今回は、平日の昼間だったので、テキストベースの情報を追うことしかできず、ストレスがたまった。特に、日本は小刻みに加点するものの、「なおも続くチャンス」を逃し続け、その間に先発の岩隈久志が同点ホームランを浴びたり、2点のリードをもらいながら1点差に追い上げられるなど、決して良い流れではなかった。リアルで映像を見ていなかったのでなんともいえないのだが、岩隈は7回84球を投げて1失点のところで交代し、8回をダルビッシュ、9回を藤川球児という継投かなと思っていたので、8回も岩隈が続投すると知って、いやな予感がした。そして、リードを1点に詰められた9回にダルビッシュが登板したと知って、なおいやな予感がした。これらの予感はことごとく当たり、ダルビッシュは打たれて、土壇場で試合は延長戦にもつれ込んだ。
これは、日本が勝つとしたらイチローが決めるしかないなと思った。そして、10回表にチャンスでイチローに打順が回った時、ここで決めなければ日本は負けると思った。敬遠されたらいやだなとも思ったが、韓国は勝負を挑んできた。追い込まれたあとファウルで粘っていると知って、ああ、これは打てるなと思った。そしてその通り、イチローは決勝となる2点タイムリーを放った。
原辰徳監督は、松坂、ダルビッシュ、岩隈の先発三本柱にこだわったようだ。原が巨人に入団した頃、江川卓、西本聖、定岡正二の先発三本柱がしっかりしていた。特に江川と西本はリーグを代表する好投手で、完投が当たり前だった。故藤田元司監督は、昔の名投手だったから、先発完投へのこだわりが強かったのだろう。現在の巨人には、そこまでの能力を持った投手はいないので、どうしても継投に頼りがちだが、先発投手を球数制限ぎりぎりまで引っ張るのが、原のイメージ通りの采配なのかもしれない。
だが、岩隈の続投も、岩隈を継いだ杉内が後続を断ったのに9回にダルビッシュを救援に送ったのも、ともに原の采配ミスだと思う。そして、その采配ミスをイチローが救った形だ。
私は、原辰徳は決して悪い監督だとは思わない。巨人の前監督・堀内恒夫は本当に無能な監督で、アンチ巨人の私には大歓迎だったのだが、原は堀内よりははるかにましな監督だ。王貞治よりも上かもしれない。前回のWBCでは、メキシコがアメリカを破る番狂わせがなければ、日本は2次予選で敗退していた。王は、それまでも短期決戦に弱く、日本シリーズを制した2度(1999年と2003年)も、いずれも短期決戦最弱男の星野仙一(一度も勝ったことがない)が相手だった。王は、メキシコに助けられたり星野に助けられたりした運の良い監督だったと思う。今回のWBCにおける日本チーム(平沼赳夫を連想させるチームの愛称は私は用いたくない)は、前回と比較してもはるかに堂々たる勝ちっぷりだった。ましてや、昨年の五輪での「星野ジャパン」とやらのていたらくとは大違いだった。しかし、監督が渡辺久信であれば、さらに堂々たる勝ち方ができて、決勝戦も3点差くらいで勝っていたのではないかと思う。
もっとも、延長戦にもつれ込んだからこそ、長くファンの記憶に残るであろうイチローの決勝打が生まれたのであって、原辰徳というのは強運の持ち主なのだろう。
思い起こせば、藤田元司監督のもと、最初の3年間は順風満帆だった原は、4年目に新任の王貞治監督の未熟な采配からくるチームの成績不振の責任をマスコミに追及されるようになった。1986年のシーズン終盤では、早世した津田恒美の速球をファウルした時に骨折。ところが、原が戦線離脱すると同時にチームの結束が強まって巨人は連勝を重ね、優勝した広島をあと一歩のところまで追い詰めた。この頃になると、いまいち頼りない四番というイメージが定着してきた。最悪だったのは長嶋茂雄が1993年に監督に復帰したあとで、原は代打に長嶋一茂を送られる屈辱まで味わった。巨人を自ら敗戦に追い込む長嶋采配は、アンチ巨人の私には歓迎だったが、一茂を代打に送られた原には同情したものだ。
スター選手でありながら、スーパースターまでには至らなかった原は、それなりに屈辱を味わった男であり、だからこそ監督としてそれなりに成功できたのではないかと思う。私のような昔の世代のプロ野球を見てきた人間には、「巨人は嫌いだけどONは別」という表現がおなじみだった。それくらいONは国民的英雄だったのだが、あえて巨人を離れて福岡の地で苦難の道を選んだ王貞治はともかく、読売の威光をバックに好き勝手に四番打者を金の力でかき集め、プロ野球の魅力をすっかりそいでしまった長嶋茂雄には、その現役時代も末期しか知らないせいもあるのか、私には全然好感が持てない。そしてその長嶋茂雄に冷遇された原辰徳にはむしろ好意的で、「巨人は嫌いだけど原は別」というのが私の感覚だ。だから、今回のWBC優勝も素直に喜べる。
もちろん、野球の主役は監督ではなく選手だ。好機に弱い打線には不満が残ったが、松坂や岩隈ら投手陣はみごとな活躍を見せた。杉内も勝負強さを見せた。松坂は、若い頃はパ・リーグの首位攻防戦や五輪などでは決まって敗戦投手になり、「勝負弱い」とのレッテルを張られていたが、2004年の日本シリーズで第2戦は打たれたものの第6戦で勝ったあたりから、大勝負に強い選手に変身した。岩隈も、これまでは国際試合での実績はほとんどなかったが、今回のWBCで一皮むけたと思う。ダルビッシュも、結果的に決勝戦の勝利投手になったことは、今後に良い影響を与えるだろう。そしてなんといってもイチローである。私は、どんなに彼が不調でも、最後には彼の力が必要になる時が必ず来る、そうずっと思っていた。そして、それが現実のものとなった。
「続投」とか「イチロー」とかいうと、何かほかのことも思い浮かぶが、それについては今日は何も書かない。WBC日本チームの栄誉をひたすら称えたい。
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こんな時期までプロ野球の日本シリーズをやるのは異例だと思うが、五輪期間中ペナントレースを中断するなどした影響なのだろう。最近ほとんど野球中継を見なくなっているが、それでも巨人対西武の日本シリーズは第1戦の4回以降と昨日行われた第7戦の7回以降を見た。優勝した西武の渡辺久信監督は、現役時代は力任せに速球を投げ込む投手で、大活躍もしたけれど、もっとも強く印象に残っているのは、西武の黄金時代で唯一優勝を逃した1989年に近鉄のブライアントに優勝を決めるホームランを叩き込まれたことである。
失礼ながら、現役時代の印象からは、渡辺監督が前年5位のチームを日本シリーズ制覇に導くとは想像もしていなかった。だが渡辺は、日本シリーズで第4戦にシリーズ初登板で毎回奪三振の完封勝利を飾った岸孝之を第6戦でロングリリーフさせる果敢な采配を見せた。こういう用兵は、かつて森祇晶(まさあき)監督が得意としていたことを思い出す。森は、ペナントレースと日本シリーズで選手起用を変えてくる監督だった。特に現役時代捕手だったせいか投手の調子を見極める目が確かで、短期決戦の日本シリーズでは、前半の数試合で投手の調子を見極め、好調の投手をシリーズ後半では抑えに先発にと大車輪の活躍をさせた。特に工藤公康の度胸満点の投球が見ものだった。渡辺久信も現役時代日本シリーズには強く、確か連勝記録を持っていたと思うが、若い頃救援で打たれて先発で好投すると、短期決戦では先発に適した選手と森は判断したようで、もっぱら先発で活躍していた。
今回の日本シリーズで、渡辺久信は師匠の森譲りの采配を見せ、意外と言っては失礼だが短期決戦の監督としての適性を見せつけた。何が言いたいかというともちろんWBCのことであり、日本シリーズの前に監督は原辰徳に決まったのだが、原よりも渡辺の方が適任ではないかと思うのだ。
