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きまぐれな日々

 やっとこのブログを更新する。一度中3週間をやってしまうとそれがクセになるというわけではなく、年々ひどくなる神経疲れのせいだ。このブログや『kojitakenの日記』について、民進党を支持しろと強要する人とか、あんなことばかり書くな、もっと書くことはたくさんあるだろなどとちょっかいを入れてくる人たちがいるが、私の言いたいことはただ一つ。あんた自身がブログを開設して記事を書け。それだけだ。

 上記2人のうち前者の人間は、この間「私(コメンテーター氏)にどうしてほしいんだ」という意味のことを(『kojitakenの日記』の方にだが)書いてきたけれど、私が要求したいのは「お前の意見を私に押しつけてくれるな」というたったそれだけだ。彼らについては、今後のコメントによってはコメント禁止処分にさせていただく可能性がある。私のコメント禁止処分の基準の一つとして、議論に何の足しにもならないことが挙げられる。前記2人のコメンターは既にこの条件を満たしているが、基準はこれだけではないので今のところまだコメント禁止処分はとっていない(もちろん前述の通り、今後はこの限りではない)。

 そもそも、意見の合わない人間(しかも自他ともに狷介と認める私のような人間)に自分の意見を押しつけるより、ブログを開設して自分の意見を発信する方がよほど簡単ではないかと私は思うのだが、なぜ他人を自分の思う通りに動かしたいのだろうか。自分を何様だと思っているんだ、と、その身勝手さに呆れ返るばかりだ。書くべきことはあれもある、これもあるというのなら、自分のブログに書けば良いのである。それが人々の心を捉える内容なら、このブログのような日に300件程度(更新する日にはそれよりは少しばかり多くなるが)しかアクセス数のないブログの比ではない、多くのアクセス数を獲得できるはずだ。

 前振りは以上。今回は来年早々にも予想される衆院選で、野党は何を主張すべきかというのがテーマ。

 このブログのコメント常連である杉山真大さんがご推奨の、松尾匡著『この経済政策が民主主義を救う - 安倍政権に勝てる対案』(大月書店,2016)を一昨日から昨日にかけてやっと読んだ。買ってから半年ほど経つと思う。同じ日に買った『スティグリッツ教授の「新しい世界経済」の教科書』(徳間書店,2016)とともに「積ん読」になっていた。本は月に9冊か10冊のペースで読むが(松尾氏の本が今年91冊目に読み終えた本)、今年はあまり、というかほとんど経済の本を読まなかった。関心の中心が戦争に向いていたためだ。あと小説やらエッセイを読むことが多く、先週からこの3連休にかけて、松本清張の小説2冊と村上春樹の小説とエッセイ各1冊を読み終えた。そういうトレンドだったのが、急に「積ん読」にしていた松尾氏の本を読む気になったのは、『kojitakenの日記』に「新自由主義や『小さな政府』の元凶としての『保守本流』池田勇人」と題した記事(左記に加えて、続編の記事が2件ある)を書いたのがきっかけだ。そのまたきっかけは、リンク先の記事に書いた通り、井手英策・佐藤優・前原誠司の3人の共著『分断社会ニッポン』(朝日新書,2016)に書かれている、井手英策による池田勇人批判だった。

 周知のように、現在、田中角栄が大変なブームだ。石原慎太郎がブームに便乗して『天才』なる「小説」(本屋でペラペラと頁をめくってみたが、おそろしく内容がスカスカであるように思われた)を書いて今年前半の「ベストセラー」とやらになったらしい。その角栄ブームが安倍政権の高支持率の追い風になっていると指摘したのはさとうしゅういち氏の『広島瀬戸内新聞ニュース』だった。その指摘に最初に接した時、田中角栄と安倍晋三では方向性が全く違うじゃないかと思ったが、よくよく考えてみると、確かに追い風になっている。それは、たとえば緊縮財政志向のきわめて強い土井丈朗(慶応大経済学部教授)が「田中角栄を想起させる安倍首相の『財政出動』 『日本列島改造論』が遺した禍根を思い出せ」(東洋経済オンライン,2016年7月25日)なる文章を書いていることからもわかる。悪名高い新自由主義の学者である土井丈朗は、安倍政権の積極財政政策を田中角栄のそれと比較して批判している。世間の人々が田中角栄時代の古き良き時代の自民党政治を懐かしむことが、土井丈朗に代表されるネオリベ人士を切歯扼腕させている。

