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「”オバサンとセックスしたい”って叫びが絶筆になるのは情けないからとりあえず更新しろ。」と友人から電話が入った。いや、わたしが「オバサンとセックスしたい」って言ってるんじゃなくて「オバサンだってセックスしたい」って本の感想なんですけど。
震災のあと色々な人が色々なことを言うのを読んだり聞いたりした。自らの境遇をかえりみず助けあう人々の姿の美しさについて。立ち上がれないほどの打撃を受けても立ち上がろうとする人々の力強さについて。危険な現場に飛びこむ人々の勇敢さについて。見ず知らずの人々に手を差し伸べてくれる世界中の人々への感謝について。 また、色々な人が色々なことを言うのを読んだり聞いたりした。この事態を招いた原発なるものへの”信頼”をいまだに説く人。”外国人”の排除を説く人。被曝者の排除を説く人。 私にはこの国の人々がさっぱりわからない。弱く哀しい者への慈愛を示す同じ人々が弱く哀しい者を虐げる者を圧倒的に支持する姿が。どうやってそれを両立させ得ているのかさっぱりわからないのだ。 たくさんの人々が「日本はこれで変わるだろう、変わらざるを得ないだろう。」と言うのを聞いた。 変わったのだろうか?川崎やつくばで起きた事は?あるいはこれから変わるのだろうか? #
by sivaprod
| 2011-04-20 05:48
| よしなしごと
妙齢の美女に耳元でそう囁かれて口説かれたワケでは残念ながらなくて。こういうタイトルの岩井志麻子さんのエッセイ本を読んだんです。でこれがバツグンに面白かったのだった。「あってはならないと思われているオバサンの性欲」という章から始まる「ふつーのオバサンがセックスを楽しむ相手をゲットするには」なあれこれ。”熟女”じゃなくて”オバサン”ですよ?面白そうでしょう?
若い頃は「中高年のセックス」なんて考えたくもないというかそんなものが実在するのか?なシロモノだったのだけど、もはや私自身が青少年から見れば「あんなオッサンオバハンらのセックスライフなぞ考えるだけでグロテスク」と思われるであろう歳となってしまった今、同じような世代のオッサンオバハン達のセックスライフってのは私にとって結構謎ってか関心事なんですよ。身近なオッサンオバハンたちとよく話すのが「精神的成長が高校くらいで止まってるにも関わらず肉体的にはオッサンオバハンになってることの非情さについて」だったりして、そういうのってセックスライフにおいて大きく影を落とすような気がするのだけど、みんなそのへんのギャップとどう付き合ってるのか。 もっとも自分をも含めて周囲を観察してみるに、大半のオッサンオバハンは自分がオッサンオバハンであるがゆえにもはやセックスを諦めてるか、あるいは逆に自分がオッサンオバハンであることを見ないふりしてセックスを求めるかどちらかのようで、前者はモッタイナイし後者は痛々しい。この本はそういうオッサンオバハンに「オッサンオバハンであるがままモテる」ためのよき指針を示してくれるかもしれません。 戯言はともかく「オバサンだってセックスしたい」は読み物としてもめちゃくちゃ面白くって、中でも 「ていうか母ちゃん、はっきり言ってあの時の声が大きいよ。ぼく、隣の部屋で聞いててつらいんだよー。オナニーしているときに母ちゃんの声を聞くとなえる」 って著者の息子がボヤく話で大爆笑してしまったのだけど、いやいい親子だよねえ。 #
by sivaprod
| 2011-01-25 06:44
| 読む
まあ中古好きっていうのはわたしが吝嗇であるがゆえという点も決して否定出来ないのだが。いいカッコ言わせてもらえば、古いモノを選んでしまうのはモノを作った人々の「どや顔」を受け止めたいからなんですよね。
「どや!この出来栄えは!」とか「どや!この部分の構造の妙は!」って顔を製品を通して感じたい。もちろん現行の製品であってもそういう表情が感じられるモノはたくさんあるのだけど、やはりどうしても現在のシビアなビジネス環境ではオーバークォリティが許されにくい。マーケティングなるものを突き破る熱情をモノを作る人々が維持しにくい空気が漂ってるわけで。”色気”と”節約”を両立させるのは至難の技なのです。 デザイナーであるわたしは出来得る限り「どや!」っと得意顔ができるような仕事を心がけてはいるのですが、プラベートな領域ではどうしたってまだモノ作りの現場に余裕のあった時代に作られたモノ、モノづくりの構造が転換される前の時代のモノを選んでしまうのです。 下の写真は年末に組んだ90年代のパナソニック「レ・マイヨ」。ツール・ド・フランスで日本のフレームメーカーとして初めてマイヨ・ジョーヌを獲得した大阪のオッサンたちの「どや!」があちこちから顔を出しています。 追記:Sさん、アウターローは見なかったことにして...。 #
by sivaprod
| 2011-01-20 05:50
| デザイン
年末についつい買わずとも良い古いロードバイクを購入しせずともよいレストアをしてしまったのでこれで部屋にある自転車は4台になってしまった。自分のでないものも合わせてここ一年で10台以上古い自転車をレストアしてる。私はいったいなにをやっているのだ。
