粛宗実録 1696年9月25日
倭人は「我らは本来松島に住んでいる。偶然漁に出て来ただけで、今ちょうどそこへ帰るところだ。」と言うので、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。おまえらは何故敢えてそこに住むのだ。」と言った。
安竜福一行はそのまま日本の伯耆州に入って行ったが、この時安竜福は、伯耆州の領主と対等に対するため 鬱陵 于(子)山 両島 監税将 (鬱陵島・于(子)山島両島の監税官)という職を名乗り、伯耆州の領主は、安竜福に「両島(鬱陵島と于山島)は既にあなたの国に属した後だから、もしまた犯越する者がいたり横侵するようなことがあれば、文書を作成して通訳官とともに送ってくれれば、当然に厳重に処罰する。」と約束した。この事実は 『肅宗実録』肅宗 22年(1696年) 9月25日の条に詳しく記録され、于山島が独島であり日本では「松島」と呼称されているが朝鮮領土であることがよく証明されている。
安龍福は,帰国後の取調べで,日本人に向かって「松島は即ち子山島(于山島)である,これもまた我が国の地だ。お前はどうしてここに住むのか(松島即子山島、此亦我国地、汝敢住此耶)」と詰問したと供述しています。この年,日本人は鬱陵島に渡海していないので,この話も事実ではありません。なお,安龍福は,于山島には人が住めると思い込んでいたふしがあります。安龍福は1693年に鬱陵島で漁をしていた際,仲間から鬱陵島の東北にある島を于山島と教えられ(『竹島紀事』)、日本に連れて来られる時には、「鬱陵島よりすこぶる大きな島」を目撃したとしています(『辺例集要』)。安龍福が「松島は子山島である」としたのは,1693年に日本に連れて来られた間に知った松島(今日の竹島)の名前を朝鮮が伝統的な知識として有していた于山島に当てはめた結果であると考えられますが,「松島は子山島である」というのも名称上のことで,今日の竹島を指していたわけではありません。
竹島一件の当時、朝鮮との交渉において松島の名は一切出てきておらず、朝鮮側の地図を見ても朝鮮政府は松島を全く認識していない事がわかるほか、その後の竹島事件において幕府の筆頭老中だった浜田藩主松平周防守康任が「竹島(鬱陵島)は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」としたことや、「松島へ渡航の名目をもって竹島(鬱陵島)にわたり」との判決文の一節を見ると、竹島(鬱陵島)への渡航は禁止したが松島への渡航は禁止されていなかった事もわかる。
後の朝鮮での証言記録と実際とは食い違う点が多数あり、日本では朝鮮政府の使者であるかのごとく振る舞い、朝鮮では武勇伝を繰り広げた人物ではあるが、朝鮮の東莱府使は「漂風ノ愚民ニ至リテハ、タトヒ作為スル所アルモ、朝家ノ知ル所ニアラズシテ」(肅宗実録 31巻 23年 2月 14日)と答えており、安龍福が朝鮮の役人や使者ではなかったこと、単独行動に虚偽の箔をつけて大言壮語していたことが明らかである。