『地域再生の罠』『地域再生の条件』『地域再生の経済学』


 実家で父の車に乗っていたら、父の知りあいの話になった。
 Sという大企業の下請をやっている中小企業のオヤジ・Bさんの話だったが、顔が薬品でボロボロだとか。
 Bさんは、S社に「Bさん、今日の緊急会議に出られるかな」といつも呼ばれる。その会議は必ず「単価切り下げ」の話なのだ。いかにこの情勢下で大変なのかが強調され、出席した下請なんか一言も言えずに切り下げを飲まされる。
 Bさんは必死で切り下げに切り下げをくらった製品を作り続け、危険な薬品を扱うために顔がボロボロになった。まともな設備もつくらずに「安く」やったのだろう。といってもぼくは会ったことはないので、父母が話している「凄絶」さから想像するしかないのだが。

 かつて日本の地方工業は、安さを武器にして輸出の土台をなし、成長した。地方で富を生み出し、金融や雇用を通じてその富は地域に還流した。
 しかし、いまはその「安さ」ゆえに逆にアジア諸国に仕事を奪われ、壊滅状態に陥っている。生き残った企業は先のない死闘を繰り広げ続けている。

 地方を支えてきたものは、

  1. 富を生み出すものとしての地方工業
  2. 一部は富を生み出し、一部は富の移転をうけてきた農林水産業
  3. 富の移転をになう公共事業
  4. 富を地域に循環させる商店街


であった。移転されてきた富は、大都市で大企業を先頭に稼ぎ出されてきたものである。

 現在、このすべてが衰退もしくはゆきづまりを見せている。
 地域再生とは、(A)地方でどうやって富を生み出すか、(B)中央に蓄積された富をどうやって移転させるか、(C)移転されてきた富をどうやって地域に長く循環させるか、という問題である(「地域」と「地方」は違う、という論点があるがここでは同じものとして扱う)。

 さて、「地域再生」を論じた3冊の新書。

 どの本も地域再生にかかわるアイデアや構想、現状批判を書いているのだが、富の原資をいったいどこから持ってくるのか、明確ではない。あるいはよく読まないとわからないようになっている。


久繁哲之介『地域再生の罠』

地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書) まず、久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』(ちくま新書)。これは2010年7月に書かれたもので、この3冊のなかでは一番新しい。

 この本が痛快なのは、都市の実名をあげて、「成功例」とされている地域再生策を堂々と批判していることである。これはよほどの自信がないとできることではない。

 冒頭に宇都宮市で「109」という渋谷の大型商業施設をサルマネのようにもってきたことがいかに失敗であるかを、現地の女性客の会話から推察していく。実際に109は4年弱で撤退している。
 久繁の言いたいことは、その地域で生活している人の実情や心情をつかまないで、机上で設計される「地域再生」策がいかに空しいものか、ということだ。

 ぼくが心に残ったのは、「若者をいかに衰退した街中へ誘導するか」という議論で、オヤジ側は地酒や地場産品にこだわった「地域再生」をすぐアイデアで出すけども、若い人は家でダラダラしている方が好きであり、薄めたカルピスのような酒が出るチェーン系の居酒屋であっても「地下でケータイがつながる」ことのほうがはるかに重要なのだ、という当たり前の事実をすっかり忘れている、という指摘であった。

 要は、ビジネスで真剣にやる市場調査が全然されていないのである。学者や役所、もしくは地元名士というかオヤジたちの「理想」「理念」ばかりが先にあり、実際の心のヒダに食い込むような策が提示されてない、と批判するのだ。

 久繁は、「地域のスポーツセンター」をつくり、そこで交流をはかる、という策を提案している。それ以外の提案でも「憩いの場」をどうつくりだすかを熱心に考えている。
 いわば「ダラダラと居心地よく居座れる場所」をつくりだそうとしているのだ。これはネットにおける「フリー」の議論にも似ている。収益があがるかどうかではなくて、まず「人が集まりたくなる」という場所をどうつくるかを考えているのである。

 久繁は「スローフード」論を主張しているが、それはよく言われるような「自然派」「環境派」系の議論ではなく、文字通り「ダラダラゆっくり食事」できるような交流にその核心がある。「居場所」論ではないけども、あまりの居心地のよさに、ついそこに足がむいてしまうような場が地域に創りだされねばならないというのだ。

 この議論は確かに傾聴に値する。
 ただ、それは「街のにぎわい」をどう生み出すか、もう少し角度を変えていうと「商店街や商業的にぎわい」をどう生み出すか、という点においては、という限定つきである。

 冒頭にのべたように、「地域再生」という課題は、このようなことだけではとうてい解決されない問題である。雇用も仕事もない土地には「にぎわい」もクソもない。



本間義人『地域再生の条件』(岩波新書)

地域再生の条件 (岩波新書) 本間義人『地域再生の条件』(岩波新書)は2007年に刊行されたものだ。小泉構造改革の流れがいったんゆるやかになり、「構造改革」によって地方の疲弊がむしろ加速したのではないか、という議論が起こり出した時期である。

