してきたコイズミに矛先が向いた言論は、まだまだ多くない。たとえば、6月20日の朝日新聞社説は、
と書いているけれど、新自由主義政策が「自殺の背景」となったことへの批判は、朝日の社説からはすっぽり抜け落ちている。死者30万人。東京の新宿区の住民がそっくり消えたのと同じだ。10年前、政府も対策に乗り出したはずなのに、なぜ効果が上がらないのか。
その大きな原因は、うつ病や職場のメンタルヘルスといった個人の精神疾患対策に偏っていたことだろう。
死を選ぶ直前は、心の病だったかもしれない。しかし、さかのぼれば、多重債務や過労、いじめといった社会的な要因があり、身体の病気から心のバランスを崩すことも多い。そうした自殺の背景に踏み込んでいなかった。
その点で、内閣府が昨年初めて作った自殺対策白書が興味深い。冒頭で「個人の問題ととらえていた」「遺族支援策がほとんどなかった」と率直に過去の政策の誤りを認めている。
政策を転換させたのは、人々の力だ。2年前、遺族やNGOが10万人署名を突きつけ、議員立法で自殺対策基本法ができた。10年遅れで政府はようやく総合的な対策にとりかかった。
昨年の参院選のあと、福田内閣が成立し、当初は自民党と民主党が「脱カイカク」を競うような動きを見せかかったことがあったけれど、その後新自由主義勢力が巻き返してきた。「緊縮財政派」(=増税派)と「上げ潮派」(=企業減税派)の対立など、そのどちらかの選択肢しかないかのような印象を国民に与える悪質なプロパガンダだ。すでに十分減税されて業績が改善された財界が、味をしめてさらなる減税を求める姿は、彼らのモラルの低下を感じさせる。国民が景気回復を実感できないのは、民間の給与所得が8年連続減少するなどして内需が拡大しておらず、外需頼みの好景気であるためで、なぜそうなっているかというと、再分配が十分行われていないからだと当ブログは考えるのだが、読売新聞や自民党はもちろんのこと、朝日新聞や民主党にしてもそれを強く主張することはなく、特に朝日新聞の最近の論調は、消費税増税論議をタブー視するな、というものだ。
消費税増税を言い出した福田首相に対し、民主党の鳩山幹事長は、消費税増税は必要ないと反論しているが、それでは、民主党が法人税増税や所得税の累進性強化など、経団連が喜ばない政策を打ち出せるのか。少なくとも現状の延長線上ではそんなことはできないだろう。「ムダを省いて」財源を捻出するのだ、と民主党は主張するだろうが、ムダの削減には限界がある。その先の財源確保になると、民主党には保守政党としての限界があるから、そのうちに「やっぱり消費税増税が必要だ」と言い出すのではないか。そういう疑念を私は持っている。
今後政権交代があった時の新政権にそんな動きをさせないため、あるいは外交・安全保障面で右寄りの軍拡路線に走らせないためには、それに歯止めをかける連立のパートナーが必要となる。経済政策では、ともに「経済左派」的政策を掲げる社民党と国民新党がその役割を担うべきであって、経済政策について何も語っていない平沼一派にその役を担わせることはできない。それに、極端な民族主義を主張し、反米かつ反中韓の傾向を持つ関岡英之をイデオローグの一人とする平沼一派には、日本を国際的に孤立させる危うさを私は感じる。何度も書くけれども、平沼一派が参加する政権に社民党の参加が可能だとは、私にはとうてい思えない。
いつもの癖で平沼一派批判になってしまい、またかと思われる方も多いだろうから、ここらへんでいくつかの記事を紹介しておこう。
まずは、前原誠司の民主党批判を高く評価した田原総一朗の妄論。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/080619_64th/index.html
これは、田原にとっては、自民党と民主党が「二大新自由主義政党」として切磋琢磨する姿が理想であることをよく示す噴飯ものの記事だ。
次いで、前のエントリのコメント欄でフリスキーさんに教えていただいた佐藤優の記事。
http://www.business-i.jp/news/sato-page/rasputin/200801230005o.nwc
少し古い1月23日付の記事だが、『世界』や『週刊金曜日』には左派受けのするようなことを書く佐藤が、産経には
と本音を書いている。「AbEnd」を唱えた当ブログとしては、佐藤の言論を受け入れることはできない。筆者は、持病が完治することがなくても、安倍氏には、よき副総理候補とペアになって再び総理の座を狙ってほしいと思う。安倍氏の活動が日本に本格的な保守政治を根付かさせるために、これからも必要とされるからだ。
関岡英之に対する批判としては、右派論客の山崎行太郎氏による昨年11月の記事を紹介しておこう。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20071103
関岡某のように、竹中らの背後に、「米国政府の意図や謀略」を読むのは深読みであり被害妄想的な陰謀論の一種に過ぎない。「奪われる日本」の被害者も加害者も日本国民である。米国や中国、あるいは北朝鮮を「悪役」に仕立てて、日本国民は悪くない…、日本国民に責任は無い…、悪いのは「●●」だ…というような国際謀略論が、保守論壇やネット右翼の間で、あたかも正論のごとく持て囃されている昨今だが、それこそ最近の日本国民の思想的劣化を象徴し、知的退廃を物語るものだろう。関岡某の「米国の対日要望書」犯人説に洗脳され、踊らされている保守論壇やネット右翼こそ思想的劣化の象徴そのものであり、まことに哀れというしかない。
(『毒蛇山荘日記』 2007年11月3日付より)
「陰謀論」の悪影響を受けた思想的劣化や知的退廃は、何も「保守論壇やネット右翼」に限らず、「リベラル・左派論壇やネット左翼」にも当てはまる、というより右側と比べても汚染はいっそうひどいように私には思える。
「奪われる日本」の被害者も加害者も日本国民である、という山崎氏の主張には私も賛成で、コイズミにせよ竹中にせよ、マスメディアが垂れ流す「コイズミ?竹中カイカク」礼賛に騙された日本国民が熱狂的に支持し、自滅への道を歩んだのだ。そこをきっちり総括せずして、日本の再生はないと思うのだが、先の戦争も総括できなかった日本国民にそれが可能かというと、悲観的にならざるを得ない今日この頃だ。
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数日前の記事へのコメントは、通常、ほとんど読者の目に触れることはない。それではあまりにも惜しいので、新たなエントリを起こして紹介することにした。内容は、売れっ子の論客・佐藤優に対する批判である。このコメントについて、私ごときが注釈を加える資格はないのだが、読者の便宜のために、いくつかのリンクを追加させていただいた。
kojitakenさま
以前、魚住昭氏の本に関連して、佐藤優氏に対する批判めいたコメントを書かせていただきました[1]。kojitakenさんもたしか高橋哲哉著『靖国問題』にふれていらっしゃったことがあったと思いますが[2][3]、私が最初に佐藤氏に関心を、というより疑問をもったのは、実はこの本について佐藤氏が書いた「とても同意できない高橋哲哉著『靖国問題』の罠」(『正論』2005年9月号)を読んだときでした。
高橋氏が「靖国の論理に取り込まれないためには、家族を失って悲しいのに、嬉しいと言わないこと。自然の感情に従って十分に悲しむこと。」と提言しているのに対し、佐藤氏は、「「悲しいのに嬉しいと言わない」、「十分に悲しむこと」、この倫理基準を守ることができるのは真に意志強固な人間だけだ。悲しみを無理をしてでも喜びに変えるところから信仰は生まれるのであるし、文学も生まれるのだと思う」と反論していたのです。これに私は大変驚き、? 私どものような一般庶民に「戦死を喜べ」「国のために死ぬことを誇りとせよ」と強要しているに等しい、もしそれが言い過ぎならば、その強要まであと一歩の発言と感じられました。
?悲しみを喜びに変換することによって信仰や文学が生まれる、という発想は、私の想像と理解を超えています。たしかに靖国信仰は生まれるでしょう。喜ぶこと自体そうなのですから。でもその他にどんな信仰が生まれ得るのか。それにもまして、どんな文学が生まれるのか。実証もなしにこんなことをいうのは、単に靖国を賛美したいがための思いつきではないか、それは宗教や文学を舐めていることではないかと思ったのです。コンラッドの『闇の奥』の翻訳者であり、『闇の奥の奥』の著者である藤永茂氏(物理学者)はもう80歳を超えているはずですが、本日(6月19日)のブログに「小説を読む、文学作品を鑑賞する(appreciate)とはどういう事なのか、どういう精神的経験であるのか? コンラッドの『闇の奥』を読み返しながら、絶えず考えていますが、相変わらず、私には難問です。」「これについては、やがて、本気で書いてみるつもりです。」と述べています[4]。このような若々しく謙遜な発言に私は感動しますし、自然と尊敬の念が湧いてくるのをおぼえます。佐藤氏は信仰や文学についてご自身が大変な識見者のつもりでいるのでしょうが、上記の発言はいみじくもそうではないことを露呈していると思ったのです。
?佐藤氏は、中国人や韓国人が靖国を批判するのは、それぞれの物語があるのだから、それはそれで仕方がない。しかしロシア人やイスラエル人はそうではない(靖国を批判しない)と主張しています。彼らを靖国神社と遊就館に案内すると、「誰もが特攻機や人間魚雷「回天」の前で立ち止まり、涙を浮かべる」そうですが、このことが事実としても、ロシアやイスラエルは日本の侵略と植民地支配の当事者国ではないのですから、奇妙な論理展開だと思います。その後『国家と神とマルクス』では、高橋氏の「悲しいのに嬉しいと言わないこと」が実践できるのは選ばれた優れた人々だけだ、だから高橋さんの主張は選民思想で、左翼の「前衛」中心主義なのだ、といった見解を述べています。(荒唐無稽だと思いますが。)