もっとも原も決して悪い監督ではない。巨人の監督を務めた5シーズンで3回リーグ優勝し、日本シリーズには2度出場して1勝1敗だから、13シーズンで3回のリーグ優勝で、日本シリーズには一度も勝てなかった星野仙一よりははるかにましだ。星野は中日監督時代に森監督率いる西武と対戦したことがあるが、1勝4敗で完敗した。以前にも書いたと思うが、短期決戦における星野の用兵の特徴は、シーズン中と変わらない選手起用をすることである。不調の先発投手(88年の中日では小野、03年の阪神では伊良部)がいてもローテーションを崩さず、次の登板機会でもそのまま使って打たれ、今年の北京五輪のように、リリーフ投手(岩瀬仁紀)が不調でも何度も使って打たれる。短期決戦に必要な柔軟な采配ができないのである。ところが、短期決戦の采配は下手でもうぬぼれの強い星野は、選手が自助努力で育っていっても、「わしが育てた」という始末だ。ちなみにこの「わしが育てた」というのは、つい最近まで知らなかったのだが、2ちゃんねるで大流行したそうだ。これを知った時には腹を抱えて笑ったものだが、星野が「大半の(中日の)選手は私が育てた」とか「阪神と中日が優勝争いしたでしょ。本当はどっちが勝ってもよかったんや。皆、私の教え子みたいなもんやから」などと本当に言っていたことを知った時には呆れた。
しかし、そんな星野の「ジジイ殺し」にころっとやられてしまったのがナベツネだった。野村克也の暴露やイチローの発言によって星野仙一のWBC監督就任の芽を潰されたナベツネは、不承不承原を監督に決めたあとも、「原君一人では無理だから、王に助けてもらう」とかなんとか不満たらたらだったが、巨人と縁のない渡辺久信や、ナベツネの言いなりになりそうにもない落合博満らは最初から監督候補にもならないようだ。今でも、プロ野球は自分の私物だとナベツネは思っているのだ。
結局、プロ野球をダメにしたのはナベツネだった。今回の日本シリーズで巨人が王手をかけながら連敗して日本一を逃したのは、ナベツネにとって癪の種に違いなく、リーグ2連覇にもかかわらず原辰徳への評価がまた一段と下がったことだろう。来年のペナントレースの結果によっては、またしても「人事異動」を発動させるかもしれない。本当は、ナベツネ本人を人事異動させることが巨人のためにもプロ野球のためにも、そして日本の政治や社会のためにも必要なのになあ、と思う今日この頃である。
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99年の世界選手権前に発売された「別冊宝島」だったか他のムックだったかに高橋のことが書かれていた。いわく、世界最強の女子マラソン走者である高橋はレース後に涙を流さない。常に未来を見据えているからだ、と。この記事が印象に残ったので、世界選手権での高橋の走りを楽しみにしていたのだが、故障で出場できなかった。その後も回復が遅れ、シドニー五輪の予選も、三度ある選考会のうち最後の名古屋国際マラソンにやっと間に合った。そのレースでは、期待に違わぬどころか、見たこともないようなものすごいスパートに他の選手は全くついていけず、独走で優勝した。見ていた誰もが、これはとんでもない選手だと思ったことだろう。当然、シドニー五輪での金メダルが期待されたが、それに応えて五輪記録で優勝した。従来、金メダルを期待された日本選手は、重圧に押し潰されて敗退することが多かったので、重圧をものともしなかった高橋を見て、たいへんな選手だなあと感心したものだ。
だが、さっそく森喜朗首相(当時)が高橋の人気に目をつけて「国民栄誉賞」を高橋に授与したのは、全くいただけなかった。この賞は高橋に余計なプレッシャーを与えるだけだったと思う。もちろん賞が高橋にふさわしくないとは言わないが、授与するのであれば、現役引退を表明したこのタイミングが妥当だっただろう。やはり不人気に悩む麻生太郎首相は、8年前森が余計なことさえしなければオレが国民栄誉賞を高橋にやったのに、と思っているかもしれない。
国民的人気が出ると、マスコミにぐちゃぐちゃにされる。五輪の選考でも関係者が要らぬ動きをする。アテネ五輪の予選では、東京でのレースに敗れた高橋は、最後の名古屋のレースに勝てば五輪代表になる可能性があったが、名古屋に出なくても代表にすると陸上関係者が言ったとか言わないとかいう話があってむざむざ出場を見送ってしまい、その結果選に漏れたことがファンとしては残念だった。その後、2005年の東京国際女子マラソンで優勝して復活をアピールしたが、これが最後の優勝となった。昨日の引退会見で、高橋は「限界」を口にしたが、ニュースのコメンテーターが「高橋の口から『限界』という言葉を聞いたのは初めてだ」と言い、プロ野球の王貞治の現役引退(1980年)を思い出したと言っていた。常に未来を見据えてきた高橋が「完全燃焼した」と言った言葉に、嘘はないだろう。
現役に引退した今後は、政界からのお誘いが待っているかもしれない。特にスポーツ選手には自民党が目をつける傾向があるが、民主党もそれに対抗している。ちょっと前には民主党が、やはり女子マラソンで五輪で二大会連続のメダルを獲得した有森裕子を擁立するなどという噂があった。しかしやはり自民党入りする人が多く、女性では昨年の参院選に出馬せず引退した体操の小野清子とか、スケートの橋本聖子などの名前が思い浮かぶ。橋本など、政界で何をしたのか全く思い浮かばないのだが、調べてみると町村派所属の「保守派」議員らしくて「2007年12月7日に行われた保守派団体主催の『南京の真実を検証する国民の集い』にもメッセージを送った」そうだ(Wikipediaより)。おそらく、周りから勧められるままにそうしたのだろう。スケート選手時代には、その意志の強さに感心させられた人だが、政治家としては全く不要な人間である。
かつて森喜朗に国民栄誉賞を授与された高橋尚子も、間違いなく自民党町村派が目をつけるだろうが、絶対に政界入りなどしないで欲しい。政界入りしたが最後、当ブログでは高橋をバッシングせざるを得なくなり、かつてその走りに感嘆させられた私としては、そんなことはしたくないと思うからだ。
もちろん、民主党から政界入りした場合でも、当ブログは支持しない。スポーツ選手や芸能人の政界入りは、世襲議員の政界入りと何ら変わりない。日本の国益を損ねているのは、タレント議員と世襲議員である。せっかく民間が頑張っても、政治家たちの無能によって国富を外国にさらわれてしまう。それが国民から批判を受けるようになると、今度は排外主義に走ってやはり外国に力ずくでやられる。高橋尚子に限らず、スポーツ選手や芸能人が政界入りしたって、そんな馬鹿な人たちの片棒を担ぐ以上のことはできない。
高橋尚子には、余計な誘惑には乗らずに、後進の指導や陸上競技の普及などに専念してほしいと思う。最後に、お疲れさまでしたと言いたい。高橋尚子の走りを見るのは、実に楽しかった。
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星野仙一は、中日ドラゴンズの投手として「打倒巨人」に燃えていた頃から、アンチもそれなりにいたけれども比較的好感の持たれるほうが多い人生を送ってきた。1974年に巨人の10連覇を中日が阻んだ時の中心選手だったが、それに至るまでは巨人に挑戦しては厚い壁にはね返されていたし、1987年の中日監督就任後も、途中高木監督時代の4年をはさんで計11シーズンの監督在任中、2度リーグ優勝しているものの、その間巨人は5度リーグ優勝しており(2度日本シリーズ制覇)、星野は巨人に敗れることの方が多かった。チャレンジャーには、さほど強い批判が集まることはないものだ。
星野仙一の今日の名声は、星野の中日監督就任と同時に「暗黒時代」に突入していた阪神タイガースを、監督就任2年目にして優勝に導いたことによるところが大きい。中日は、ほぼ東海地方限定の人気だが、阪神は、関西で絶大な人気を誇るだけではなく、全国的にファンが多い。巨人があまりに滅茶苦茶な補強によって戦力が巨大化し、それが巨人ファンの失望を招いて人気を落としていったこともあり、2003年の阪神優勝以降は、プロ野球の人気ナンバーワン球団の座は、阪神が巨人にとって代わった。2004年の岡田彰布監督就任後も、夏場に脱落した04年を除いて、毎年優勝争いに絡んでいる。1987年以降Aクラスの常連に定着した中日に続いて、阪神も優勝争いの常連になったわけだから、やり方はともかく、星野のマネージャーとしての能力は認めなければならないだろう。