 本書は、『地域再生の罠』よりははるかに網羅的である。
 そして、自民党政権が押し出してきた「地域再生」策に次のような疑問を投げかけている。

まず二〇〇二年一〇月、内閣に「地域再生本部」が設置されたことが〔政府のホームページに――引用者注〕記述されています。HP上には「地域経済の活性化と地域雇用の創造を、地域の視点から積極的かつ総合的に推進する」のが、この地域再生本部設置の目的であると説明されています。しかし、経済を活性化させるのは重要だとしても、たとえば地方の疲弊した地域をよみがえらせるのに経済に重点をおくのみでいいのかどうか。もっと違う視点、あるいはもっと幅広い視点がなければならないのではないか。(本間p.8)

 本間は「経済中心」の「地域再生」に疑問を投げかける。
 しかし、ぼくの「地域再生」の論点はまさに「経済」であるように、本間の論点はぼくの考えを批判するものになっている。経済を重視するという点では、奇しくも自民党政権とぼくの問題意識は同じなのである。
 本間がまっさきに重要視するのは、「人権が保障された地域」である。
 経済が立ち直っても、富がやってきても、その地域に住んでいる人の生活が人間らしくなければ本末転倒だ、というわけだ。

 それ自体もっともなことだ。
 しかし、本間がそこにあげた、公共交通の確保や子育て支援というものを、一体なんの原資で担うのか。中央からの富の移転なのか。地方で富を稼ぎ出し循環させるのか。それこそが地方の衰退問題の核心ではないのか。

 この問いに応えた章は、本間の本では第3章「地場産業で生活できる地域をつくる」である。

 本間が提唱するのは、たとえば農林業でいえば、「売れる商品」「高付加価値」のものをつくりだすことだ。林業を論じたところでは、中国への秋田杉の輸出などが語られ、次のようなセリフも飛び出す。

輸入するばかりでなく輸出もと発想の転換を図ることによって、官民で林業の活路を拓こうとしている地方が、宮崎県に続いて出はじめていることも近年の特徴です。いま紹介した『毎日新聞』記事の見出しは「攻めの農林業へ」というものでした。前述の「守りから攻めへ」です。(本間p.81-82)

 本間は本書では書いていないけども、最近の日経新聞でTPP推進の議論を展開していた。
 本間は次のようにも書いている。

宮川など各地で始まっている森林を利用した施策を見て思うのは、その先に単なる市場原理のなかにはおさまらない循環型経済が見えてくることです。その循環型経済をつくり上げることができるかどうかに、地域の自立もまたかかっているといっていいでしょう。(本間p.81)

 本間がここでイメージしているのは、輸出もできるような商品化され高い付加価値の農林水産物、もしくはその加工品をつくりだし(一種のブランド化)、その富を地域で循環させるしくみで、紹介されている事例でいえば、もはや自治体がまるごと産業を協同して推進する「公社」的システムであり、さらにそこに「特養ホーム」などの福祉事業までを合体させてしまうのである。人民公社というのは語弊があるが、コミューンだ。

 ブランド化については、前述の久繁が次のように批判している。

食の「グルメ化」「ブランド化」は、食の提供者も顧客も「美味しさ、価格の安さ、知名度の高さ」にばかり価値を見出そうとしがちだ。この価値基準は、非常に厳しい競争にさらされることは明々白々である。しかも、競争相手は他の地域のみならず、大企業の商品や店舗もその対象となる。並大抵の努力では激しい競争を勝ち残ることはできないだろう。(久繁p.83)

 このような戦争を勝ち抜くために、自治体がまるごと一つの協同組合になって挑戦するというのは、まあ一つの策ではある。協同化する以外には、個々の農家にはほとんどできないだろう。
 そして国内だけでなく、アジアの富裕層にむけて発信するというのであれば、理屈の上では敗者の山を築かない、「Win-Win」の方策となることができる。
 しかし、あくまでそれは「理屈の上」なのだ。
 いかに農業が「ぽっと出」の人間にはできないものだとしても*1、大企業がたとえばノウハウだけをアジアに移植して安い労働力で作り出したらどうなるだろう? アジアの諸地域が日本を凌駕したら? 
 ぼくはこの構想を全否定するつもりはない。ひとつの可能性ではあるような気がする。ただ「どうなるか全然わからない」というのが率直なところなのだ。



 本間の「地域経済」にかんする議論は、この農林業についてと、商店街についてだけで、地方工業をどうするかについてはふれられていない。
 商店街については福岡市の商店街がとりあげられていて、なぜそこが成功しているのか、理由は一応書いてあるが、客層をしぼるとか地元産品を使うとか書いてあって、「ホントにそれが成功理由なのかよ」といぶからざるを得ない。福岡市が九州の富を集中させている都市であり、それゆえの「ゆとり」であるように思われてならないのだが。
 いずれにせよ、農林業についても、上記の話はぼくが話を広げただけであって、明確にそのように書いてあるわけでもない。商店街のことも疑問が残ったままだ。地方工業についてはほとんど記述がない。
 それゆえに、本書では「どうしたら地域再生の要である地域経済が再生するのか」が今ひとつハッキリしないのである。