 そんなところに井手英策の池田勇人批判を目にしたものだから、「保守本流」の経済政策を批判しようとの狙いで書いたのが、『kojitakenの日記』の記事だ。

 それとは別に、安倍政権の経済政策を直接批判する必要がある。但し、第1次安倍内閣の時には威力を発揮した、新自由主義政策に対する批判は、現在では十分に有効でないことに留意する必要がある。実は、「コイズミカイカク」に親和的な「ジャーナリスト」(括弧付き)であると思われる元朝日新聞記者・現TBS『NEWS23』アンカーの星浩は、2006年、つまり第1次安倍内閣時代の年末の朝日新聞記者による鼎談で、安倍晋三の本音は「反小泉」だろうと看破している。当時、いつも冴えない記事ばかり書く星にしては鋭い指摘だと思ったが、当時の安倍には「小泉純一郎の後継者」の制約が重かった。たとえば、小泉の新自由主義政策を継承して「ホワイトカラー・エグゼンプション」を打ち出した途端に、マスコミや世論の強い批判を浴びていきなり内閣支持率が急降下したことがある(もっとも安倍は今でもこの政策を全く諦めていないが)。それは2006年の11月頃のことだった。同じ新自由主義政策でも、小泉がやると拍手喝采され、安倍がやると批判される。そういう風潮が当時はあった。安倍内閣の支持率は面白いように急降下を続け、翌2007年の参院選に自民党は惨敗し、安倍は退陣に追い込まれた。当時、「安倍に新自由主義という尻尾がついていたことは、安倍を批判する側としてはラッキーだった」と論評した方がおられて、私はその意見に同感だった。安倍は国家主義ではなく新自由主義で躓いた。あの危険な国家主義が、それへの直接的な批判ではなく、安倍があまり関心を持っていなかったであろう経済政策でこけたことは、反安倍の側にとっては僥倖以外の何物でもなかった。

 その失敗を繰り返すまいとして、第2次安倍内閣発足とともに安倍政権が打ち出したのが、「第一の矢」である「大胆な金融緩和」、「第二の矢」である「機動的な財政政策」、「第三の矢」である「民間投資を喚起する成長戦略」だった(現在はこの中身は変わっている。上記は第2次安倍内閣発足当時のもの)。私がその著書を「積ん読」にしているジョセフ・スティグリッツやポール・クルーグマン、アマルティア・センら世界のリベラル派の経済学者が手放しで支持しているのはこれらのうち「第一の矢」の金融緩和だけであって、「第二の矢」の積極財政は、政府支出の使い道が問題であって、もっと格差縮小や教育に重点を置くべきとの意見が多く、「第三の矢」の成長戦略、これは具体的には規制緩和や法人税減税などを指すのだが、これらの新自由主義政策はむしろ有害であると学者たちは言っている、というのが松尾氏の指摘だ。

 実はこのあたりは従来から聞きかじっていたことと同じで、全く意外感はなかった。心強かったのは、松尾氏が「『アベノミクス』と言うな!」と書いていることだ(226頁)。私もこのことは2013年当時から言い続けている。引用やこの用語自体に対する批判を別にして私がこの言葉を使ったのは、第2次安倍内閣発足直後だけだ(もっとも、この制約を自らに課す前に、その言葉を使ったのみならず記事のタイトルにしてしまった痛恨の記事がこのブログに1件あるはずだが)。松尾氏は、「安倍政権に反対する者までが、安倍さんと一緒になって『アベノミクス』という呼び方を使っているのは、危険なことだと思います」(226頁)と書いている。その理由は、「いざ景気がよくなったときに安倍さんの手柄にされる」(同)からであり、「雇用流動化などの『第三の矢』の政策は、景気の足を引っ張ることしかしていないのに、『アベノミクス』などと呼んでいっしょくたにすると、この『第三の矢』のおかげで景気がよくなったと受け取られてしまいます」(227頁)とする。この最後の文章は非常に説得的で、安倍批判側が「アベノミクス」という言葉を使うことがいかに危険かを改めて思い知らされる。そして手前味噌だが、第2次安倍内閣発足からさほど間のない時期から「アベノミクス」という言葉を使うなと主張し続けてきたことはやはり正しかったと思った。これを言うと反対されることが多いのだが、私は、浜矩子が安倍政権の経済政策を「アホノミクス」と呼んでいることもまた、安倍政権の経済政策の宣伝以外の何物でもないと考えている。