この書評を読んだことで、私は佐藤氏に違和感を感じるようになったのです。これは直接的な政治ではありませんが(どちらかといえば私は政治が苦手なほうです)、広い意味では政治ですよね。戦前はともかく、戦後こういう人があちらでもこちらでも、あらゆるメディア媒体で賞賛されるというような現象はなかったと思います。新しい現象であることはたしかだと感じています。
2008.06.19 17:40 URL | junko
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そのやくざ的なキャラクターで国民の人気を集めた小泉首相は、経済政策を竹中平蔵に丸投げし、その竹中は国民生活を痛めつける極端な新自由主義政策をとったが、コイズミが「カイカクなくして成長なし」と絶叫するや、国民の多くはその妄言を信じた。そして、コイズミは靖国神社への参拝の強行などで、国粋主義化した一部国民(ネット右翼を含む)から拍手喝采を得たのである。
小泉政権は新自由主義(ネオリベ)と新保守主義(ネオコン)の傾向を兼ね備えた性格を持っていたが、コイズミは実は「ノンポリ」といっても過言ではない空虚な人間だった。前述のように、経済政策は竹中平蔵に丸投げしており、「コイズミカイカク」とは実質的には「竹中カイカク」だったし、「皇室は最大の抵抗勢力」と言ったとされるコイズミは、本質的はネオコンからはほど遠い人間だった。単なる無責任男に過ぎない。
それに対して、コイズミの「反ネオコン」ともいえる体質に強烈に反発したのが、本物の「ネオコン」連中だった。そして、彼らの熱烈な支持を集めたのが安倍晋三だったのである。
小泉政権のあとを受けた安倍晋三政権とは、コイズミ(実は竹中平蔵)の新自由主義政策をそのまま引き継ぎつつ、政治思想面ではコイズミより大きく右に振れた極右的性格を打ち出した。それは、「経済極右兼思想極右」ともいうべき、およそ考えられる限りもっとも凶悪な政治権力だった。
だからこそ、当ブログは安倍政権成立前から安倍の体質に警鐘を鳴らし続け、安倍の首相就任を阻止すべく、「カナダde日本語」が提唱した「AbEnd(安倍を「the End」させよう!)キャンペーン」に、真っ先に参加した。
それからまる2年。安倍内閣の寿命はちょうど1年だったから、その倍の月日が流れた。安倍は一昨年9月に総理大臣になったが、その2か月前の06年7月にNHKテレビで放送された「ワーキングプア」などをきっかけにして、「コイズミカイカク」の負の側面が論じられるようになり、新自由主義に対する批判が急速に広まっていった。しかし、のちに「KY」と揶揄された安倍は、そんな空気を読むことができず、財界の言いなりで「ホワイトカラー・エグゼンプション」を、「少子化対策として必要」などと発言して、国民の失笑と怒りを買った。
安倍は経済政策には全くの不熱心で経団連のいいなりになる一方、イデオロギー政治には異様なまでに熱を入れ、改正教育基本法、国民投票法案、教育改革関連三法案など、憲法改定の布石となる諸法案を次々と強行採決で成立させた。
このように、安倍はコイズミのネオリベ政策をそのまま継承すると同時に、コイズミでさえやらなかった強烈なネオコン政策を推進した。この1年間の安倍政治の犯罪性は、どんなに強調しても強調しすぎることはない。
ネオリベとネオコン。一昨年から昨年前半にかけて、国民生活により大きな脅威だったのは前者だ。「ブログ論壇」といえるものが存在するかどうかはともかく、ブログの世界でも、反ネオリベで右派と左派の部分共闘もあって良いという主張があり、当ブログも当時それに賛成した。一方で、安易な「野党共闘」論への批判も当時からあり、それについて当ブログは、「右派とは是々非々で臨むべし」というスタンスをとった。
昨年7月の参院選で安倍率いる自民党が大敗し、「国民の生活が第一」というスローガンを掲げた民主党が圧勝した。民意は、新自由主義を否定したといえる。その2年前の総選挙で、「郵政民営化」というコイズミのまいたエサにつられて新自由主義を諸手を挙げて受け入れたばかりというのに劇的な様変わりだったが、自民党はコイズミが「抵抗勢力」を駆逐してすっかりネオリベ政党と化していたので、このままでは次の総選挙では自民党の敗北は必至という状態となって今に至っている。
安倍政権は参院選の敗北で「死に体」となり、2か月後に退陣に追い込まれたが、その後を受けた福田康夫内閣は、いわば最初から「死に体」の内閣だ。それでも成立後しばらくはそれなりの支持率を得ていたが、今では内閣支持率は20%前後に落ち込んでいる。
新自由主義が否定された民意を受けて、福田首相は「脱カイカク」を指向しようとしたが、党内はコイズミによってネオリベに固められていて思うに任せない状態だ。一方、参院選で勝利した民主党も、小沢一郎代表が「大連立」構想に走ろうとしたり、前原誠司が新自由主義者としての立場から民主党の政策を批判するなど、国民の期待に応える動きをしているとはいえない。民主党は、かつて「カイカク」の先鋭性をコイズミ自民党と競ったこともある政党だから、方向転換もなかなかスムーズにはいかないのだ。
先日、参議院で福田首相の問責決議案が可決されたが、福田首相はこれを無視した。さとうしゅういちさんは、「JanJanNews」で、
と主張している。福田さんは、
1、総理を辞任するか、
2、後期高齢者医療制度をはじめとする負担増を撤回するか、
3、解散総選挙をするか。
その3つに1つしかないと、私は考えます。
スジ論としてはその通りだと私も思うが、福田首相が自分からそんなことをするとは考えられない以上、民主党など野党がその方向に追い込むべきだ。特に、国民生活にとっては、二番目の「負担増の撤回」が重要だ。だが、民主党は必ずしもそういう動きをしていない。
解散総選挙というが、解散権を持っているのは総理大臣であり、民主党は自民党を解散に追い込まなければならない。解散に追い込むためには、反自民勢力がいくら団結しても、衆議院で自公が3分の2以上の議席を持っている以上何の意味もない。自民党の団結を切り崩し、自民党から造反者を出させなければならないのである。
その意味からも、既に自民党を追い出された平沼赳夫一派からのラブコールに色よい反応を示す小沢一郎や鳩山由紀夫には強い疑問を感じる。むしろ彼らのやるべきことは、自民党内でコイズミ?安倍政権の延長線上にある路線を快く思わない人たちを引き抜くことなのではないか。
かつてそれを得意としたのは自民党で、1994年には加藤紘一、野中広務、亀井静香らが社会党の村山富市を口説いて、自社さ連立政権を発足させた。これには菅直人も噛んでいる。また、1996年の総選挙後には、加藤紘一と野中広務が新進党議員を「一本釣り」して寝返らせたこともあった。
一方、小沢一郎は、1993年に自民党、2000年に自由党をそれぞれ割って出たことに象徴されるように、「壊し屋」の行動パターンを持っている。
今、もし民主党の主導権を小沢一郎ではなく菅直人が握っていれば、自民党に手を突っ込んで分裂を誘発し、福田政権を早期の解散総選挙に追い込むことができたかもしれないと思う。しかし、大連立騒動の時に、菅直人は腰が引けてしまった。1998年の参院選において民主党が勝ったあともそうだったが、菅直人はいつも肝心なところで腰が引けるという悪癖を持っている。このままでは菅直人の総理大臣就任は無理かもしれないと私は思っている。自民党では加藤紘一に似たようなところがあり、2000年の「加藤の乱」の失敗が翌年のコイズミ政権成立を呼び、日本の焦土化を招いてしまったのは日本の政治史上の一大痛恨事だった。
「自社さ」から「加藤の乱」の頃まで緊密だったといわれる菅直人と加藤紘一の連携の目があれば、少しはましな政権ができるのではないかと今でも思うのだが、どうやらそんな方向には行きそうもない。安倍晋三ネオコン・ネオリベ内閣の悪政を総括するどころか、「真の保守」などと称する安倍に近い連中が集まったグループにまで色目を使う民主党執行部に対して、日に日に不信感が強まっていく。
なお、当ブログは平沼赳夫一派をしつこくしつこく批判し続けているが、現実問題としては、平沼新党の政権参加どころか、新党の結成さえおぼつかないと思う。平沼が新党を旗揚げしようとしても、ついていくのは郵政造反組以外には自民党・民主党の一部の極右政治家だけになると思われる。片山さつきは、あの人(平沼)は極右だから誰がついていくのだろうか、と言っているようだが、平沼一派は政界再編成の際に影響力を持つ勢力になど、間違ってもならないだろう。
ただ彼らは、コイズミ一派の従米を批判しつつ、加藤紘一らを「親中・親韓・親北朝鮮」だとして批判している。それでは、日本は国際的に孤立しろというのか。彼らの主張を推し進めると、日本は核武装を含めた軍事大国路線を目指さなければならないことになるはずだ。軍備増強には巨額の金がかかり、国民生活を圧迫する。それこそ、「国民の生活が第一」とは真っ向から対立するのだ。
当ブログは、「反ネオリベ」のためにリベラル・左派が極右と連携すべき局面はとっくに過ぎ去ったと考えている。より良い国民生活を目指すためには、反ネオリベ政権は極右勢力など取り込んではならない。
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昨日のエントリで取り上げた雑誌『Voice』7月号には、「「平沼新党」勝負のとき」と題された平沼赳夫と関岡英之の対談が出ている。この記事は、ネットでも読むことができる。
http://news.goo.ne.jp/article/php/politics/php-20080609-01.html