しかし、星野の野望はこれにとどまらない。一説によると星野は、五輪とWBCの監督、終生ライバルとしてきた巨人の監督を経て、政界入りの野望を持っているとも言われる。星野の政治的スタンスは右翼であり、政界入りした場合当然自民党入りすることになる。星野は、プロ野球界のドンであるとともに、日本最大の発行部数を誇る読売新聞社の会長にして、政界に多大な影響力を持つ渡邉恒雄(ナベツネ)と懇意であり、北京五輪のつまずきさえなければWBC監督は決まりだったし、巨人の監督はどうだったかわからないが、政界入りの線は大いにあり得るところだった。
私が星野批判に大きく傾くようになったのは、第2期中日監督時代の後半くらいだっただろうか。2000年に巨人が優勝した頃くらいである。あの年の巨人の「巨大戦力」は、プロ野球を見る楽しみをぶっ壊すほどひどくて、これでは遠からず巨人戦中継はゴールデンタイムから姿を消してしまうだろうな、と当時から予想していた。それは今現実のものとなっているのだが、この頃からナベツネ本人だけではなく、ナベツネとつるむ人物に対する拒絶反応がひどくなっていったのである。星野とナベツネの相性が決して悪くないのは、当時から知っていた。星野が阪神監督に就任した時には、長嶋茂雄が星野に阪神入りを口説いたことを覚えておられる方も多いだろう。1997年には巨人・阪神・中日は揃ってBクラスに沈んでいたのだが、この3球団を持ち上げて人気を盛り返そう、というのが当時のセ・リーグのプロジェクトだった。
その星野が北京五輪で大コケしたのだが、2004年にアテネで敗れた中畑清の比でないくらいのバッシングを受けた。それは、短期決戦に弱い星野の弱点をあまりにもろにさらけ出した負け方のせいであり、それがあまりにぶざまだったために、山本浩二や田淵幸一と遊び歩いていたことまで蒸し返して批判された。不調の選手にこだわって傷口を広げたり、故障を抱えている選手を無理に使って故障を悪化させたりというのは、中日や阪神の監督時代から星野が繰り返していたことだったが、それを五輪でもやってしまった。プロは結果がすべてだから、星野は「あの犯罪者扱いのような批判やバッシング」などと泣き言を言ってはならないのである。
たまたま、政治の流れが星野が指向しているのとは異なる方向に向かいつつあることも、星野にとって災いしたのではないか。「星野は新自由主義の時代のヒーローだ」とまで書くと、こじつけが過ぎると言われそうだが、口八丁手八丁で資金を集めて強引にのし上がっていき、「一将功成りて万骨枯る」のが星野仙一だ。「中日の選手も阪神の選手もわしが育てた」と言うのが星野なら、「一流選手は自分の道は自分で切り開く」と言うのが落合博満である。落合は中日監督初年度に「今年は補強せずに現有戦力で優勝する」と宣言し、それを実現したが、その落合の方針を批判し、補強(金権野球)の必要性を声高に主張していたのが星野だった。星野対落合の対決は、落合の完勝だったのである。
本当は、今日のブログでは星野批判は前振りにとどめるつもりだったが、指が勝手に動いて星野批判を延々と続けてしまった。しかし、幸いにも星野のWBC監督断念をコミッショナーが受け入れ、野球ファンがもっとも恐れていた事態は回避された。次回のエントリからいつもの調子に戻したい。
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初戦で「1勝1敗のタイ」になるこの珍妙な制度は、最長6戦のすべてがリーグ優勝チームのホームゲームで行われ、リーグ優勝チームは2勝3敗1引き分けでも日本シリーズに進出できるのだが、「勝って当たり前、負ければ大恥」のプレッシャーをかけられるリーグ優勝チームと、仮に勝ったところで「12ゲームも離されたチームが日本シリーズに出るのか」と後ろ指を指される3位チームが戦う「クライマックス・シリーズ」というのはどうにも楽しめない。仮に今年も巨人が負ければ、また「プロ野球カイカク」が始まるだろう。もっとも、ナベツネは政界再編に忙しくて今は手が回らないだろうが、それが一段落した来年の6月頃に、横浜とヤクルトあたりの球団合併の話が出てくるのではないか。
そのナベツネがバックにいると誰もが信じている星野仙一は、バッシングに音をあげたか、WBC監督に推挙されても固辞すると表明した。
http://www.yomiuri.co.jp/sports/yakyu/news/20081023-OYT1T00026.htm
星野は、自身の公式サイトでも「固辞」を表明しているが、家族の心労を持ち出して泣き言を言うありさまだ。
http://hoshino.ntciis.ne.jp/
「あの犯罪者扱いのような批判やバッシング」とか、「ママが入院している」とか、「パパひとり、こうまで悪者にされて」とか、お気の毒なことだが、これらはすべて星野自身の「身から出たサビ」だと言わなければなるまい。
北京五輪後のNHKの番組で、自己弁護に終始し、WBC監督就任に含みを持たせる発言をしていたのは、星野自身だった。WBC体制検討会議には星野自身も出席していて、野村克也が内幕を暴露しなかったら、密室で「星野監督就任」が決まったのではないか。「晴天とら日和」経由の情報だが、王貞治は、第1回の会議直前にナベツネと会食をしていたともいう。
もうすぐあの忌まわしい「大連立」騒動から丸1年になるが、それを思い出させる密室での工作だ。もっとも、それがすぐ表に出てしまう稚拙さもナベツネのやり方の特徴だ。
当ブログの星野批判に対し、「お前はスポーツを真剣にやったことなどないだろう。そんなお前に星野の気持ちがわかるか」などという批判を受けるが、そんな批判者が、それこそその道を窮めたイチローほど真剣にスポーツをやっていたはずがない。実質的な星野批判といってもよいイチローの言葉をどう受け止めるのかと言いたい。愛知県出身のイチローは、プロ野球新記録の210安打を放って一躍スターに名乗りを上げた1994年に、セ・リーグの優勝を賭けた中日対巨人最終戦をスタンドで観戦したほどの中日ファンで、幼い頃から星野仙一を見ていたはずだ。そのイチローによる星野批判なのである。
何より、批判されたら家族を盾にとって泣き言を言うあたりが、朝日新聞に弁護士資格返上を勧告されたら「僕が資格を返上したら、弁護士事務所の従業員はどうなるのか」などと言い出す橋下徹を思い出させて気分が悪い。そういえば、橋下は巨人ファンだった、などと書いたら、善良な巨人ファンの方々の怒りを買うかもしれないが(笑)。それはともかく、星野仙一自身が北京五輪に惨敗した直後に適切な言動をとっていればこんな騒ぎにはならなかった。星野自身が家族に謝らなければならないと思う。
橋下徹といい、星野仙一といい、やたら勇ましい言動をする人間に限って、批判されたら弁護士事務所の従業員や家族を盾にとって批判をかわそうとする。ふだん独裁者として振る舞って、職員や選手の首を切りまくっているのに、自分は贅沢三昧をする。「まず隗より始めよ」という言葉は彼らの辞書にはないらしい。
王貞治は、自身が監督を務めた前回のWBCでの優勝も、星野が監督を務めた今回の北京五輪の惨敗もたまたまだと言って次回WBCの監督に星野を推したという。確かに、2次リーグ1勝2敗で敗退確実と思われた前回WBCでは、アメリカがメキシコに敗れる大番狂わせに救われた。だが、見る者に与えた印象がWBCと北京五輪では大違いだった。仮に、「たまたま」だったとしても、それならなおさら監督が星野である必要はなく、日本シリーズの優勝監督がWBCの監督をやったって良いはずだ。渡辺久信、原辰徳、落合博満の誰が監督を務めても、星野がやるよりはるかにましだと多くの野球ファンは思うことだろう。