 松尾氏は、スペインのポデモスもイギリス労働党のジェレミー・コービンも大胆な金融緩和を主張し、アメリカ民主党のバーニー・サンダース(残念ながらヒラリー・クリントンに負けてしまったけれども)は大規模な財政支出を公約した、それなのに…と書くが、その意味でどうしようもないのは、先の民進党代表選で圧勝した蓮舫が、3人の候補(いずれも民進党内保守派だ)のうちもっとも緊縮財政志向の強い政治家であり、しかもあろうことか幹事長に野田佳彦を選んでしまったことだろう。野田の経済政策は、安倍晋三と比較しても経済軸上の「右」側に位置する。この状態では、2006〜07年にかけて威力を発揮した、安倍政権の新自由主義的経済政策への批判は効果を持たないどころか、ブーメランとなって民進党を直撃する。安倍政権より緊縮志向が圧倒的に強い野田の経済政策では、民進党の票は、いくら「野党共闘」に助けられたところで自民党候補に勝つほどには伸びないだろう。その意味で、野田を幹事長に据えた蓮舫の人事は「敗着」になりかねない大失敗だったと言わざるを得ない。

 加えて、全く好ましくないと私が思うのは、「野党共闘」(これは次の衆院選でも行われるだろう。民進党は他党の助けを借りずに候補を当選させられるだけの力を既に失っているからだ)が進んで以来、民進党を批判しようとすると、「民進党批判をして何になる。安倍晋三(安倍政権)や自民党を助けるだけだ」と言う人間が現れて、批判が封じられてしまう風潮が出始めていることだ。民進党に対する批判者を「逆張り冷笑系」などと決めつける、この記事の前振りの部分で言及したコメンテーターのような人間は、そういう風潮に乗って現れたと私はみている。

 ついでに、近々自らの属する政党の名前を変更するらしい小沢一郎絡みの話をしておくと、松尾匡氏は「(鳩山政権時代の)民主党政権は、もともと『事業仕分け』に見られるような緊縮志向があって、リーマン恐慌後のですけど、それでも当初は、高校授業料の無償化や子ども手当など、人々の暮らしのためにお金を使う姿勢を見せていたからこそ、選挙に勝てたのです」(75頁)と言い、それが財源の問題や(菅直人が言い出して野田佳彦が三党合意にこぎ着けた)消費税増税などによって人々の期待を裏切ったと指摘したあと、ところが、「日本未来の党」なり「緑の党」なりといったその後の対案は、人々の望みとは逆に、おカネの使い方をつつましくする志向をますますおしすすめてしまい、人々から見放されてしまったというわけです。そしてその行き着く先を演じたのが、(2014年の東京都知事選で惨敗した)細川・小泉コンビだったと言えるでしょう」(75-76頁)と批判している。妥当そのものの批判だと私は思った。「日本未来の党」を立ち上げる少し前の2012年夏頃まで、小沢一郎の口癖は「私の考えは橋下市長と同じだ」というものだった。それ以前の2010年頃には名古屋市長の河村たかしが立ち上げた「減税日本」とつるんでいたし、小沢一郎は一貫した新自由主義政治家だったと総括できる。わずかに菅直人や野田佳彦らが走った消費税増税路線に反対しただけの差でしかない(もっとも2006年頃までの小沢一郎は強硬な消費税率引き上げ論者だった=当時も日本経済は全然良くなかったにもかかわらず)。小沢の金看板かとも思われた「国民の生活が第一」さえ小沢はいとも簡単に捨て、ついに保守の支持層をトリモロスべく、党名を「自由党」に変更するらしい。