平沼の対談相手である関岡英之は、『拒否できない日本』(文春新書、2004年)で一躍脚光を浴びた人で、「年次改革要望書」のプログラムに沿って、日本が新自由主義「カイカク」をアメリカに行わされているという仮説を提起した。このため、反新自由主義を唱える人の一部から神のように崇め奉られているが、関岡は同時に強烈な民族主義を唱える右翼でもある。関岡が平沼赳夫や城内実を盛んに持ち上げるのもむべなるかな、といったところだ。
対談冒頭で、5月11日の『報道2001』の平沼の出演および『月刊日本』5月号に掲載された平沼の記事を、5月12日の『産経新聞』が一面トップで取り上げたことを関岡が紹介している。つまり、今後平沼新党が結成されたあかつきには、産経新聞がこれを全面的にバックアップすることが予想されるということだ。
当ブログは平沼や関岡とは思想信条が異なるので、その論旨を紹介したりはしないが、対談の後半で2人は政局を語っている。
http://news.goo.ne.jp/article/php/politics/php-20080609-04.html
以下引用する。
積極論で日本の政治をリードしたい
関岡 さて政局の話になりますが、私はふだん永田町に出入りしているわけでもない政治のド素人ですが、庶民の直感で申しますと、日本の保守政治はいま、派閥や政党の枠を超えて3つの極に収斂しようとしているように見えます。
1つは小泉純一郎さんとか小池百合子さん、あるいは民主党の前原誠司さんなど、アメリカ的な市場原理を信奉する新自由主義派ですね。政策新人類といわれた塩崎恭久さんや渡辺喜美さんなどもイデオロギー的に近いのかなと思います。
もう一方は加藤紘一さんや山崎拓さん、民主党の仙谷由人さんなど「ラーの会」ですね。親中リベラルという立場では古賀誠さんや二階俊博さんや公明党も近いように思えます。そもそも保守と呼べるかどうかも疑問ですが。
平沼 北朝鮮に対してもこのグループは、圧力より対話、と非常に迎合的です。
関岡 小泉グループはアメリカの軍事力と資本力に頼ろうとする傾向が認められ、加藤・山崎グループは中国、韓国・北朝鮮との結びつきやそのマンパワーに頼ろうとする傾向を感じます。新自由主義とリベラルはイデオロギー的には正反対ですが、どちらも日本の自立を志向するのではなく、外国頼みという点では違いがないように思います。
その、どちらにも飽き足りない、どうしても保守の第三極が必要だと感じている国民が、とりわけ草の根の保守層に増えているように感じます。その衆望を浴びているのが日本の主権と伝統を重んじる平沼さん、麻生太郎さん、中川昭一さん、安倍晋三さん、4人のイニシャルから付けられた「HANAの会」で、日本を再生してくれる真の保守政治家として国民が期待しているように思うのです。
(月刊『Voice』 2008年7月号掲載 「「平沼新党」勝負のとき」より)
ここで平沼と関岡は、現在の保守勢力を、新自由主義勢力(親米派)、親中リベラル、「真の保守」の3つに分け、自分たち「真の保守」が草の根保守層に求められていると主張している。「草の根保守」というと、ここに名前は出てこないが、先日収監された村上正邦の名前がただちに思い浮かぶ。反新自由主義を標榜するブログでは、「喜八ログ」が彼らを熱心に支持する記事をよく公開しているようだ。
私などは、ついこの間まで「タカ派」といわれていた山崎拓が「親中リベラル」に分類されるなんて、と頭がクラクラするし、対談で言及されている「HANAの会」の平沼赳夫、麻生太郎、中川昭一、安倍晋三の4人など、日本を代表するトンでもない極右政治家だと認識している。
平沼や関岡が「親中リベラル」として、「中国・韓国・北朝鮮との結びつきやそのマンパワーに頼ろうとする傾向を持つ」と批判する人たちは、単にあまりに対米一辺倒の外交を改めて、アジア重視を打ち出しているだけだし、福田首相もその線に沿った政治家だと思うのだが、国粋的な平沼や関岡にはそうは思えないらしい。
私は、次の総選挙で自公と民主党がともに過半数をとれない場合、政権を攻勢する組み合わせとしては、平沼らが「親中リベラル」と批判する、実際には全方位外交を目指す人たちと民主党・社民党・国民新党の組み合わせがもっともましだと思う。それに対して民主党と「平沼新党」の組み合わせになったのでは、社民党の政権への参加は望めず、現在の福田政権よりタカ派姿勢(改憲指向)がかえって強まり、きわめて危険であると考える。
よく、「リベラル・左派は割れてはならない」などと言う人がいるが、自公政権が末期症状を呈している現在、次の政権のあり方については、人それぞれ意見が違って当たり前だ。ガンガン意見をぶつけ合っても良いのではないか。
「連合赤軍も殺し合いを始める前には激しい議論をしていたみたいだ」などと揶揄して、議論を避けて強い同調圧力をかける欺瞞に満ちた態度は、いい加減に止めたほうが良い。
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PHPが発行している右派の月刊誌「Voice」最新号(2008年7月号)もその一つで、「福田政権後の日本」という特集を組んでいる。平沼赳夫と関岡英之の対談、竹中平蔵と田原総一朗の対談、麻生太郎に期待する中西輝政の記事、平沼・民主連立政権成立の可能性に言及した花岡信昭の記事など、「リベラル・左派」にとっては「目に毒」としか言いようのない記事がずらりと勢ぞろいして壮観なのだが、その中に前原誠司が書いた「民主党は政権を担えるか」という記事がある。
この記事が原因ではないが、他の雑誌に掲載された、前原が参加した座談会の内容を、筒井信隆、篠原孝、山田正彦の民主党3議員が問題視し、前原に離党勧告のメールを送って話題になった。
http://www.j-cast.com/2008/06/12021716.html
前原の論文を読んでみると、全くの謬論というわけではない。前原は、この中で
と書いて、「構造改革派」、つまり新自由主義者としてのスタンスを明確にしているが、いくつか傾聴すべき主張もしている。小泉・竹中改革の方向性や認識はまったく正しい。
たとえば、先の通常国会において、民主党がガソリンの値下げに重きを置きすぎたという主張などがそうで、小沢執行部は代替財源を国民の納得する形で示すことができなかったとか、道路以外にも全国で無駄遣いがある、前原が以前国会で取り上げた河川整備やダム建設なども無駄だらけだというのは、その通りだと思う。
前原は、消費税引き上げの必要は主張しつつも、食料品課税の減免などによる逆進性緩和も主張しているし、コイズミ?竹中カイカクの「負の側面」、すなわち社会保障費削減も批判している。これは「あと出しジャンケン」だと私は思うけれど、たとえば後期高齢者医療制度は自公与党の強行採決によって成立したから、前原にも批判する資格は残っている。
しかしその上で前原は、されど「改革なくして成長なし」と主張している。なぜそう主張するのか、理由は明記していない。従って、当ブログはそれ以降の前原の主張は認めることができない。前原は、「改革派」だの「守旧派」だのといった新自由主義者の常套手段であるレッテル張りをしながら主張を続けているが、説得力は全然ない。
新自由主義者はかつて、食料自給率は下がって当然だと言い放っていた。たとえば、これは「Munchener Brucke」からの孫引きだが、池田信夫氏はかつて、
と主張していた(下記URL)。「食料自給率なんてナンセンス」である。リカード以来の国際分業の原理から考えれば、(特殊な高級農産物や生鮮野菜などを除いて)比較優位のない農産物を日本で生産するのは不合理である。そもそも「食料自給率」とか「食料安全保障」などという言葉を使うのも日本政府だけで、WTOでは相手にもされない。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/dc1ed23cfded932bbfe48b6e39058e5e
食料価格の急騰によって、新自由主義者たちの主張がとんでもない誤りだったことが誰の目にも明らかになった現在は、さすがの池田氏も現在は主張を修正したようだ。前原誠司の以前の主張がどうだったかは知らないが、論文では、
と主張している。しかし前原は、お得意の「対案」を論文で提示してはいない。まさか、ほったらかしにして「自己責任」だけを求めるとは思いたくないのだが。たとえば食料安全保障を考えれば、現在の食料自給率39%はあまりにも低く、早急に上げる取り組みを国家戦略として行わなければならない。農業保護は結果として農家を脆弱にし、日本の食料自給率をさらに下げる結果にしかならない。
全体として、前原の新自由主義者としてのスタンスはわかるが、雑誌記事という制約もあるためか、具体的な問題提起にはあまりなっていない。ただ、そういう主張をするのであれば、自民党に移籍して、実力で自民党の無能な世襲議員どもを駆逐して、新自由主義のリーダーになればよいのではないかと思う。
前原は男女共同参画などについてはリベラルだし、世襲議員でゴリゴリのバックラッシュのくせに新自由主義的政策を口にする安倍晋三のようなどうしようもなく自己矛盾した政治家とは一線を画す、原理原則への忠実さを持った政治家だと思う(但し、前原と安倍は仲が良いそうだ)。だが、前原の主張は、「国民の生活が第一」と訴えて参議院選挙に勝った民主党の路線(選挙に勝つためだけのスローガンだったかもしれないという疑念はあるが)とは相容れない。今回の民主党3議員の離党勧告のメールの中には、ちょっと下品でいただけない部分もあったが、前原は民主党を離れるべきだ、との彼らの主張には、私も賛成だ。