野心家・星野仙一にはとっとと退場してもらいたい。
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2003年、星野仙一率いる阪神を日本シリーズで下した福岡ダイエーホークス(当時)の王貞治監督は、阪神の監督が星野から岡田に代わったことについて、岡田が阪神二軍監督として実績を挙げていたことを指摘し、岡田には統率力がある、だから阪神はこれからますます手強くなると言った。しかし、王も岡田も短期決戦に弱く、2005年に阪神がリーグ優勝した時、ソフトバンクホークスはリーグ戦を1位で通過しながらプレーオフで千葉ロッテに敗れ、阪神は日本シリーズでそのロッテに4連敗した。その後は阪神もソフトバンクもリーグ優勝することができず、多くの人が期待していた王と岡田の対戦は、結局実現しなかった。
選手を気持ちよく働かせることには長けていたと思われる岡田だが、競り合いには弱く、一度負け始めたら歯止めがかからない面もあった。その点で巨人の原辰徳監督と弱点が共通しており、一昨年6月から7月にかけて、巨人は連敗がいつまでも止まらず、首位から最下位まで一気に転落したことがある(最終順位は4位)。
だから、野球の世界大会である「ワールド・ベースボール・クラシック」(WBC)の監督に誰がふさわしいかとアンケートをとると、岡田も原も上位には顔を出さない。人気が高いのは、現役監督では野村克也や落合博満であり、OBでは長嶋茂雄や王貞治である。
ところが、そのWBCの監督に、今年の北京五輪で惨敗した星野仙一を据えようとする動きがある。 プロ野球コミッショナー特別顧問に就任した王は20日、15日に開かれた第2回WBCの体制検討会議で、日本代表監督に星野を推したと明言した。
http://www.asahi.com/sports/bb/SEB200810200011.html
多くの人が、このニュースに耳を疑ったと思う。五輪での「星野ジャパン」の惨敗は、それほどひどかった。単に試合に負けただけではなく、新井(阪神)、川崎(ソフトバンク)、川上(中日)らを故障させた。特に新井の故障は、その後のペナントレースに影響を与えたと思われるが、星野は阪神の「シニア・ディレクター」でもある。
この妄動には、ファンだけではなく、野球選手やOBたちも一斉に反発した。東北楽天ゴールデンイーグルスの野村克也監督は、前記体制検討会議で王が星野を監督に推薦したことを暴露し、「出来レースなんじゃないの」と言った。野村自身は、「王がやればいい。WBC監督の経験もあるし、連覇目指してな」と発言したという。
http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081018-420221.html
検討会議では広島OBの野村謙二郎が発言の7割を占めたということで、恐らく、王貞治や野村謙二郎らは何者かに丸め込まれて、星野監督をプッシュする役回りを果たしていたのだろう。
19日のTBSテレビ「サンデーモーニング」では、やはり星野に批判的でWBC監督に王を推す張本勲が、「ワンちゃん(王)とこれから会って話をする」と色をなしていた。
しかし、なんといっても決定打となりそうなのが、シアトル・マリナーズのイチローの発言である。
イチローは18日(日本時間19日)、WBC監督問題について、「最強のチームをつくるという一方で、現役監督から選ぶというのは難しいでは、本気で最強チームをつくろうとしているとは思えない」と発言した。さらに、「大切なのは足並みをそろえること。(惨敗の)北京の流れから(WBCを)リベンジの場ととらえている空気があるとしたら、チームが足並みをそろえることなど不可能」と言い切ったが、誰がどう読んでも、これは星野仙一をWBC監督に担ごうとする妄動に対する強い批判だ。
http://number.goo.ne.jp/news/sports/article/kfuln20081020001001.html
先にリンクした朝日新聞の記事にもあるように、星野を推した王も、イチローの発言には一定の理解を示した。
星野仙一は、もともと権力志向がきわめて強い男である。1982年に現役引退したあと、すぐさまNHK野球解説者の職を得たが、さっそくやったのが当時の球界OBのドン・川上哲治への接近だった。83年に巨人の藤田元司監督が退任してNHK解説者になると、藤田氏にも接近した。
1987年に中日ドラゴンズの監督に就任すると、金に糸目をつけない補強を開始した。前年の86年まで、むしろBクラスが普通だった中日は、星野監督就任を境にAクラス常連になり、星野は監督2年目の88年に早くもリーグ優勝したが、長く監督を務めるにつれて人心を失っていくのも星野の特徴だった。第一期5年、第二期6年の中日監督時代、それぞれ一度ずつ優勝したが、それ以降は優勝を逃している。阪神で2年目にリーグ優勝を果たしてすぐ監督を退いたのは、星野には珍しく賢明な選択だった。
手始めに川上に接近した星野が、93年に巨人のオーナーになって以来、本当の「球界のドン」になったナベツネに接近したのは、自然の流れだった。かつて中日が金権球団になったのと同じように、2002年に星野が監督に就任した阪神タイガースも、巨人や中日ばりの補強に精を出すようになった。特に、広島から金本知憲を獲得したのが大きかった。星野監督時代の2003年と、岡田監督に交代後の2005年にリーグ優勝するなど、阪神もAクラス常連球団になった。
だが、反面、資金力の格差によって球団間の戦力差が開きすぎてしまい、プロ野球は魅力を失った。特に、パ・リーグは能力のある選手が多いのにメディアから注目されず、これを快く思わなかったオリックスの宮内義彦が、西武の堤義明や、それまで仲の悪かったナベツネと共謀してプロ野球再編を仕掛けた。2004年のことである。
彼らの狙った一リーグ化はならなかったが、オリックスと近鉄の合併、新球団・楽天の発足、両リーグの交流戦開始などの変化も起きた。しかし、セ・リーグは上位3球団と下位3球団のグループが固定されてしまうなど、問題は解決していない。特に、極端な金権補強をやった巨人は、ファンの支持を失い、地上波のゴールデンタイムの放送枠から、かなりの試合が弾き出された。
星野仙一が手本にした読売のやり方の結末が現状である。それなのに、星野は北京五輪日本代表のコーチを務めた田淵幸一や山本浩二と遊び歩いていたという。そして、好調の選手を選ばず、自分の好みで阪神や中日の選手や話題性のありそうな選手ばかり選び、不調の岩瀬を連投させては打たれて負け、新井の故障を悪化させてリーグ戦からの長期離脱を余儀なくさせるなどした。
五輪に惨敗した星野は、世間から厳しい批判を浴びたが、「日本はいじめ社会だ」などと泣き言を言い出すありさまだ。この上、あつかましくもWBC監督になりたいなどとは、呆れてものも言えない。間違いなく、バックにはナベツネがいる。
イチローの勇気ある発言をきっかけに、星野のWBC監督就任を、心ある球界人はなんとしてでも阻止してほしいものだ。
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その1994年の10月8日に、中日との最終戦に勝った巨人が優勝した。視聴率は、関東で48.8%、名古屋では54%を記録した。かつては、多くの国民がプロ野球に熱中していた。歴代の視聴率記録を見ると、王貞治の本塁打の記録がかかった試合やダーティーといわれた巨人の江川卓が初登板した試合、セ・リーグの中日と巨人の優勝争い(1982年)やパ・リーグで近鉄が勝てば優勝という最終戦で引き分けて優勝を逃した「10・19」の試合(1988年)、それに関西では1985年に阪神が21年ぶりの優勝を決めた試合などがリストに上がっている。1988年の「10・19」は、神奈川の川崎球場で行われた試合を大阪の朝日放送が中継し、試合は夜10時を超えて続き、「ニュースステーション」の枠で放送された。あの頃、プロ野球の優勝争いは国民的な関心事だったが、ドラマを見たい視聴者からは、プロ野球中継の放送時間が延長されてドラマの録画に支障が生じると不評を買ってもいた。