 結局、小沢一郎にせよ菅直人にせよ野田佳彦にせよ、民主党(現民進党)とは「ムダの削減」という掛け声に象徴される緊縮志向の政党であり、それが人々に夢を与えた高校無償化や(稲田朋美が防衛費に振り替えてしまえと暴言を吐いた)子ども手当といった財政支出を必要とする政策と齟齬を来たし(そのギャップは当初「埋蔵金」によって賄われるとの触れ込みだった)、その結果崩壊したといえる。要するに民主党政権は明らかな経済失政を行った。

 ところが、それが総括されるどころか、3代の民主党総理大臣の中でももっとも緊縮財政志向の強かった野田佳彦が民進党幹事長に返り咲き、「野党共闘」が行われているばかりに、そんな民進党に対する批判が半ば封じられたような状態になっている。

 こんな馬鹿な話があって良いはずがない。野党第一党がこんなていたらくであっては、次の衆院選にはおぞましい結果が待ち受けているとしか私には思えない。「リベラル・左派」の一部に見られる民進党批判を封じるような言説は百害あって一利なしである。そのような批判封じこそ、安倍晋三への何よりも強力な援軍にほかならない。政党に属しているわけでもなく、自由に発言できるはずの一般人同士が言いたいことを言えなくするような風潮に、私は強く反発する。

 民進党が今のままでは、安倍晋三の天下は当分続くという以外の予想はできない。その民進党が蓮舫代表を選び、蓮舫が野田佳彦を幹事長に任命してしまったために、事態はますます悪くなった。

 松尾匡氏が提言するのは、野党は大規模な金融緩和でつくりだしたお金を、安倍政権のような旧来型の公共事業ではなく、福祉・医療などに積極的に使え、規制緩和などの新自由主義的経済政策である旧「第三の矢」の成長戦略は不要、消費増税や法人税減税はやるな、というものだ。これは、経済学の世界における松尾氏の立場(数理マルクス経済学だっけ?)はともかく、オーソドックスそのもののリベラル派の主張だと思うが、民進党だの朝日新聞だのの主張とは全く違う。朝日新聞は何かと言えば消費増税をやれと言い、財政規律ガー、と言って金融緩和を目の敵にして、(ネオリベ政策そのもののである)「第三の矢」が欠けている、等の救い難い主張を繰り返す。その朝日が2011〜12年当時に熱心に応援していたのが野田佳彦だ(朝日の幹部記者では、特に星浩あたりが熱心だったと記憶する)。野田佳彦は大平正芳を尊敬していると言うし、朝日新聞記者の「保守本流びいき」は昔からの伝統だ。だが、「保守本流」の悪い面、つまり昔からの「小さな政府」志向が、それを継承する今の日本の「リベラル保守」だか「保守リベラル」だか知らないが、そういう政治勢力の中で(好ましくない方向への)ガラパゴス的な進化を遂げてしまい、その結果「リベラル」が小泉構造改革を応援したり、今で言えば小池百合子に熱心に肩入れしたりしてしまっている(例えば、「国民の生活が第一は人づくりにあり」と題するブログは、このところ「小池都知事誕生は政権交代と同じ」と連呼している。「リベラル」のうち小沢派に属する人たちの新自由主義志向の強さをよく表している)。その弊害の塊が民進党であり、近く自由党に党名を変更するという生活の党と山本太郎となかまたちであるというのが私の認識だ。

 今となっては民進党等を変えることはもはや難しいかも知れないが、それでも言うべきことを言っておかなければならないと思って長い駄文を綴った。
 昨日(2/15)、租税回避地(タックス・ヘイブン)に国籍地を持つ有名人として、モナコ国籍を取得した元プロサッカー選手の中田英寿(とプロテニス選手のクルム伊達公子)の例を挙げた記事を『kojitakenの日記』に書いた。さらにその関連記事を書いたら、そちらがはてなの「ホッテントリ」になった。それは、2010年に書かれた中田英寿の「節税」に関するブログ記事を引用・紹介しただけの記事なのだが、私はその記事に「中田英寿と『永遠の旅人』と租税逃れと」というタイトルをつけた。タイトルのせいかどうかわからないが、アクセス数が集中する記事になった。

