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東日本大震災

2011年3月11日に発生した東日本大震災。復興の様子や課題、人々の移ろいを取り上げます。

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宮城で被災、移住先・福岡でPTSD発症の男性 「語り部」が立ち直るきっかけに

東日本大震災の「語り部」として講演する宮城県出身の斎藤直志さん=福岡市早良区西新6の西南学院大で2020年2月26日午後2時19分、浅野孝仁撮影
東日本大震災の「語り部」として講演する宮城県出身の斎藤直志さん=福岡市早良区西新6の西南学院大で2020年2月26日午後2時19分、浅野孝仁撮影

 東日本大震災の被災地、宮城県亘理町(わたりちょう)から福岡県に移り住んだ斎藤直志さん(51)の心に異変が生じたのは、震災から1年数カ月がたったころだった。新たな土地で生活が落ち着き緊張の糸が切れたのか、突発的によみがえる津波の恐怖に苦しめられるようになった。心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断され、仕事も失った斎藤さんが立ち直るきっかけになったのが、2017年7月の九州北部豪雨を機に始めた「語り部」活動だった。【浅野孝仁】

 「災害が発生して、いったん避難したら本当に安全だと分かるまで家に戻らないでください」。2月末、斎藤さんは福岡市の西南学院大で学生や職員ら15人を前に、11年3月11日に起きた東日本大震災の被災地の写真を見せながら訴えた。震災では多くの人が一度避難した後、忘れ物を取りに行ったりペットを連れ出したりするために自宅に戻り、津波の犠牲になった。

 斎藤さんはあの日、亘理町の南隣の山元町にある食品工場で勤務していた。猛烈な揺れの後、どす黒い津波が沿岸部の街をのみ込んでいくのを高台の工場からぼうぜんと見るしかなかった。住んでいたアパートは幸い津波の被害を免れたが、ライフラインは途絶え、当時妊娠6カ月の妻の親戚宅に身を寄せた。

 震災から2カ月後、工場再開のめどが立たない会社から、福岡にある別の工場への転勤か退職を選ぶよう打診された。行方不明の友人の捜索を続けることも考えたが、工場が再開されれば戻れると思い、転勤を選んだ。

 その1年後には長男を出産した妻を福岡に呼び寄せ、3人暮らしが始まった。心に変調をきたすようになったのは、このころからだ。濁った川の流れを見ると津波を思い出して足が…

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