14年前と同じ、同率首位の直接対決となった昨夜の巨人?阪神戦は、巨人が勝って残り3試合でマジック「2」を点灯させた。私も見ていたが、14年前や「メークドラマ」の12年前のように怒りが煮えたぎる(私はアンチ巨人なので)こともなく、自分でも意外だった。そもそも、プロ野球の生中継を見るのは今年3試合目くらいだ。番組の延長も、かつてと違って15分しかなく、そのまま結果を調べようとする気も起きず、疲れが出て寝てしまった。深夜目が覚めてまずやったことは、NYダウ値動きの確認だったから、関心事の優先順位も昔とは様変わりしてしまった。巨人?阪神戦の結果はそのあと確認した。
私がプロ野球に興味を持つようになった頃は、長嶋茂雄は現役だったが、既に衰えていたので、熱烈な長嶋ファンの気持ちは私にはわからない。だが、王貞治は全盛期だった。王は、阪神ファンやアンチ巨人ファンからも尊敬されていた選手で、1977年にハンク・アーロンの本塁打記録を破った時は、同級生の阪神ファンも近鉄ファンも王を応援していた(この年は巨人が独走していたせいもある)。その後、王が巨人の監督になった時は、「巨人は常勝を宿命づけられている」などと言って、眉間にしわを寄せては采配ミスを繰り返したので、アンチ巨人ファンに喜ばれ、マスコミや巨人ファンは王をクソミソにけなしていたが、長嶋が巨人の監督に復帰し、王がダイエーの監督になってからしばらくは、マスコミは王のことは何も言わなくなり、「10・8の決戦(前述の1994年の巨人と中日の同率首位最終戦直接対決)は国民的行事だ」とか、「メークドラマ」(1996年の巨人の逆転優勝)など、長嶋巨人のことばかり大騒ぎしていた。
そもそも、アンチ巨人史観に基づいて日本プロ野球史を記述すると、1992年のシーズンオフにおける長嶋茂雄の巨人監督復帰は、読売新聞の渡邉恒雄(ナベツネ)が「読売一球団支配」の野望を達成するための「禁断の一手」だった。当時からそう論評されていたし、事実その通りになった。ナベツネは、サッカー界をも支配しようとしたが、そちらでは逆に排斥される結果になった。
ナベツネは、1978年の「江川事件」にも深くかかわっていたことが、当時の読売新聞記者によって証言されているが(確か数ヶ月前の「世界」に出ていたと思う)、ナベツネによって読売新聞の社史はねじ曲げられているとのことだ。そのナベツネが、読売新聞の社長に就任したあと、故務台光雄会長の死後1年半経って、プロ野球界支配に乗り出したのだが、その時に打った最初の一手が長嶋茂雄監督の復帰であり、ナベツネはさらにフリーエージェント(FA)制と逆指名制を導入した。私はこれを、プロ野球界の「新自由主義的改革」と位置づけている。前者のFA制は、プロ野球選手会も要望していたことだが、読売の利益にもかなっていた。これ以降、金のある球団でなければ優勝は難しい時代になった。90年代初め頃のセ・リーグは広島とヤクルトが強かったが、ナベツネによるカイカク以後、巨人と中日が強くなった。広島は勝てなくなったが、ヤクルトの野村監督は、「弱者の戦略」で巨人に対抗した。さらに読売は、ライバル球団・阪神にも目をつけ、1997年頃からNHKなども引き入れて、阪神をアピールするプロジェクトも始まった。日本テレビが東京ドームの巨人戦を放送している時間帯に、NHK-BSが毎晩のように甲子園球場の阪神戦を放送するようになった。
しかし、どんなにFAと逆指名で戦力を膨れ上がらせても、長嶋巨人はなかなか勝てなかった。94年も96年も、戦力的には巨人が飛びぬけていたが、94年は後半戦、96年は前半戦にチーム力を活かせず勝てなかっただけの話だ。それが「最終戦決戦」や「メークドラマ」になったもので、(巨人にとっての)結果オーライに過ぎない。巨人人気の最後の花が、2000年の「ON対決」だったが、日本シリーズの最初の試合で長嶋は継投に失敗し、観戦に来ていたナベツネを激怒させた。しかし、3戦目以降の4試合は、監督采配不要の圧勝続きで、ついにナベツネの描いたシナリオ通り、「ON対決」をNが制したのだ。だが、この頃既にプロ野球中継の視聴率低下が話題となっており、特にシドニー五輪期間中には巨人戦の視聴率が大きく落ち込んだ。
2002年に星野仙一が阪神の監督に就任して以来、セ・リーグは「巨人・阪神・中日」の金満3球団とそれ以外の3球団の格差が広がった。2003年の阪神優勝で、関西は大きく盛り上がったが、2004年からまたプロ野球人気はジリ貧になった。さらに、ナベツネは、パ・リーグを巻き込んで球界再編を仕掛けたが、これが決定的にプロ野球の人気を下げた。ついにゴールデンタイムからの巨人戦中継の撤退が始まり、今では巨人戦は相手球団主催のゲームは全国中継されない。甲子園球場の阪神?巨人戦も、関西ローカル番組になってしまっていて、地方局は中継しない(首都圏はどうだか知らないが、たぶん放送していないと思う。そうでなければ地方局が番組のネットを受けられないからだ)。東京ドームで行われる巨人のホームゲームも、日本テレビ系の中継はあったりなかったりだし、デーゲーム中継は地方局はネットせず、関東ローカルになっているはずだ。私も、先にも書いたように今年のプロ野球中継は3試合ほどを見ただけだ。
これは、プロ野球という娯楽が、かつてのプロレスや大相撲同様、国民的関心事ではなくなり、歴史的役割を終えただけのことともいえる。そもそも、野球はアメリカのスポーツであり、投手の負担が他のポジションの選手に比べて飛びぬけて重く、バランスの良い競技とはいえない。そして、アメリカは占領政策において、アメリカ的文化を日本に浸透させるために野球を利用した面は確かにある。日本プロ野球の父といわれる正力松太郎がCIAのエージェントだったことは、公開された機密文書によって明らかにされている。そして、いまや長年に及んだアメリカの覇権が崩れ去ろうとしている時代だ。そんなことが頭に浮かぶと、かつてのようにプロ野球に熱中する気持ちにはなれないのである。
ただ、昨日の巨人?阪神戦は、阪神が勝った方が日本経済にとっては良かった。いまや、巨人より阪神の方が人気が高く、阪神が優勝すると関西に経済効果が生まれるからだ。もっとも、阪神が2位に終わっても、クライマックス・シリーズ(CS)の第1ステージで阪神が中日を破れば、再び巨人との決戦だ。
だが、そうなっても今度は中継を見る気にはならないだろう。リーグ優勝のチームに1勝のアドバンテージがついた上、そのチームのホームゲームだけで最大6試合も行われるシステムは、バランスが悪すぎてちっとも面白くない。それでも、試合間隔が開いてゲーム勘を取り戻せない首位チームが、第1ステージで弾みをつけた挑戦者に敗れることはしばしばあるし、昨年の巨人はまさにその実例だったが、「地の利と1勝分のアドバンテージ」対「ゲーム勘と勝ち上がった勢い」の対決というのも、どこかピントがずれているように思える。
仮に、CSの第1ステージで阪神がリーグ戦でカモにした中日に敗れるようなことがあったら、制度自体への批判が高まり、プロ野球再編の第二幕が始まるような気もする。いや、CSが順当な結果に終わっても再編は起こりそうだ。セ・リーグでは川上(中日)や上原(巨人)のFA宣言によるMLB移籍が予想されているし、ダルビッシュ有(日本ハム)や「マー君」田中(楽天)など、パ・リーグの方が集客能力のある選手が多い。本拠地も、首都圏に3球団が集中するセ・リーグより、北海道、東北、九州に人気球団を持つパ・リーグの方がよく地方に分散している。これをナベツネが見逃すはずがない。
もっとも、今はプロ野球よりも政界再編の方にナベツネがご執心なのは間違いないから、すぐにはプロ野球再編は動き出さない可能性が高い。総選挙のあと、民意に反した政界再編が行われる可能性はかなり高いと私は覚悟しているが、それが終わったら、ナベツネは再び球界再編に手をつけるのではないかと私は予想している。