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今朝もTBSの「サンデーモーニング」を見ていたら、毎日新聞の岸井成格が判決を評価するコメントをしていた。その岸井でさえ、政治家の圧力問題を完全にスルーするのは気が引けたらしく、最後にゴニョゴニョ何か言っていたが、よく聞き取れなかった。それを受けて江川紹子氏が「国民が本当に関心を持っているのは、政治家(安倍晋三や中川昭一)の圧力を受けて番組が改変されたかどうかだ」と正論を述べていたのに辛うじて救われた。
それよりもいただけなかったのは朝日新聞で、同紙6月13日付紙面に、安倍晋三、中川昭一および朝日新聞社のコメントが出ていたので、下記に紹介する。
判決を受けて、自民党の安倍晋三前首相と中川昭一衆院議員はそれぞれ、「最高裁はNHKの主張を全面的に認めた。判決は両議員が『政治的圧力を加えた』ことを否定した東京高裁判決を踏襲しており、朝日新聞の報道がねつ造だったことを再度確認できた」とのコメントを出した。
朝日新聞広報部は「朝日新聞社はこの訴訟の当事者ではなく、判決も番組改変と政治家のかかわりについて具体的に判断していませんので、コメントする立場にありません」との談話を発表した。
(朝日新聞 2008年6月13日付紙面より)
朝日新聞は、自紙の報道を捏造だとする安倍と中川のコメントを紙面に掲載しておいてそれに反論もせず、うちとはかかわりのない訴訟だと言って逃げているのだ。得々と勝利宣言をしたNHKともども、朝日新聞も死んだと評するしかないだろう。
さて、「喜八ログ」経由で、民族派右翼の鈴木邦夫氏が「マガジン9条」に連載を開始したことを知った。喜八さんは、
と書いているが、喜八さんのご推察どおり、当ブログ管理人は単に知らなかっただけだし、そもそもふだんからの鈴木氏の言論を知っていれば、特に驚くには当たらないニュースだ(ただ、鈴木氏の記事自体はとても面白い)。「護憲派」の方も「改憲派」の方も揃って「スルー」されているように思える(単に知られていないだけでしょうか?)。
もし仮に平沼赳夫や城内実が「マガジン9条」に連載を開始するようなことがあったら、それはとんでもない大ニュースになるが、そんなことは天地がひっくり返ってもあり得ないだろう。
当ブログは、平沼赳夫については手の施しようのない人物だと考えているが、城内実に対してはそこまでの悪意は持っていない。しかし、城内実が憲法問題や防衛・外交問題について、オフィシャルサイトを見てもほとんど見解を示していないことに対して、強い不満を持っている。具体的に何も語っていない以上、当ブログとしては、城内実は彼と関係の近い平沼赳夫と同様の極右民族主義的なスタンスに立っていると考えるしかない。
城内実の応援を公言されている喜八さんには、そのあたりも含めたPRをお願いしたいところだ。
喜八さんは、佐藤優のPRにも熱心だが、「多文化・多民族・多国籍社会で「人として」」に、「脱「植民地主義」という鍵(その2)?「〈佐藤優現象〉批判」を読んで」というエントリ(1月22日)が出ている。この記事によると、
とのことだ。「〈佐藤優現象〉批判」では、佐藤優氏の右派雑誌や著作における主張が多くの実例を引用する形で紹介されているんですが、総合すると、戦争肯定の新・帝国主義を信奉し、理想とする国家はイスラエル……!?(*ロ*;) ギョギョ
私は、佐藤優の本質が右翼だという認識はあったが、彼の言説は結構面白いので、彼の著書の「国家の罠」や「ナショナリズムという迷宮」(魚住昭との共著)を好意的に紹介したことがある。しかし、右派論壇誌における佐藤の文章はほとんど読んでいないので、ここまでアブナイ極右的な性格を持った記事を発表しているとはうかつにも認識していなかった。
「多文化・多民族・多国籍社会で「人として」」の管理人・仲@ukiukiさんは、左派と極右の共闘に警鐘を鳴らしているのだが、当ブログも最近の平沼赳夫批判を通じて、その路線をとり始めている。それに対して喜八さんは、私から見れば「左派と極右の共闘」の旗振りをしているように見える。
そういえば、最初にリンクを張った「喜八ログ」の記事中にある、
という表現は、当ブログの昨日付エントリにある、「護憲派」の方も「改憲派」の方も揃って「スルー」されているように思える
という文言を意識して書かれたものだろう。城内を支持しているブロガーらは、今回の最高裁判決はスルーするのか?
喜八さんには、逃げずに(「スルー作戦」などをとらずに)堂々とした言論を展開してほしいとお願いする次第だ。
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http://www.asahi.com/national/update/0612/TKY200806120208.html
やはり最高裁、予想通りやってくれたなという感想だ。番組を改変する圧力をかけたとされる安倍晋三と中川昭一、それにNHK上層部は、この判決に大いに満足しているだろう。
最高裁判決の2日前、「放送と人権等権利に関する委員会」が二審の判決についてのNHKニュースについて、「公平・公正を欠き、放送倫理違反があった」との見解を発表したばかりだった。
http://www.asahi.com/national/update/0610/TKY200806100169.html
BRCは、高裁判決についてNHKが自分たちの解釈だけを伝え、「(番組編集への)介入が疑われた2人の政治家のコメントだけを放送した」点を、放送倫理違反と認定した。
上記朝日新聞の記事は、なぜか政治家の実名を出していないが、前述のようにもちろん安倍晋三と中川昭一である。この2人による番組改変の圧力があったことを最初に報じたのは朝日新聞であり、魚住昭が月刊「現代」でこの報道に間違いがなかったことを検証した。それにもかかわらずマスコミは、当事者の朝日新聞社を含めてこの2人を不問に付し、朝日は安倍と中川(昭)に屈服してしまった。以後、朝日の報道はすっかり腰が引けてしまい、この記事でも安倍と中川の実名さえ出せないていたらくだ。
最高裁判決について論じた13日付の朝日新聞社説も、目を覆いたくなるものだった。
http://www.asahi.com/paper/editorial20080613.html#Edit1
この点(注:安倍晋三の発言を受けてNHKが番組を改変した件)について最高裁判決は具体的に触れていない。期待権を認めないという結論を出した以上、改変理由を判断する必要はないということだろう。
(朝日新聞 2008年6月13日付社説より)
こんな他人事みたいな書き方をして、悔しくないのか、いや恥ずかしくないのか。かろうじて安倍晋三の名前を社説に明記したくらいで意地を見せたつもりでいるのか。
朝日に限らず、主要紙の社説は、編集の自由が認められた意義ばかり強調して、安倍晋三や中川昭一の発言を受けてNHKが番組を改変したことをことさらに軽視している。読売・日経・産経の保守系3紙は言うに及ばず(この3紙は安倍の名前さえ出していない)、毎日新聞社説も朝日の社説と五十歩百歩だ。朝日同様、安倍の名前は出しているが、
などと、いかにも腰の引けた表現だ。NHKが政治家の意向をそんたくして番組内容を変えることもあるのではないかと疑われてもやむを得ない。
今回も、いちばんまともだったのは東京新聞(中日新聞)の社説だ。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008061302000113.html
さらに重大なのはNHK幹部の政治との関係である。完成していた番組の内容を現場の抵抗を押し切って強引に変えたのは、安倍晋三内閣官房副長官(当時)など政治家の発言に配慮したからであると高裁判決が認定し、最高裁も覆してはいない。
番組改変問題の本質はここだ。市民団体に対し訴訟で強く主張した「編集の自由」を、政治家の前では主張しなかったのである。
最高裁も編集権の重要性を言いながら、高裁判決が「編集権の乱用または逸脱」と戒めた政治家への弱腰には触れていない。「NHK同様、政治家に遠慮した」と勘ぐられてもしかたあるまい。
NHKは、予算案承認の権限を握る国会議員、特に与党議員に毅然(きぜん)たる姿勢をとってこなかった。加えて、古森重隆経営委員長は特定政治家のパーティーで挨拶(あいさつ)するなど、政治との間に緊張感を維持すべき報道機関の責任者としての自覚がまったくない。
「報道の自由」の裏表使い分けをやめなければNHKに対する国民の信頼は回復しないだろう。
(東京新聞 2008年6月13日付社説より)
このくらいは書いてもらわなければ、ジャーナリズムの名が泣く。朝日や毎日の論説の劣化ぶりを見ていると、今後右翼政治家がますます増長して、「報道の自由」の名のもとにマスメディアをプロパガンダに悪用するようになるのではないかと恐れる。
ところで、NHKに番組改変の圧力をかけた安倍と中川(昭)は、このところ当ブログが標的にしている平沼赳夫と親しい政治家だ。その平沼が結成を考えている新党に、いの一番に参加すると予想されているのが城内実である。城内については、その歴史認識を指摘した下記のようなブログ記事もある。
http://d.hatena.ne.jp/hagakurekakugo/20071202/p1
おそらく城内も、今回の最高裁判決に、安倍晋三や中川昭一同様、高笑いしていることだろう。そもそも城内はもと安倍晋三の腹心といわれた政治家だ。
城内を支持しているブロガーらは、今回の最高裁判決はスルーするのか? かつて、「木村剛さんも共謀罪反対」などと、言論の自由のためなら新自由主義者も容認する記事を書いた人間が、同様にクリティカルな性格を持つ今回の最高裁判決に沈黙するのは、ダブルスタンダードではないのか? そういうのを「知的不誠実」というのではないのか?