同好の士ならわかっていただけると思うが、わたしは動かなかったものが動いたり汚れていたものがキレイになったりすると得も言えぬ快感を覚える性癖の持ち主である(小学生のころは誰にも頼まれもせぬのに学校中の掃除道具を手入れしたり修理したりしてまわった)。そういう性癖の持ち主が生活や趣味の道具を購入する基準は当然の如く「いかにその道具の深い階層にアクセスできるか?」となりできるだけシンプルでマニュアル操作が可能なものを選ぶようになる。手入れや修理を楽しめるように、というワケの分からない購買動機である。それだけで留まっていればいいのだが、その病が高じると今度は手入れや修理することが目的となり、そういうことが当分必要のない新品を購入するのが物足りなくなる。 で困ったことに現代ではリサイクル店やネットオークションにて「手入れや修理を楽しめる」ステキなアレコレがいくらでも手に入る。さらに困ったことに今では手入れや修理に必要な情報は大概のものがネットを介して入手することができる。これでは「お手入れ&修理フェチ」にブレーキがかからないではないか。 かくて銀塩カメラは100台以上、ギターやウクレレが数十本、モーターサイクルも十数台、私の元に蝟集しては去っていった。それでもどうしたって全てを常用出来ないような数のカメラやギターやモーターサイクルとそれらに関連するパーツ類や専用工具が手元に残っている(マイクロフライス盤まで買ってしまってるし…)。その上に自転車を「お手入れ&修理フェチ」の対象にしてどうしようというのか。 これも同好の士ならわかっていただけると思うが、そうやって気兼ねなく手入れや修理を楽しめる中古品とそれを手入れや修理するための道具や資材を購入した金額を積算すると、その趣味の分野にてかなり上位に位置するモノが新品で買えたりするのに気がついて暗然とする日がかならずやってくるのだ。自転車も遠からずそうなる日が来てしまうに違いない。 年齢を考えるとモノが増えるばかりのこういう趣味もそろそろ手仕舞いを考えなければ、と一生懸命自制心を働かせようとするも、サビだらけ汚れだらけであったものが燦然と輝きあたかも「蘇らせてくれてくれてありがとう!」とこちらを見て微笑んででもいるかのような鉄やアルミや木材を撫でさする悦楽というものからは逃れられそうもない。 ああ、どなたか。心置きなくサビ落としやバフ掛けできるジャンクをわたしにお与えください! #
by sivaprod
| 2011-01-13 21:03
| よしなしごと
今年も残り僅か、お世話になった方々にはお礼を申し上げます。2010年はあなたにとって良い年だったでしょうか。
でわたしの2010年はというと自転車という乗り物にまみれた年でした。 オートバイで峠に向かってると汗とヨダレにまみれ坂を登る自転車乗りを追い越すことが多々あり、その度に「こいつらなんでわざわざそんなしんどいことを。アホちゃうか…。」と感心しつつ呆れていたのですが、まさか自分が同じ姿を自ら進んで路上にさらすことになるとは。それもブロックタイヤを履いたMTBでもって。 はるか昔、フィットネス自転車なるものが流行った時にミーハーな私も当時かろうじて手の届くアルミフレームの自転車(アルミフレームがステイタスだったのです)だったブリジストンのレイダックというバイクを購入し通勤バイカーと洒落てはみたものの、ペダルを踏む楽しみを見出すより先に段差だらけ信号だらけの通勤路を始業時間に間に合うように必死で漕ぐことが苦痛で早々にレイダックは売り払ったのでした。 それから幾星霜、それまでなら考えもしなかった「自転車で峠を越える」ということに挑戦したくなったのは、実はオートバイ乗りとして自転車乗りに微妙なコンプレックスをずっと抱えていて、とりあえずその落とし前だけはつけておこうと思ったからなのでした。乗り物間ヒエラルキーとでも申しましょうか、乗り物に勝手に「エライ・エラくない」順位を付けてしまうという邪な心を持っている乗り物趣味者は私だけではないと思うのだけど、私の場合「路上の王」は自転車だったわけです。それも路上で一番「自由」なのはパツパツのレーサーパンツを履いて水すましみたいに走るロードバイクではなくツーリング自転車であると(ちなみに私の中でオートバイで一番エライのはテントと寝袋を積んだトライアル車。自動車ならスーパーセブン)。 とりあえずこれまでオートバイで越えた一番高い峠はクリアしておかなければ、とかなり悲壮な覚悟で出かけた信州への輪行ツーリング。これでやられてしまいました。たしかに汗とヨダレと筋肉痛にまみれた悲惨な旅ではあったのだけど、それよりもこんな自由な乗り物があったのかと。オートバイや自動車でロングツーリングに出る時の「ガス欠や故障で立ち往生する心配」「おまわりさんに切符切られる心配」などのごくわずかではあるけど心から離れない「どよん…」から解放されるのはただごとではない爽快さ。自転車ならたとえ走行不能になろうともバラして袋に入れれば一緒に帰って来られるのだから。 そして工具箱ひとつあればほぼ全ての不具合が自分で直せるということの自由。ブラックボックスが無い自由。最小単位にバラバラになったパーツからでも自分で組み上げてしまえる自由。 汗やヨダレにまみれたり自分で修理したり、というシンドイことをもって「自由」になるというのはなんだか矛盾してるようだけど、「自由」というのは「選択できる」っていうことではないのかな、楽チンになるということはある面「自由」を売り渡すということではないのかな、と自転車に乗って実感したのでありました。 #
by sivaprod
| 2010-12-30 07:54
| 乗る
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