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でも、どうにもいただけなかったのが男子サッカーと野球の惨敗である。プロの選手たちを集めたチームが、なぜか「反町ジャパン」「星野ジャパン」といった監督の名前で呼ばれ、過去の五輪でも例を見ない惨敗を喫した。
もはや五輪にアマチュアリズムを持ち出すのはナンセンスであることは承知しているが、このサッカーと野球のていたらくは、見る者をしらけさせた。
特にいただけなかったのは両方の監督である。サッカーの反町康治は、ナイジェリア戦の前に、「座して死ぬくらいなら、飛び込んで死のう」と、まるで特攻隊のようなことを言ったり、既に予選敗退の決まったあとのオランダ戦の前には、「オランダはうまいから前からボールを取りに行かなくていい」と言って選手たちから批判を浴びるありさまだった。
プロ野球の監督時代から、鉄拳制裁で知られてきた星野仙一の場合、球界から干されるのが怖い選手たちは星野を表立って批判はしていない。しかし、五輪の試合における星野の采配ミスのひどさといったらなかった。一人で3敗を喫した岩瀬仁紀や、考えられないような失策を連発したG・G・佐藤など、明らかに調子の悪い選手にこだわって何度も起用し、そのたびに岩瀬は打たれ、佐藤は失策を演じた。そもそも星野は、中日や阪神の監督を務めていた頃から短期決戦に弱く、調子の悪い選手の起用にこだわるクセもあった。当然、星野が日本シリーズを制したことは一度もない。最初に日本シリーズの采配を揮った1988年の西武対中日のシリーズでは、第1戦に先発して打たれた小野投手を、1勝3敗と追い込まれた第5戦で再び先発させて打たれ、最後に日本シリーズの采配を揮った2003年のダイエー対阪神の日本シリーズでも、第2戦に先発して乱打された伊良部投手(先日暴行事件で逮捕された)を、3勝2敗と王手をかけた第6戦に再び先発させて打たれた。特に後者は、監督自らがシリーズの流れを変えた大チョンボで、当時阪神ファンは星野の采配に怒り狂っていたものだが、中日や阪神の監督時代の日本シリーズでやったと同じ采配ミスを、五輪でもやらかすのだから、どこまでも懲りない男だ。
星野は、主力選手と仲が悪いことでも知られる。中日時代の同僚の四番打者・谷沢健一を使いたくなかったので、監督就任時に引退させたという話もあったし、その時にロッテとの大トレードで獲得した落合博満とは、最初から最後まで合わなかった。落合が星野と同じ中日を率いて、星野をはるかに上回る成績を残していることはいうまでもない。
たまたまネット検索していたら、谷沢健一がブログで五輪の野球日本チームを論評している記事を見つけたのでご紹介する。これが、ワサビが効いていて実に面白いのである。
『谷沢健一のニューアマチュアリズム』 より
「遠い五輪野球の金メダル(その1)」
(2008年8月24日)
http://blog.goo.ne.jp/yazawa_2005/e/6f57b1119492305b85a6b57d53c63472
「遠い五輪野球の金メダル(その2)」
(2008年8月24日)
http://blog.goo.ne.jp/yazawa_2005/e/a40761db5f8a6a31f972f4796c3677ae
これらのエントリから何箇所か引用、紹介する。
韓国、キューバ、米国にしても同じ強い緊張現象が起きていた。兵役免除のかかっている(軍役の知らない私たちにはピンと来ない)韓国、帰国後の経済的処遇に天地の差が生じる(貧富差を知らない私たちにはピンと来ない)キューバ、メジャー昇格やドラフトのかかっている(私たちにも少しはわかる)米国は、緊張の質が異なる。一人一人が明日から人生が変わるのである。結果として、かかっているものの重さの順がメダルの順位になった。
一方、日本にかかっているのは初の金メダルという名誉である。その名誉は、自分が金メダルチームの一員になるというワン・オブ・ゼムの名誉にすぎない。人生が変わるとしたら、星野監督であり、金メダル獲得によって、WBC代表監督就任が確実になり、長嶋ジャパン(五輪)と王ジャパン(WBC)両方の後継者としての地位が確立する。この温度差は大きい。
(「遠い五輪野球の金メダル(その1)」より)
アマチュアの五輪経験者たちが口を揃えて言うのは、「アマの試合はもちろんだが、とくに国際試合では、審判にクレームをつけるのは下の下だ。プロの感覚で審判に文句を言ったら、試合後の審判たちのミーティングで槍玉に挙げられるだろう」ということだ。韓国もそれを知っていたろうが、最終試合で堪忍袋の緒を切ってしまった。
日本は、監督自らがずいぶん早く緒を切ってしまい、危うく退場になりかけた。審判に不信感を与えたことも敗因の一つだろう。
(「遠い五輪野球の金メダル(その2)」より)
それにしても、監督にすべてを負わせすぎではないか。○○ジャパンなどと表現される事態がおかしいのである。最高の権限をもつ組織のトップと、現場で総指揮を執るチームのトップとの間に、それなりの緊張感がなければ、必ず偏向と堕落が生じる。当人にそのつもりがまったくなくても生じるのは、歴史が教えている。
(同上)
2000年のシドニー五輪までは、野球の五輪代表チームが監督の名前を冠して呼ばれることはなかった。プロの選手は参加していたが、全球団が五輪に協力的だったわけではなく、シドニー五輪の時には巨人と阪神は選手を出さなかった。巨人は、1997年から1999年まで3年連続でリーグ優勝を逸していて、五輪なんかに協力してやれるか、という姿勢が露骨だった。シドニー五輪では日本は4位に終わったが、長嶋巨人は優勝し、そのニュースは女子マラソンの高橋尚子選手の優勝と同日だったので影が薄かったが、巨人と癒着している東京のスポーツ紙は強引に巨人優勝を一面トップに持ってきたことは以前に当ブログで書いた通りである。
ところが、長嶋茂雄が巨人の監督を辞めると、長嶋が五輪の監督に就任することになり、「長嶋ジャパン」なる名称が生まれた。巨人(や阪神)も、一転して五輪に協力するようになったが、なんて勝手なんだとあきれ返ったのを覚えている。
結局長嶋は、五輪直前の2004年に病に倒れ、代わりに中畑清が采配をとったが、銅メダルに終わった。この時も、背番号「3」のユニフォームをベンチに飾るなどして長嶋を偶像視していたから、こいつらいったい誰のためにプレーしているんだ、としらけてしまい、オーストラリア代表として出場した阪神のジェフ・ウィリアムスが二度にわたって日本打線を抑えて日本を破った時には、思わず拍手喝采してしまった(笑)。
そんな私だから、「星野ジャパン」なる呼称にはまたかと思ったし、短期決戦における星野の弱さも知っていたから、どうせ負けるだろうとは思っていたが、あまりに星野らしい負け方にあっけにとられてしまった。世間では岩瀬やG・G・佐藤ばかり責められているが、誰にだって調子の悪い時はある。そんな時は監督が起用を避けるべきだ。星野は、やはり不調だったダルビッシュ有は、最初打たれた後はあまり重用しなくなったが、岩瀬を使い続けたのは、かつて采配をとっていた中日の選手だからではないか、と勘繰りたくなるほどの偏重ぶりだった。
でもまあ、これで来年のWBCにおける星野監督の目はなくなっただろうし、球界における星野の地位もガタ落ちだろう。もっとも、星野の場合、自民党が目をつける可能性が高い。星野はもともと右翼的な人間で、読売新聞のナベツネとも親しいから、政界入りして自民党の集票マシーンと化すことは警戒しなければならないかもしれない。