いわゆる「リベ平」ブログは、どこまで覚悟を持って記事を書いているのか、はなはだ疑問に感じる今日この頃である。
[参考記事]
「きまぐれな日々」より
「安倍晋三らの圧力によるNHK番組改変問題関連資料」
(2007年2月3日、東京高裁の二審判決直後の記事)
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-244.html
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この種の事件が起きたからといって、いまどき「自己責任論」を振り回す人などほとんどいないだろうと思っていたのだが、2ちゃんねらーのようなネット右翼だけではなく、社民主義者を自称する人たちの間にまで自己責任論が蔓延しているのを知って、ちょっとショックを受けた。ネオリベにダマされている人はかくも多いのかと、暗澹たる気分になったのである。
日本をこんな国にしてしまったA級戦犯は、いうまでもなくコイズミである。コイズミ自身は何らの知性を持たない男だが、嗅覚というか動物的勘だけは人並み外れたものを持っている。私などは野球の長嶋茂雄を連想するのだが、それは私が大の巨人嫌いであるせいかもしれない。だが、大仁田厚が涙を流したあの郵政解散の時、すでに総選挙での勝利を確信していたというコイズミの喧嘩強さは、常人には真似できない。私はあの解散の時、これで自民党政権は終わりだと小躍りしたものだった。だがそうはならなかった。
コイズミの「刺客作戦」は血に飢えた国民の心をとらえ、日本人はコイズミを勝たせた。「抵抗勢力」を血祭りに上げることに、国民は、「格差社会」に対する不満のはけ口を見出した。その「格差社会」はコイズミが作り出したものであるにもかかわらず。
これは、21世紀初頭の日本最大の悲劇であり、あの総選挙でコイズミ自民党に反対する票を投じた私にとっては、あの選挙でコイズミを支持した人たちに責任を取ってもらいたい気持ちでいっぱいだ。岡山のプラットホーム突き落としも、秋葉原の通り魔殺人事件も、極言すれば、みなコイズミを支持した人たちが引き起こしたようなものだ、そう当ブログは主張する。あの選挙で自民党や公明党に投票した人たちの罪は、限りなく重い。
とはいえ、いつまでも3年前の悪夢の総選挙にこだわっていてもしかたない。昨年の参院選は、郵政総選挙の裏返しのような自民党の惨敗になり、衆参で勢力分布が全く異なる「ねじれ国会」になった。だが、これで自公政府の新自由主義路線に歯止めがかかったかというと、はなはだ疑問だ。
参議院選挙で民主党が大勝したあと、民主党が「国民の生活が第一」という路線を徹底できなかったのは、民主党が寄り合い所帯であって、福祉国家指向の人もいれば、前原誠司のように、自民党に移ったほうがよさそうな新自由主義者もいるからだ。民主党は、もともと自民党の田中角栄系列と社会党が合わさってできたような政党で、社民党というのは旧社会党の中で「9条護憲」に特化した人たちが「9条改憲」に容認的な民主党をよしとせず分かれた(というか本体に残った)政党だ。田中角栄は、いわゆる「1940年体制」がうまく機能していた時代の政治家で、田中の政治は結果的に富の再分配をもたらしたが、田中およびその系列の政治家は必ずしも福祉国家を目指していたわけではない。しかし、福田赳夫の系列(現在自民党を支配している清和会の流れ)と比較すると、はるかに社会党との相性が良いとはいえるだろう。その両者が合同して発足した民主党は、腰の定まらないふらふらした動きをするのが常なのだ。だが、政権交代が実現すると、いやでもその中心は民主党にならざるを得ない。
本当は、政権交代でできる新政権が福祉国家指向の政策をとるためには、リベラルが結集しなければならない。それには、自民党内で少数勢力となったリベラルの人たちを引き抜く形が一番自然だろう。ところが、現実は全然そうなっていない。
数日前、加藤紘一が森喜朗に謝罪し、「加藤の乱」から8年ぶりに手打ちが成立したと報じられた。
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20080610AT3S0902H09062008.html
きっかけは、佐藤優が「文藝春秋」5月号に書いた記事で、「加藤の乱」の当時、首相だった森喜朗が佐藤に「おれはもうダメかもしれないが、加藤政権になってもおれを支えるのと同じ気持ちで加藤を支えてくれ」と頭を下げたというエピソードを知った加藤が、森と和解する気になったのだという。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080611-00000062-san-pol
だが、これはあくまで表向きの話で、実際にはともにコイズミと緊張関係にある森喜朗と加藤紘一が、コイズミ・竹中「カイカク」路線の直系の後継者と見られる中川秀直らを牽制するために手を組んだものだろう。加藤は、超党派の勉強会を立ち上げたりして脱自民党を念頭に置いていたかに見えた時期があったが、民主党と平沼赳夫一派の接近を見て、そのタカ派傾向を強く批判するようになった。平沼赳夫一派が民主党にすり寄ってきたのに対して、小沢一郎や鳩山由紀夫らが色よい反応を示したものだから、リベラルの結集どころではなくなったのである。これだから、元自民党の政治家だとか、一度反乱に失敗して腰が引けてしまった政治家はだめなのだ。かつて加藤紘一を強く押しとどめた谷垣禎一は、いまや中曽根の直系である与謝野馨同様の財政再建論者となり、もはやリベラルとはいえないだろう。財政再建論者と「上げ潮路線」の対立など、不毛もいいところであり、両者とも再分配の強化など指向していない。特に「上げ潮路線」は竹中平蔵直伝の典型的な新自由主義政策だ。
以上は、実は6月9日のエントリ「リベラル・左派は右派の「反新自由主義」勢力と距離を置け」にいただいたkechackさんのコメントを受けて書いたものだ。kechackさんは、
とコメントされているのだが、それに対して観潮楼さんが、極端な保守主義を標榜する勢力を排除した上で、当面リベラルが反新自由主義保守と組むのは悪くないと思います。
(中略)一部の極端に偏狭な保守主義者を名前を上げても意味ないです。けっこうまともな保守主義者もいますから、そういう人達との共闘を少しは考えたらどうでしょうか?