 私は、自ら書いた記事についた「はてなブックマーク」のコメントは原則として読まない。だが、コメント欄に投稿された文章は、それがいかなネトウヨや「小沢信者」の手になるコメントだろうが読む。「はてブ」に何を書いても私には伝わらない(もちろん例外はある)。それは、もうほとんど「はてブ」(はてなブックマーク)がつかなくなったこのブログの記事についてもいえる。だから、私に読んでほしいコメントのある人は、「はてブ」ではなくブログのコメント欄に書いてほしい。

 中田英寿個人に関しては、私は特に悪感情は持っていない。ただ、とかく「違う世界の話」として人々の関心が薄いと思われる税制やタックスヘイブンについて、現にそれを利用している有名人である中田英寿(やクルム伊達公子)の実名をあげて、世の人々の関心を多少なりとも喚起したいという意図はあった。

 それにしても「ピケティ・ブーム」で呆れるのは、経済学に関係する人たちの「我田引水」ぶりだ。日本の経済学関連の人たちでいうと、例の安倍晋三の名前を冠した「経済学」(?)の是非に関して、リフレや金融緩和を是としない人たちも、はたまた金融政策さえやっておけば税制や財政政策などどうでも良いと言わんばかりの人たちも、みんながみんな「ピケティの言っていることは我々と同じだ(あるいは『矛盾しない』)あいつらが言っていることは間違いだ」と言って「我田引水」に走る。ピケティが何を言おうが私は私、という気骨のある人がなぜかくも少ないのかと愕然とする。

 「トリクルダウン」や「××ノミクス」に関する質問は、ピケティは来日して(来日する前から)何度となく浴びせかけられて、もう聞きたくもないとうんざりしたのではないか。私が確信しているのは、ピケティは何も金融政策を否定するものではないが、かといって財政政策や税制よりも金融政策を偏重する安倍政権の経済政策も是とはしないだろうということだ。実際ピケティはそういうことを語っている。

 それならそれでいいじゃん。なんでわざわざ「ピケティ氏の理論を都合よく“編集”した言説にはご注意を」などと言って、「ピケティの言い分は俺と違わないんだ」と強弁したがるのか、私にはさっぱり理解できない。「彼は彼、俺は俺」とどうして言えないのか。

 一方で、「経済学者」たちは、われわれ素人に対してバカ高い障壁を築く。いや、素人に対してだけではない。「経済学者」同士で「お前はマクロ経済学を理解していない」などとなじり合いをしている。そして両者の主張は正反対だったりする。部外者から見ると、彼らはいったい何をやっているのかと思ってしまう。

 このあたりは正否が自然現象や実験事実によって実証される理系の世界とは全然違う。工業技術であれば製品化の可能性がないと判断されると開発は中止される。自然科学のアカデミズムについて私は門外漢だが、昨年大きな問題になった小保方晴子らによる「STAP細胞」は、最終的に「再現」できなかった(一度も実現できなかったのではないかと疑われるが)ことによって成果が全否定されたといえるだろう。「STAP細胞」や韓国の黄禹錫による「ヒト胚性幹細胞捏造事件」(2005年)のような再生医療関係だけではなく、物理学でも2002年に捏造が発覚した、ヤン・ヘンドリック・シェーンの「有機物の高温超伝導」のような事例があった。

 それに対し、経済学では、現象がモデルに合っているかどうかを検証することが難しいせいかもしれないが、理論(仮説)に現実が合致しなくても、それが仮説が間違っていたせいだと認めたがらない傾向が強すぎるように思う。そして、経済学の場合は特に時の政治権力と結びつく傾向が強いせいか、政権や強者(大企業や富裕層など)に都合の良い理論が受け入れられやすいようにも見受けられる。

 かくして、経済学者に対する不信感が強まる一方の今日この頃なのである。