それにしても、長嶋だの星野だのと、選手のプレーそっちのけで監督ばかりが脚光を浴びる風潮は本当にどうにかしてほしい。この点では、プロ野球界はかつてと比べて現在はひどく劣化している。かつては、阪急ブレーブスの西本幸雄、上田利治両監督のように、選手としての実績は乏しくとも、指導者としての才能を見出されて若くして監督として登用されて成功した例が多かった。ところが、いつの頃からか現役時代の名プレーヤーでなければ監督になれないようになった。私は、これも1975年の長嶋監督以来ではないかと考えているのだが(上田利治が阪急の監督として指揮をとったのは1973年からだった)、プロ野球界は指導者を育てるシステムさえ放棄して、現役時代のスタープレーヤーばかりを監督に据えるようになった。これは、その方が、その監督の現役時代からのファンが球場に足を運び、観客動員数が増えるからだ。チーム作りより目先の利益にこだわったのだ。
最後に、谷沢健一のブログの結びの部分を引用、紹介する。このブログを読んで、谷沢という男は、卓越した批評眼を持った人物だと感心した次第だ。
8月15日の朝日新聞で、作家の重松清氏が書いている。「星野ジャパンには、もちろんメダルを期待したい。でも、それ以上に「野球の魅力を世界の子どもたちに伝える」という大きな使命があるんじゃないか。(中略)グラウンドを見てごらん。野球っていうスポーツ、面白いだろう?」
日本の子どもたち、世界の子どもたちに野球の面白さ・楽しさを伝えることを怠っている限りは、再び五輪で野球を見ることはないだろう。そして、ついに野球は世界スポーツにはならないだろう。21世紀の野球人(責任ある立場の野球人)を名乗る資格のあるのは、それを知っている者ではないだろうか。
(「遠い五輪野球の金メダル(その2)」より)
今のままだったら、もう五輪で野球なんか見られなくたってかまわない、そう思わせる五輪の日本野球チームの敗退だった。
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今回の北京五輪は、日本チームにとってハードラックが続く。福田内閣になってかなり改善されたとはいえ、コイズミ時代の冷え切った日中関係の後遺症はまだまだある。先日、中国側による「なでしこジャパンに中国の観衆から声援が送られた」という報道をご紹介したが、それには多分に外交辞令が含まれていたかもしれない。実際には、日本チームの選手たちはかなりのアウェーの雰囲気で競技をしているようだ。
そのプレッシャーからか、男子サッカーは開幕から連敗し、早々と予選落ち。日本チームが獲得した金メダル3個は、いずれもアテネ五輪で優勝した選手の連覇だ。そして、その連覇がもっとも期待されていた選手の一人である女子マラソンの野口みずき選手が、左太もも裏の怪我で欠場することになってしまった。
1992年のバルセロナ五輪における有森裕子選手の銀メダル以来、日本選手はこの種目をお家芸にしていて、96年のアトランタでは同じ有森が銅、2000年のシドニーでは高橋尚子が金、そして前回、2004年のアテネでは野口みずきが金と、4大会連続のメダル獲得、2大会連続の優勝をなしとげている。今回も、野口選手は金メダル候補の最右翼といわれていただけに、欠場はとても残念だ。酷暑の北京でのマラソンに出場すれば、選手生命を失いかねないとのことで、欠場の結論に至ったとのことだが、野口選手の心中を察するに余りあるものがある。
過去4大会の女子マラソンは、いずれもドラマチックなレースで、有森、高橋、野口3選手の個性がとてもよく出ていて、いずれ劣らぬ素晴らしいものだった。有森の場合は、本人が「初めて自分で自分をほめたいと思います」と語ったアトランタより、果敢にエゴロワを追ったバルセロナの方が印象深い。あのレースでは、エゴロワが抜け出し、2位集団が互いに牽制し合うジリジリするような展開だった。その中から有森が果敢に抜け出してエゴロワを追い、はるか引き離されていたエゴロワをとらえた。最後の最後に再度エゴロワに突き放されたが、有森の勇気は実に素晴らしかった。あれは確か有森と同じ岡山県人の人見絹江以来、64年ぶりの女子陸上選手のメダルだったはずだ。有森はアトランタでも同じパターンでファツマ・ロバを追ったが、今度ははるか及ばなかった。しかし、2大会連続のメダルはお見事だった。
シドニーでの高橋尚子の金メダルについては、いまさら贅言を費やす必要はないだろう。あの頃の高橋は、世界最強の女子マラソン走者だった。彼女がひとたびスパートをかけると、誰もついていけなかった。見ている方にとっては痛快だが、あれをやられたライバル選手にとっては大きなショックになるそうだ。そんなショックをはね返したのが、今回2大会連続で出場する土佐礼子で、彼女は2000年のシドニー五輪選考会となった名古屋マラソンで高橋のスパートについていけずに完敗したが、2004年の同じ名古屋で、選考する選手をとらえて逆転優勝し、アテネ五輪代表の座をつかんだ。この大会で土佐が勝てなければ高橋が代表に選出されると見られていたが、土佐の優勝によって高橋は選から漏れた。そして、今年の名古屋マラソンに高橋は出場したが惨敗し、野口、土佐に続く3人目の北京五輪代表になることはできなかった(優勝した中村友梨香が代表に選出)。時代の流れである。
4年前のアテネは酷暑のレースで、野口みずきのスパートに、世界記録保持者のポーラ・ラドクリフらがついていけず、ラドクリフは悔し涙を流しながら途中棄権した。これは、イギリスのファンに大きなショックを与えたそうで、掲示板には野口みずきを誹謗中傷する書き込みが現れたと聞いた。日本でも、高橋尚子の熱狂的なファンが2ちゃんねるなどで野口を誹謗中傷していたから、そういう意味でも野口は不運な選手だ。かつて所属していた企業があこぎな商売で悪名高かった影響もあるようだ。
しかし、アテネ五輪の過酷なレースを制した野口みずきは素晴らしかったし、今回も同様に過酷な条件といわれており、野口にはうってつけだなと私は思っていて、当然ながら金メダルを期待していた。それだけに、欠場は本当に残念だ。女子マラソンに出場する日本選手は、土佐礼子と中村友梨香の2選手になったが、2人の活躍に期待したい。また、野口みずき選手には、焦らずじっくり怪我を治して、2012年のロンドン五輪を目指して頑張ってほしい。
北京五輪の女子マラソンは、17日日曜日の午前7時半(日本時間で同8時半)から行われる。当初15日金曜日に予定されていたが、日本のテレビ局の圧力によって、日程が変更されたといういきさつがあるそうだ。地上波では日本テレビが中継する。ふだんなら「サンデーモーニング」(TBS)、「日曜討論」(NHK)、「サンデープロジェクト」(テレビ朝日)などを見る時間帯だが、私はおそらくチャンネルを切り替えながら両方見ることになるだろう。
ところで、個人的には、前回のアテネ五輪でもっとも印象に残ったのは、卓球の福原愛とミャオミャオ(オーストラリア)の試合だった。ミャオミャオは漢字で苗苗と書き、中国出身の選手だが、オーストラリア代表で出場した。福原は1回戦はシードで、これが2回戦、福原の方が格上だったが、試合はミャオミャオが2ゲームを連取して第3ゲームもリード。ところがそこから福原が逆転で第3ゲームを取ると、第5ゲームまで3ゲームを連取。一気に勝つかと思われたが、第6ゲームはミャオミャオが奪い返してタイ。そして、最終の第7ゲームも大接戦となった末、福原が辛うじて勝った。私が見ていたのはNHK-BSだったかの録画で、手に汗を握りながら見ていた。実はその時にはとっくに結果が出ていたのだが、幸い結果を知らなかったので試合を存分に楽しめた。テレビ東京が行った生中継は、福原が2ゲーム取られてピンチの状態から始まり、30分程度放映し、試合が終わらないまま番組は終了したそうだ。
この試合で負けたミャオミャオだが、容姿やプレースタイルが日本人ファンの心をつかんで、2ちゃんねるにミャオミャオのスレッドが立つなど、大人気となった。あげくの果てには、ミャオミャオが飛行機の中で酔っ払って暴行に及んで逮捕されたというデマが飛び交い、ネット上でバカバカしい騒ぎが展開された。あの頃は、まだ「政治の季節」になる前で、そんなバカ騒ぎに興じることができた。