中小企業が日本経済を救う

 この点で地方工業の衰退をモデル化し、実証的な再生経験をあわせて論じたのは森靖雄『中小企業が日本経済を救う』(大月書店)である。大量生産・廉価販売という陶器生産をしていた地方が、どのようにその産業モデルを脱していくのか、などを書いている。この本についてはまた触れることもあるだろうから、今回は省略する。


神野直彦『地域再生の経済学』(中公新書)

地域再生の経済学―豊かさを問い直す (中公新書)
 最後に、神野直彦『地域再生の経済学 豊かさを問い直す』(中公新書)で、この本は2002年、小泉構造改革の真っ最中に出た本である。
 この本は「網羅的」どころか、工業社会の苦悩、市場社会の限界、などといった文明史的視点から大上段に問いなおす、とんでもない本で、200ページ足らずの新書で解決の展望まで語ってしまおうとするのだから、よく言えば大所高所からの議論、悪く言えば具体性に欠けた大ざっぱな話しかない。

 財政学の権威である神野らしく、核心は「財政から再生させる地域社会」というものだが、財政というのは、富を中央から地方に移転させるシステムであり、もしくは富を民間セクターから公的セクターに移転させるしくみである。肝心の「富」そのものをどう生み出すかについて答えてはくれない。

 しかしそういう本であっても一応の回答はある。
 第7章「知識社会に向けた地域再生」がそれである。
 神野は工業社会が終わって知識社会がやってくるという歴史認識だから、産業はそれに対応したものにならざるをえない、とする。安価な工業製品を大量生産して富を稼ぎ出したような従来型の日本の地方工業は終わっている、というわけだ。

 神野はスウェーデンでどのような地域経済が生まれているかを次の3つで指摘する。

第一に、福祉や家事、住宅の維持管理などにかかわる家族内の無償労働で担われてきたような、基礎的サービスである。第二に、地域の観光事業やそれにかかわる道路整備や施設整備、さらに地域文化のイベント事業である。第三に、ソフトウェアの開発や応用、あるいはデータ処理など情報技術(IT)を駆使した知識集約型産業である。(神野p.152)

 日本の地方には圧倒的に「第三」のものが不足している。
 知識集約型産業は、たしかに新しい社会で必要な産業となるし、地方であっても成立は可能である。
 問題は、それがどれくらいの付加価値を生み、現実にどれだけの雇用を担えるのか、それがさっぱりわからないということだ。

 神野は、

地域社会が市場社会以前に立ち戻り、自給自足的生活になる必要はない。(神野p.164)

としつつ、

地域文化に根差した生活を営む上で地域社会の外部から購入しなければならない財は本来、そう多くはないはずである。/それぞれの地域社会が生産する特産物を相互に交換し合えば、地域文化に育まれた生活を営むことは容易である。(p.164-165)

という大胆な結論を出す。
 これは馬鹿げた妄想ではなかろうか? もしくはライフスタイルと生産スタイルの革命を必要とするのではなかろうか?――そういう危惧がどうしてもつきまとう。


 3冊をよんで、ぼくがぼんやりと描いた「地域再生」の姿は次のようなものである。

  • (イ)農林業は商品化と高付加価値のものにシフトし、そのためには小さな町村規模の自治体がまるごと協同組合化するようなものにならなければいけない。農協はそのような役割を発揮すべきである。アジアにも輸出する。
  • (ロ)知識集約型産業を地方で発展させるために、基礎的な教育をふくめて、人的資本への投資を高める必要がある。
  • (ハ)地方工業も廉価・大量生産型のものは、もう見捨てるしかないが、高付加価値化やブランド化は一部では可能だが、とてもまともに全体が生き残るものにはならない。
  • (ニ)もちろん前提として、中央で大企業が吸い集めた富を、公的セクターに移転するような増税、再分配機能の強化は必要となる。
  • (ホ)公共事業は生活密着型のものにし、介護や医療、福祉などのサービスをさかんにすることで、富や労働が地域で循環するしくみをつくる。

 これでいえば(ニ)(ホ)はわりと明瞭なのだが、問題は(イ)〜(ハ)があまりはっきりしていない、ということだ。

 ご批判を待つ。

*1:「企業を農業に参入させれば、遅れている農業はうまくいく」という論は現実を見誤っている。農業を甘くみてはいけない。技術やノウハウの蓄積がなければ、まともな生産もままならない。そんななか設備投資を続け、一定の給与を払い続けなければならない企業の多くが投資倒れしている。何十年も経営を継続、発展している農場に対して、何の優位性もないのだから当たり前だ。「農業に参入した企業の九割が赤字」というのも頷ける。(浅川芳裕『日本は世界5位の農業大国』)