とコメントされており、これが私の感覚に近い。数合わせのために極右の平沼赳夫などと手を組もうなどという軽挙妄動は、福祉国家指向の政策を実現させる上で百害あって一利なしだと思う。「まともな保守主義者」は旧宏池会の良識派あたりだと思いますが、正直具体的な名前が浮かびません。「ラーの会」なる超党派組織のメンバーあたりがヒントになりそうですが。
上記のエントリには、昨日たんぽぽさんからもコメントをいただいているが、そのコメント中にリンクされている「たんぽぽのなみだ?運営日誌」のエントリ「アインシュタインの予言(3)」をご参照いただければわかるように、平沼赳夫というのは、「物理学者のアルベルト・アインシュタインが、日本の天皇制を礼讃した」という事実無根のトンデモ(通称「アインシュタインの予言」)を信じている、とても知性の高い政治家だ。
政界が正常であれば、まともに相手にされるはずもない平沼赳夫などという極右トンデモ政治家が送ってくる秋波に反応してしまう民主党を見ていると、日本の政治がよくなる日はまだまだずっと先で、その間いかなる艱難辛苦が待ち受けているだろうと思うと、気が重くなる今日この頃なのである。
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http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/06/post_efdf.html
そして、「玄倉川の岸辺」のコメント欄も承認制になった。
私は、「極東ブログ」については、郵政総選挙の時にコイズミびいきの記事を載せていた印象があり、主義主張が合わないのであまり読んでいないが、超有名ブログでもあり、もちろんその当時から知っている。また、「玄倉川の岸辺」は最近「遅れてきた水伝騒動」問題でやりとりするようになったが、政治的にはやはり「小泉ファン」だそうだから、主義主張は合わない。しかし、やはり名の知れたブログであり、私がブログを始める前から存じ上げていた。「水伝騒動」の件で、たまにコメントすることがあり、投稿したコメントがブログにすぐ反映されていたことは、もちろん知っている。
その「玄倉川の岸辺」だけでなく、「極東ブログ」までコメント欄をつい最近まで完全オープンにしていたことは、私には驚きだ。というのは、当ブログに限らず、「リベラル・左派系」に分類されるブログには、スパムのコメントやトラックバックがあとを絶たず、当ブログを含む多くのブログがコメント欄やトラックバックを承認制にしているからだ。たまに、「左翼のブログはどこもかしこも管理人がコメントを検閲していて、言論の自由がない」などとほざいている馬鹿がいるが、スパムに悩まされるブログ運営者の身にもなってほしいものだ。一方で当ブログは、コメント欄の管理が放任主義だ、と指摘されることもある。右翼的なコメントであっても、よほどひどいものでない限りそのまま掲載しているし、コメントされる方同士の議論も黙認しているからだ。
‥‥そんなワケで(笑)、「極東ブログ」や「玄倉川の岸辺」がコメント欄を承認制に移行した件については、そんなの当然じゃん、という感想だ。私の感覚では、コメント欄は新聞や雑誌の投書欄のようなものであり、ただコメントのコメントを投稿することによって掲示板的にも使えるだけのことだ。ある時期から私は、コメント欄でコメントをされる方と議論するのは止めている。はてなに開設している「kojitakenの日記」では以前はコメント欄で議論をしていたが、昨年春に「博士の独り言」を批判した時にコメント欄をネット右翼に荒らされて以来、コメントをはてなユーザーに限定した。
当ブログのアクセス数は、同一IPアドレスからの重複アクセスをカウントする「トータルアクセス数」で、1日あたり2千件台から3千件台の日が大部分だ。1月の「水伝騒動」の時や、4月の映画「靖国」への稲田朋美らの圧力だとか山口2区の補選の時などのように話題が盛り上がった時には4千件を超えたこともあるが、通常はなかなかそこまでいかない。ユニークアクセス数は、ブログに表示している「はてなカウンタ」ではトータルアクセス数の7割強で、1日平均で2千件以上になるが、「新FC2アクセス解析」ではトータルアクセス数の6割弱となり、1日平均だと千数百件になる。ブログとしては比較的アクセス数は多いほうだろうが、「極東ブログ」のコメント欄にあったような、アクセス数数千から数万を「大規模運営ブログ」とする定義なら、ユニークアクセス数が1日平均千数百件の当ブログはそこまではいかないので、しばらく前から「中堅ブログ」を自称することにしている。
だが、この程度の規模でもブログの運営は結構たいへんなのだ。どうたいへんかは、実際にブログを開設して千数百人の読者を得てみればわかる。調べたい検索語を用いてネット検索をかけると、よく自分の書いた記事がひっかかるようになるのはうれしいものだが、反面あちこちで私の書いた記事を批判したり揶揄している例にもお目にかかる。誹謗中傷もされる。「水伝騒動」の時は、「連合赤軍」だの「解同」(部落解放同盟)だの「ソーカルト」(創価学会とカルトをかけた造語)だのと言われ放題だった。時にはブログのエントリでそういった誹謗中傷に対して反撃を試みてきたのは、読者の皆さまもよくご存知の通りだ。
‥‥そんなワケで、ブログ運営には時間がかかる。仕事をやりながらのブログだからこれは結構たいへんで、だから4月のようにテーマとしている話題が盛り上がった時は週休1日で頑張ったが、そうでない連休明け以降は週休3日のペースにしている。それでも、新規エントリを公開する日は朝の1時間以上をブログに割いている。とてもでないが、お寄せいただいたコメントにいちいち返事を差し上げる暇はないし、コメント欄まで目を通される読者の数も限られている。ブログ運営者としては、コストパフォーマンスも意識せざるを得ないのである。中には、管理人に返答を強要するコメンターの方もいるが、それはカンベンしてほしい。そういうコメントは承認しないか削除することにしている。
だが、お答えしたいと思うコメントをいただく場合は多々あり、それに対してなかなかお答えできないことは心苦しいことではある。実は本エントリで、昨日の記事 "リベラル・左派は右派の「反新自由主義」勢力と距離を置け" にいただいたコメントに対してお答えしようと思っていたのだが、時間が尽きてしまった。日を改めてお答えしたいと思う。
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http://www.asahi.com/politics/update/0608/SEB200806080002.html
自民、公明両党の公認、推薦候補は各選挙区で苦戦。改選前は27議席を占めた与党系は、定数の半数(24議席)に達しなかった。一方、改選前20議席だった野党系は順調に票を伸ばし、初めて公認候補を擁立した民主も議席を獲得した。
政党別の獲得議席は自民16、民主4、公明3、共産5、社民5、地域政党の沖縄社会大衆2、そうぞう1、諸派3で、無所属が9。無所属のうち与党の推薦は3人、野党の推薦が6人。
投票率は57.82%で、前回の58.72%を下回り、過去最低だった。
(asahi.com 2008年6月9日0時34分)
自民惨敗といっても、地方選の常で自民党の議席は他党より圧倒的に多く、引き続き第一党ではあるが、自公で過半数割れした理由として、上記朝日新聞だけではなく、たいていのメディアが後期高齢者医療制度施行の影響を挙げている。
昨日のフジテレビ「報道2001」でも後期高齢者医療制度の問題がまたまた取り上げられていた。番組はこれを「コイズミカイカクの負の遺産である」ととらえていて、反米保守の論客・西部邁(すすむ)に、郵政総選挙でコイズミ自民党を選んだ人たちが責任を取れ、と言っていたのには苦笑させられた。
3年前のあの選挙で、勝ち誇っていたコイズミ支持者の高揚を見ながら、「お前ら、あとでどうなっても知らんぞ」と独りごちたものだが、あの時自民党に投票した人も野党に投票した人も同じ目に遭うのが選挙の理不尽なところだ。
「報道2001」は番組の方針というところまではいかないのだろうが、西部や先日出演した平沼赳夫のような、右側からの反政府勢力の声を今後も取り上げていくのだろうか。昨日も大田弘子らを招いてコイズミ・竹中の流れをくむカイカク路線をひたすら応援している田原総一朗の「サンデープロジェクト」よりはマシな行き方といえるかもしれない。
だが、右側からの政府批判勢力と、「反新自由主義」という一点で妥協点を見出して共闘しようという一部「リベラル・左派」の人たちの意見には、私は同意できない。
たとえば、稲田朋美、八木秀次、渡部昇一の3人が著した『日本を弑(しい)する人々』なる物騒な題の新刊がある。私はまだ実物を目にしていないが、宣伝文句には
とある。つまり筆頭に構造改革批判を掲げていて、これは安倍晋三の人脈に属する「思想極右」の稲田朋美やその後見人たる渡部昇一が、「経済極右」のコイズミ・竹中路線に明確に別れを告げたというべきかもしれない。しかし稲田は、2005年の郵政総選挙で松宮勲(自民前職、現民主党員)に対する「刺客」として立候補して当選した「コイズミチルドレン」なのである。自らの過去を棚に上げて構造カイカク批判とはいい気なものだ。「グローバル資本主義、構造改革が日本を救う」「慰安婦非難決議に対する日本の弁明は無用」「差別に泣いている人たちのために人権擁護法を」「皇室のご負担軽減のために宮中祭祀の簡素化・廃止を」「映画『靖国』の上映中止事件は、表現の自由に対する制限だ」……彼らの言説を信じていいのか?
われらが祖国「日本」を殺し、息の根を止めようと狙う内外の確信犯、無自覚にも“善意”で日本を弑する結果を招こうとする人々を名指しで糺す。
稲田は以前「徴農制度を実施せよ」と主張して、毛沢東かポル・ポトみたいだと笑われたことがあるが、そんな稲田が今後平沼赳夫や城内実らに接近して反構造カイカクの主張を強めることはあり得るのだろうか? あるいは、コイズミの後継首相として大失敗した安倍晋三までもがそれに加わることはあり得るのだろうか?