勝った福原は、次に格上とされていた米国のガオジュンと対戦した。ガオジュンも漢字で高軍と書く中国出身の選手で、2ちゃんねるでは「ガオガオ」と呼ばれていた(笑)。強敵とされていたこの選手との対戦では、一転して福原は4-0のストレート勝ちを収めた。しかし福原はベスト8をかけた4回戦で韓国の金暻娥に敗れ、入賞はならなかった。
今回の北京五輪にもミャオミャオとガオジュンは出場するそうだ。ミャオミャオやガオジュンにとっては、他国の代表として母国に帰ってきた今回の大会は、特別に感慨深いものだろう。そして福原愛は、コイズミ政権下での日中関係が冷え込んだ時代に中国に渡り、中国での人気も高いと聞く。だからこそ、北京五輪でも旗手に選ばれた。その福原は、世界ランキング12位だそうだが、抽選の結果、3回戦からの出場となり、これに勝てば4回戦で世界ランキング1位のでアテネ五輪単複の覇者・張怡寧(中国)と対戦する組み合わせとなったそうだ(下記URLの毎日新聞記事による)。
http://mainichi.jp/enta/sports/general/general/news/20080812k0000m050095000c.html
なんともハードラックだが、健闘を期待したい。卓球は今日13日から団体戦、18日からシングルスが始まる。女子シングルスの3回戦は20日、4回戦は21日に行われる予定だそうだ。時間帯が悪くて生中継は見られそうにないのが残念ではある。
[追記] (2008.8.14)
福原愛とミャオミャオは、北京五輪でも日本対オーストラリアの団体戦で対戦した。団体戦のシングルスは5セットマッチだが、またしても両者相譲らぬ熱戦の末、11-9, 9-11, 11-9, 6-11, 11-4のゲームカウント3-2で、福原がミャオミャオを破った。しかし、オーストラリアも日本も予選で韓国に敗れ、オーストラリアは予選落ち、日本は3位決定トーナメントに回ることになった。福原はオーストラリア戦でミャオミャオに辛勝したものの、シングルスではスペイン戦で1勝1敗、韓国戦で1敗の計2勝2敗で、調子が上がらないようである。一方のミャオミャオは団体戦のシングルスでは1勝もできず3連敗に終わった。
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野茂英雄が現役引退を表明した。
私は、1990年以来の「NOMOマニア」だ。新日鉄堺時代から応援していたファンには負けるが、大半の野茂ファンよりファン歴は古いだろう。野茂が入団した近鉄バファローズは、1988年と89年の両年、西武ライオンズと激烈な優勝争いを展開した。1988年、1敗どころか1引き分けでもすれば西武の優勝が決定するという「全勝マジック」が出た状態で近鉄は勝ち続け、最終戦に持ち込んだが、よりにもよって引き分けで優勝を逃した。同点ホームランを打たれたエース・阿波野秀幸は泣きながらグラウンドを引き揚げた。そして、翌1989年には、西武の優勝が決定しようかというダブルヘッダーで近鉄の主砲・ブライアントが4打数連続で本塁打を放って西武を粉砕、マジックナンバーを「1」とした近鉄は、前年の無念を晴らすかのように再び阿波野をリリーフに送って9年ぶりのリーグ優勝を遂げたのだった。勢いに乗った近鉄は、日本シリーズでも巨人に3連勝したが、「巨人はロッテより弱い」と言って巨人をバカにした加藤哲郎の発言が巨人の選手たちを怒らせ、第4戦から4連敗した近鉄は初の日本一を逃した。そして、2004年にオリックスと合併した近鉄は、ついに日本一になることなく球団史に幕を下ろしたのだった(今のオリックスバファローズの存続球団は旧オリックスブルーウェーブであって、旧近鉄バファローズではないはずだ)。
そんな球団にくじで引き当てられてドラフト1位で入団したのが野茂英雄だった。
近鉄バファローズ同様、野茂も浮き沈みの激しい選手で、開幕からしばらくはノーコンがたたってなかなか勝利投手になれなかった。二桁三振を奪いながら、二桁与四球でためた走者をタイムリーヒットで返されて敗戦投手になったりしていた。
翌日、職場で「二桁三振をとりながら、二桁四球を出して打たれ、負け投手になるなんて、野茂は本当に怪物なんだろうか」と言ったら、職場の先輩が「プロらしい選手だ」と感想を漏らした。そして野茂は初勝利を挙げた試合でいきなり当時の日本タイ記録となる1試合17奪三振を記録し、アナウンサーに「野茂はやはり怪物でした」と言わせた。
人のできないことをやる男。野茂は真のパイオニアだった。日本で最後のシーズンとなった1994年の開幕戦(対西武)では、4回までに11三振を奪ってノーヒットに抑え、三振の記録とノーヒットノーランを同時に達成するのではないかと思わせた。結局5回以降奪三振のペースは落ちたが、8回までノーヒット。0対0で迎えた9回表に3点の援護をもらって、さあ大記録と思ったところで清原和博に打たれた。しかも、鈴木監督がリリーフに送った赤堀も打たれて、近鉄は試合にも敗れてしまった。
この試合に象徴されるように、野茂の野球人生は山あり谷ありだった。1995年に渡米した時には、「出る杭は打たれる」の諺通り、野茂はマスコミや近鉄の鈴木監督(当時)から大バッシングを浴びた。野茂は、日本プロ野球にデビューした時と同じように、初勝利までしばらく時間がかかったが、ひとたび初勝利を挙げるとメジャーリーガーたちから三振の山を築き、オールスター戦で先発するまでに至り、日米に多数の「NOMOマニア」を生んだ。前年のストライキで人気を落としたMLB(メジャーリーグベースボール)の救世主とまで言われ、数ヶ月前に野茂をバッシングしていたマスコミは、掌を返すように野茂をほめあげた。そんな中、鈴木監督だけは苦虫を噛み潰していた。
野茂は1996年にノーヒット・ノーランを記録したが、98年には故障が元になった不振を理由にドジャースを放出され、移籍先のメッツでも良い働きはできなかったため、翌99年はマイナーからのスタートとなった。しかし、ミルウォーキー・ブリュワーズで復活し、地元で大人気を博した。野茂はデトロイトを経て2001年にはボストン・レッドソックス入りし、ここでもノーヒット・ノーランを記録。2002年には古巣ドジャースに戻って、翌03年にかけてエースとして活躍した。2002年には大投手ランディ・ジョンソンと投げ合って、自ら決勝二塁打を放って勝ち、2003年の開幕戦でも再び対戦したジョンソンに投げ勝って完封勝利を飾った。同年には、ジョンソンとともにアリゾナ・ダイヤモンドバックスの二枚看板といわれたカート・シリングとの息詰まる投手戦を制したこともある。しかし、この年のオフの手術からなかなか回復せず、翌年の不調で再びドジャースを解雇され、2005年にタンパベイ・デビルレイズで日米通算200勝を挙げたのだった。
それでも2003年オフの手術の影響からか、野茂は本格的な復活には至らず、05年途中にタンパベイを解雇されると、以後今年に入ってメジャーのマウンドに復帰するまでに1000日を要した。その間ベネズエラで投げたりもした。やっとこさメジャーのマウンドに戻った野茂だったが、全盛期からはほど遠い投球で、登板しては打ち込まれ、カンザスシティ・ロイヤルズからの解雇もやむなしだった。
野茂は2003年に「NOMOベースボールクラブ」を立ち上げ、野球部の廃部が相次ぐ日本のアマチュア野球界の再活性化にも心を砕いた。
誰もが予想できないことをやり遂げる男だった。そして、何よりもリスペクトに値するのは、得意の絶頂にあっても驕らず、失意のどん底にあっても悪びれないその生き方だ。「自己責任」とは名ばかりで、階級の固定化を狙いとしている新自由主義の世界と違って、真に「自己責任」が求められる世界で生きた男のすがすがしさが、そこにはある。
野茂英雄の引退によって、一つの時代が終わった。
※野茂英雄公式ウェブサイト
http://ballplayers.jp/nomo/
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