当ブログは、「リベラル・左派」の反新自由主義は、彼ら極右の反新自由主義勢力とは距離を置くべきだと考えている。ドイツ・ナチス党の正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」というが、現在自民党を右から批判している民族主義者たちにはナチスと同じ匂いがするし、特にそれを強烈に感じさせるのが稲田朋美であり、平沼赳夫だ。万一安倍晋三が再び首相に返り咲くようなことがあったら、それは日本が戦争への道を突き進む時だろう。それだけは避けなければならない。
安倍晋三が尊敬する祖父・岸信介は、朝鮮で有事が生じた場合、アメリカが日本側と事前に協議せずに在日米軍基地を使用して攻撃ができるという密約を交わした。その文書が先日発見され、10日発売の「文藝春秋」7月号に全文が掲載されるそうだ。
岸信介の弟・佐藤栄作は、首相に就任した時この密約の存在を知って怒り、その破棄を求めていたことが昨年秋に報じられた。しかし、その佐藤自身が沖縄返還をめぐってアメリカと数々の密約を交わした。「西山事件」で暴かれたのはその氷山の一角に過ぎない。昨年には沖縄への核兵器持込の密約の存在が確定したが、政府は証拠が厳として存在するにもかかわらず密約を否定する鉄面皮な態度をとり続けている。当ブログは昨年10月10日付のエントリで「佐藤栄作のノーベル平和賞を剥奪せよ」と主張した。
安倍晋三の祖父や大叔父は、日本の政治家の中でも特に「密約」を好む人物だった。もちろん、政治、特に外交に関しては機密事項が多く、リアルタイムですべてガラス張りになどやっていては他国に食い物にされてしまう。しかし、岸や佐藤の密約は日本よりむしろアメリカの国益にかなっていたことが問題なのだ。そして、安倍晋三も先代のコイズミともども、極端な対米隷従政策をとった。アメリカの意に沿って、日本を新自由主義国家に作り変え、著しい格差拡大を招いた。
安倍晋三も、その盟友・平沼赳夫も、「コイズミチルドレン」として国政の場に登場した稲田朋美も、すべて要らない政治家だ。彼らが現在何を主張しているかだけで物事を判断してはならない。彼らがどういう経緯をたどって現在の主張をしているかを吟味しなければならない。
属人的議論を抜きにして政治を語ることなどできないのである。
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ブログ「薫のハムニダ日記」が、「今も最低だけどポストも最悪」という記事で、統一協会の機関紙「世界日報」の韓国版が報じた、安倍晋三が統一協会系の団体「天宙平和連合(UPF)」開催の「祖国郷土還元日本大会」に祝電を送った、という記事を翻訳したのだが、当ブログでもそれを紹介したものだ。
いや、当時の当ブログには読者は数十人しかいなかったから、紹介というのはおこがましい話で、私は「きっこの日記」が書いた、
という記述の情報源をネット検索で調べていて、「薫のハムニダ日記」に行き当たり、それを当時読者数わずか数十人のブログに書いただけのものだった。あの犯罪カルト教団、「世界統一協会」の合同結婚式に、ナナナナナント! 「内閣官房長官」の肩書きで祝電を贈ってたって言う事実だ!これは、先月、5月13日に、福岡県で行なわれたんだけど、「世界日報」の韓国語版の5月14日付の記事に、ちゃんと実名で書いてある。自分のやってるイカレタ新興宗教だけじゃ物足りずに、あの悪名高い「世界統一協会」にまで祝電を贈ってたなんて、こんなヤツが総理大臣になったら、マジでニポン沈没じゃん。
当時まだよそさまのブログにトラックバックを送ることさえしていなかったのだが、この記事がハムニダ薫さんの目にとまってコメントをいただき、それをきっかけに当ブログの読者数は飛躍的に増え、常時ユニークアクセスが1日あたり3桁に達することになった。この記事には、私より1日早くこの件をブログの記事にしていた、現在では「遅れてきた水伝騒動」で有名な「たんぽぽのなみだ?運営日誌」のたんぽぽさんから6月12日付でコメントをいただいている。さらに数日後には反安倍晋三のネットキャンペーンを呼びかけていた「カナダde日本語」の美爾依さんからもコメントをいただき、それをきっかけにして「AbEndキャンペーン」が始まった。
キャンペーンむなしく安倍は総理大臣になったが、そのあまりの無能さのため、大臣辞任者が続出し、果ては自殺した大臣まで出し、「消えた年金」問題でも評判を落としたあげく、参院選に惨敗して安倍内閣は1年で幕を閉じた。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とか「人の噂も七十五日」などといった諺もあるが、一昨年から昨年にかけて熱心に安倍晋三を批判していたブログの中には、安倍の辞任後、「水に落ちた犬を叩くのは好まない」と言って早々に安倍を批判するのを止めたり、「一度権力の座を追われた人間がどのように再起を図るのかを見たい」などと、あたかも安倍の復活を期待しているかのようにさえ読める記事を書くところまで現れた。最近、郵政民営化に反対して自民党を追われた平沼赳夫が新党を結成して民主党に接近する動きを見せているが、平沼は自身が極右であるのみならず、ほかならぬ安倍や麻生太郎、中川昭一ら自民党極右議員とともに、「HANAの会」構想をぶち上げ、それは「真・保守政策研究会」として発足した。つまり、安倍晋三に極めて近い人物だ。だが、小沢一郎や鳩山由紀夫がそんな人物と提携する構想を持っていることを批判するブログは少ない。「日本がアブナイ!」によく平沼を批判する記事が載るが、他のいわゆる「リベラル・左派系」の多くは、平沼の子分格の城内実を応援するいくつかの有力ブログに遠慮でもしているのか、平沼批判の声をあげようとしない。
安倍晋三と平沼赳夫では、経済政策ではゴリゴリの新自由主義者である安倍と、多少新自由主義からは距離を置く平沼(但し本質的には平沼も新自由主義者であると私は考えている)で違いはあるが、政治思想に関しては両者とも日本の政治家の中でももっとも「右」に位置する極右である。そして、「リベラル・左派系」のブログの多くは、経済問題が苦手で、安倍を批判する時にはその超タカ派的政策に批判の的を絞るのが常だった。だとしたら同様の政治思想を持っている平沼赳夫をも強く批判しなければ筋が通らない。だが、多くのブロガーはそうしない。これはいったいどういうことなのか。
そもそも、安倍内閣時代に成立した「改正教育基本法」、「教育改革関連三法案」、「国民投票法案」などは廃止されたわけでも何でもない。これらは、安倍内閣の「業績」として右翼論壇に高く評価されているものだ。こういう現実があるのに、「水に落ちた犬は叩かない」とか「安倍の再チャレンジを注視したい」などと言って安倍の悪行の追及を止めてしまい、安倍の盟友・平沼赳夫と民主党の提携構想にも異を唱えない。こんなていたらくで「リベラル・左派」のつもりでいるのだから呆れ返るほかない。彼らは、安倍晋三の唱える「戦後レジームからの脱却」に手を貸しているも同然だ。
今日の記事には、安倍の祖父・岸信介や大叔父の佐藤栄作が総理大臣在任中にアメリカと交わした密約にも言及して、この腐り切った一族の批判を行うつもりだったが、長くなったのでそれは次のエントリに回すことにする。とにかく、私は執念深くてねちっこい性格なので、今後とも安倍晋三の悪行は絶対に許さない。昨年後半から今年前半にかけて、岩国市長選などにおける民主党の失態などによって、安倍が現在も政治生命を永らえている現状は、私にとっては我慢ならないものなのである。
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とのことだ。米民主党の大統領候補指名争いは3日、オバマ上院議員が指名に必要な代議員数を獲得し、対立候補のクリントン上院議員を退けて勝利した。米国の主要政党の代表として黒人候補が大統領選に臨むのは史上初めて。
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-32090620080604
バラク・オバマ氏がはじめて民主党の党大会で「黒人のアメリカや白人のアメリカ、ラティーノのアメリカ、アジア系のアメリカがあるわけではなく、ただアメリカ合衆国があるだけだ」と演説して脚光を浴びたのは2004年のことだ。ブログ 「Beyond Words」 がこの時の演説を和訳している(下記URL)ので、興味のおありの方は参照されたい。
http://d.hatena.ne.jp/krhghs/20080421/p1
この演説から4年、当ブログが昨年2月7日のエントリ "次期米大統領は初の女性か黒人か?" で初めてオバマ氏を取り上げてから1年4か月、ついにオバマ氏が民主党候補者になったのだが、昨年記事を書いたときにはここまでたどり着く可能性は2割くらいかなと思っていた。正直、ヒラリー・クリントン氏に勝つとは予想していなかったのである。だが、米民主党員はクリントンと比較してもよりリベラルなオバマを選んだ。それだけアメリカを変えなければならないという思いが強いせいなのだろうと思う。
長引いた選挙戦が災いして、今年初め頃はオバマ、クリントンどちらが勝とうとも大統領選は民主党が圧倒的に有利と見られていた状況が変わり、現段階では五分五分とされている。感情的になったクリントン支持者の中には、「大統領選では共和党のマケイン氏に投票する」と公言している人たちもいるし、仮にクリントン氏が勝っていたら、オバマ支持者に同様のことを口にする人たちが出てきただろう。しかし、民主党候補が確定した今後は、再びオバマ氏がマケイン氏との差を広げていくのではないかと私は予想している。
そうなると、またぞろ日本のマスコミが「オバマ発の恐慌」とか言い出すのだろう。自民党政権は、特にコイズミ以降米ブッシュ政権の言いなりというより、ブッシュの狂ったような戦争路線を利用して、日本を「戦争のできる国」にするための既成事実を着々と積み重ねていった。オバマが勝ってアメリカが政策を転換した場合でも、自公政府がマスコミなども利用して事実上煽ってきた反中反韓の流れは、一朝一夕には止められないだろうから、日本は国際的に孤立する恐れも出てくる。さんざん北朝鮮を見下してきたこの国が、北朝鮮と同じような立場に追い込まれる恐れもある。
小沢民主党も、平沼赳夫ごときとの連携を模索しているようではどうしようもない。何度も何度も書くが、平沼が5月11日のフジテレビ「報道2001」で吼えた反中プロパガンダは、実にひどかった。特に、パンダの「ランラン」(笑)が謀殺されたという説を紹介するにいたっては笑止千万だった。
つい最近になって知ったのだが、この下品なパンダ謀殺説の言いだしっぺは勝谷誠彦らしい。勝谷が5月7日のTBSラジオでパンダ謀殺説を流し、5月9日には産経新聞が藤原正彦の「リンリンの死んだタイミングが良すぎることが不可解だ」というコメントを報じ、5月11日に平沼赳夫がフジテレビでしゃべったという流れだ。勝谷誠彦、藤原正彦、平沼赳夫の三人を、当ブログは「バカのトライアングル」と名づけたい。こんな下品な人たちが国士気取りだなんて噴飯ものだし、そんなやつとの連携を検討している民主党も大バカだと思う。
当ブログの平沼批判には賛同されない読者が多いのだが、反中感情を煽り、ゴリゴリの改憲指向にして復古主義者である平沼一派と民主党の連携は、当ブログは間違っても支持しない。私にとっては、譲ってはいけない一線を完全に超えるものだ。小沢・平沼連立政権では日本は変われない。平沼が政権に加わるくらいなら、現在の福田政権が続いたほうがまだマシだと思う今日この頃なのである。
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それは、よそさまのブログでの記事やコメントに対して批判的な意見を持った人が、当ブログ管理人に意見を求めてくる、というか批判を求めてくるコメントだ。
最近では、「カナダde日本語」 や 「玄倉川の岸辺」 の記事やコメント欄でのやりとりについてそのような要求を受けたが、前者については実にくだらないコメントだったのでこれを承認せず削除した。ところが、呆れたことに当該コメンターは当ブログの論敵に当たるブログに当ブログ及び「カナダde日本語」にコメントしたことを報告し、悪口を言っていた。そのブログであっても当ブログであってもコメント欄まで目を通す読者数はきわめて少ないと思う。言いたいことがあってそれを世に発信したいんだったら、ブログを開設して堂々と他ブログを批判するなりすれば良いと思うのだろうが、なぜそうしないのだろうか。実に不思議だ。
当ブログがコメント欄をコメンターとの議論の場とはしないのも、エントリ本文の読者と比較して、コメント欄の読者数がきわめて少ないからだ。それに、立場の異なる論者との論争は、議論が平行線をたどることが多い。それよりは、お互いがそれぞれのブログで別々の主張をして、読者に比較対照してもらえば良いのではないかと考えている。
「玄倉川の岸辺」のコメント欄でのやり取りについて批判を求められた件については、5月29日のエントリ "十年や二十年では変わらないコミュニケーションのあり方" のコメント欄にやりとりが残っている(下記URL以下)。
http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-645.html#comment3479
このコメント欄では例外的に私が答えたのだが、質問者が最後にはわけのわからないことを書くに至った、コメント禁止を言い渡した。その後、質問者が玄倉川さんと私を取り違えてしまっていたと謝罪してきたので、コメント禁止は解除したいと思うが、ブロガーとの議論を第三者のブログのコメント欄で展開しようというのも私には理解不能だ。やはりブログを開設して堂々と意見を主張されることをおすすめしたい。
最後に、これまでにも何度か書いた「上から目線」批判についてだが、そもそも「批判」とは、広辞苑(第5版)には
と書かれている。人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。
「批判」を行うためには俯瞰と細部の検証の二つが必要なので、必然的に「上から視線」になる。つまり、ある言説を「上から目線」だと批判する言説は、それ自体が「上から目線」になっていて、批判が自己矛盾しているのだ。
結論は、「上から目線」大いに結構ということで、以前からもそうだったが、今後も大手を振って「上から目線」の物言いを続けていこうと思う今日この頃だ(笑)。
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三度目か四度目かわからない再燃をした「遅れてきた水伝」騒動は、そもそもの最初から擬似科学批判が論点になってはいなかったのだが、最近の論戦では、誰もその証拠を示し得ていない「謝罪要求」をめぐる行き違いや、議論の仕方についての意見の相違、さらにはブログでの意見発信を「私闘」とした意見をめぐる論争など、メタな議論になってきた。
これは私がずっと昔に目にしたことのある論争(参加はしなかった)とよく似ていて、その時の経験からいうと、この段階にくると意見は出尽くしており、あとは最終的な合意に至らないまま、各グループがそれぞれの結論を得て、議論は下火になっていくはずだ。
徒労感が残るが、一度はこういう段階を経なければならなかったのだと思う。ひとことだけ最後っ屁をかますと、「共感」の強要はポピュリズムと強い親和性があり、それは最終的にはファシズムに向かう危険性を持っているという私の以前からの持論への確信は、ますます強まった。
そうこうしているうちに、このところ日曜日の政治番組では田原総一朗が自民党の「カイカク派」のプロパガンダに余念がない。「サンプロ」では先週は渡辺喜美、今週は中川秀直の宣伝をやっていた。
かねてからコイズミの応援団長を務めている田原は、「ポスト福田」にコイズミ?竹中のカイカク路線を持ってきたくて仕方がないようだ。自民党の与謝野・谷垣らの「増税派」と中川らの「上げ潮派」は、対立しているように見えるが、新自由主義陣営内の路線闘争に過ぎない。私はどちらにも反対だ。昨年11月25日のエントリに書いたように、現実の統計値が「上げ潮路線」の破綻を示している。それなのに、田原は中川秀直をテレビでしゃべらせ続け、田原がそれに相槌を打つことによって中川の宣伝をしている。
この「サンプロ」や同じテレビ朝日の「報道ステーション」によく登場するのが、朝日新聞編集委員の星浩なのだが、テレビで見る限り彼も「カイカク」に理解を示す人物に見える。そうでなくて社会保障を重視する言い方をすることもあって、主張の全貌がはっきりしないのだが、少なくともコイズミ以来の「カイカク」の流れを強く押しとどめようとする人物には見えない。
ところで、同じ昨日のテレビを見ていると、岸井成格が、公務員制度改革法案が衆院を通過したことによって、このところ支持率の低下が言われることの多い福田政権が危機を脱したという見方を示していた。どうせ永田町の政治力学によるものなのだろうが、正直言って当ブログは福田内閣に対するスタンスは、必ずしもアンチで固まっているわけではない。
支持か不支持かというと、もちろん強く不支持なのだが、前任者の安倍晋三だとか、「次」を狙っている麻生太郎なんかに比べたら、福田康夫ははるかにましだ。
たとえば、クラスター爆弾の禁止・全廃を目指しダブリンで開かれていた軍縮交渉「オスロ・プロセス」の会議で、即時全面禁止条約案が全会一致で採択されたが、これまで全面禁止に難色を示してきた日本は、福田首相の政治判断で条約案への同意を決めたと報じられている。
これが安倍晋三や麻生太郎だったらどうだったか。思い出されるのは、安倍が閣僚に勇ましいタカ派発言をさせるに任せていたことだ。現在の内閣支持率では、福田首相は解散総選挙などをすぐにするはずがないし、麻生が福田に代わって首相になったら、支持率は現内閣より確実に上がるだろう。そうなるのがわかっているから、福田内閣を倒せ、オー!などと雄叫びをあげる気にはあまりならない。
それよりも、平沼赳夫あたりの動きが気になるのだ。リベラル・左派系とされるブログの中には、郵政民営化法案に反対して自民党を追われ、選挙にも落選した城内実を推すところが多いが、城内は平沼新党が結成されたら、いの一番に参加することは間違いない。果たして「民主・平沼連立政権」で良いのか。それは本当に国民生活を良くしてくれるのか。現自公政権の新自由主義施策の転換にはたいして手がつかず、平沼の主張が以前の小沢一郎が持っていたタカ派傾向を再び刺激して、外交・防衛政策で右寄りに舵を切るだけではないのか。この疑念はどうしても拭えない。
安倍政権のようにエキセントリックで突っ込みどころ満載の政権なら、それを攻撃するブログ記事も書きやすかった。だが、現在はそういう状況ではない。マスコミの誘導から距離を置いて考えた上で書いていく必要がある。だが、正直なところ「水伝」騒動にかまけていたこともあって、考察が十分できていない。だから、今月も先月に続いて休みをはさみながら試行錯誤しつつのブログ更新になっていくと思う。
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