魯迅「藤野先生」

 リモート読書会で魯迅の「藤野先生」を読む。

 めちゃくちゃ短い小説である。

 魯迅の自伝的な短編小説で、彼が日本に留学した時に出会った藤野厳九郎という解剖学の教師の思い出をもとに描いている。

 ネットでは竹内好訳でPDFがアップされている。

fic.xsrv.jp

 

中国人が殺されるのを見物している中国人

 日露戦争の様子が幻燈で映し出されるのを「私」を含めた学生たちが見るシーンが出てくる。

私は、つづいて中国人の銃殺を参観する運命にめぐりあった。第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになっていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりであった。ところが、ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現われた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であった。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。「萬歳!」彼らは、みな手を拍って歓声をあげた。 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがったものだったが、私にとっては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰ってからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまって、酒に酔ったように喝采する――ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変ったのだ。 

 銃殺される中国人同胞を見物的に眺めている、という中国の民衆の姿に、「私」が自分が何をしなくてはいけないのかを痛烈に悟った、というシーンである。医学ではなく、文学で民衆を変えなくてはならないと感じたのである。

 

馬々虎々を克服するという民族的課題

 片山智行『魯迅』(中公新書)では、「はじめに」のところで、魯迅の思想の核、問題意識、テーマのようなものについて論じているが、魯迅が日本の親交者(内山完造)に送った手紙の一節が紹介されている。

 

 

支那四億の民衆は大きな病気に罹って居る。ソシテ其病源は例の馬々虎々と云うことだネー、アノどうでもよいと云う不真面目な生活態度であると思う

 馬々虎々は「マアマアフウフウ」、「いい加減」という意味である。(ちなみにうちの父は中国に何度も旅行に行っているが、唯一覚えて帰ってきたのがこの「馬々虎々」であった。)

 

 片山はその問題意識を『阿Q正伝』の主人公を引きながら次のようにまとめている。

帝国主義列強に侵略された半封建社会の当時の中国には、阿Q(あキュー)のようなルンペンに近い貧しい農民がたくさんおり、港に行けば、ボロを着た痩せた苦力が群れをなして仕事を求めていた。半植民地に生きるかれらは多くの場合、どんなにひどい目にあわされても、ただ「没法子(メイファーズ、仕方がない)としかいえなかった。蹴られても没法子、殴られても没法子、と無抵抗にあきらめきった状態で毎日を過ごしていたのである。

 

理不尽きわまる暴虐な行為にたいして、なんらの正当な抵抗もせず、ただ見せ物を見るように見物するだけでは、人間としての価値はない。ここに見られる民衆は、どんなひどい目にあわされても「没法子」と諦めている苦力たちと同じく、「馬々虎々」に生きていたといわねばならないのである。「同情すべき又憤慨すべき道程」があったにしても。(片山)

 奴隷根性、その中でも「馬々虎々」を憎んでいたのだという。理不尽に叫びも発せず、抵抗もしない生き方=「馬々虎々」を批判したのである。

中国社会のいたるところに存在する「馬々虎々」が無限に「欺瞞」的政治社会を生み出している。これを絶つことなくして、悪霊支配の打倒はありえない。魯迅が中国(民族)再生のためにもっとも力をそそいだのはこの問題であった。(片山)

たとえ主張することが「革命」「解放」「正義」であろうとも、もしもその人間が実質をいい加減にして看板(名)に安住するならば、たちまち堕落が始まる。旧支配者が儒教(名)を支配の道具として利用したように、革命者が威圧的に「名」を振りかざすのみであるならば、知らぬ間に悪霊支配に陥っていくであろう。魯迅がつねにきびしく警告していることは、まさにこの問題なのである(片山、強調は引用者)

 

講談社文芸文庫には「馬々虎々」を批判した作品がたくさん

 ぼくが買った講談社文芸文庫にはこうした問題意識が充満した短編がたくさん載っている。

 『阿Q正伝』では、理不尽にたいして正当な抵抗もしない阿Q、それを笑って見ている民衆、辛亥革命が起きても何の生活や思想の内実の変化もなく、阿Qはただ流行に乗るように革命を叫び、革命を唾棄し、やがて処刑される。

 民衆そのものが変わらなければ、革命はできない。 革命ごっこになってしまう。

 阿Qもそうであるが、笑って見ている民衆、阿Qをうちすえる民衆に魯迅は厳しい目を向けている。

 『狂人日記』では食人という角度から中国の農村社会の骨がらみの因習を暴き、それを告発する側が狂人として扱われることを批判する、

 『孔乙己(コンイーチー)』では試験に受からず乞食同前になった孔乙己(盗みをしたとして足を折られてしまう)と、それを笑い者にする民衆が登場する。

 『薬』では生き血をかけた饅頭を食べると病気が治るという迷信にすがって息子を失う親子の話。中国の遅れた医療で命を落とした魯迅の父親の経験が反映している。

 『故郷』でも、子供の頃は眩しかった使用人の子供が、大人になってすっかり卑屈になってしまった姿が描かれる。

 『離婚』では地元ボスの言うことに、小ボスたちでさえ、誰も逆らえない様子が描かれる。

 民衆の中にある後進性そのものに目を向けて、それを文学によって批判し、文学の力で革命を起こそうとした。

 

 『阿Q正伝』では、辛亥革命という清朝を打倒して共和制が始まるという近代の序曲になった大変革が行われたはずであったが、魯迅が見つめたのは、そんな革命をになっているはずの民衆自身が何も変わっていないではないかという批判であった。

 革命や進歩の看板を掲げながら、結局内実が変わっていなければ理不尽に全く声をあげることも行動することもできない民衆の姿を描こうとした。

 これは魯迅はその後も上海クーデター、マルクス主義派との論争なので嫌というほど見ることになる。やがて中国は共産党による政権獲得を経るけども、文革というもっとも愚かな形でこの問題は徹底して顕在化することになる。

 

革命を掲げる集団の「馬々虎々」

 特にぼくの問題意識の中心に今あるのは、革命を掲げる集団がなぜ指導部・幹部の誤りに唯々諾々と付き従ってしまうのか、集団の中で少数者への抑圧や暴力が行われてもなぜそれを見物客のように眺めてしまい、むしろ幹部とともに攻撃する側に回るのか、ということである。それは魯迅が問題意識に感じたことや、その後実際に苦闘したことと非常によく似ているのではないか、と思いながら、この短編を読んだ。

 

 いくら看板に「革命」を掲げていても、その根底に批判的精神、自由で自発的な精神、独立不覊の精神がなければ、教条とそれを体現したとされる幹部という「大きなもの」に事(つか)えるだけであり、「革命」という儒教に付き従うのと何ら変わらない。

 

 短編『離婚』に出てくるのは、自分は離婚しないという地域の小ボスの娘(愛姑)。それが地域の大ボス(七大人)の前で仲裁を受ける。初めは愛姑は自分の主張を何としても通そうとし、抗弁する。七大人も寛容な顔をしつつ離婚を勧めるのだが、やがて一喝する。

 そうなるともはや愛姑やその父親は縮み上がってしまい、一も二もなく七大人の提案を受け入れるのである。

 ボスが一喝するや、何も逆らえない。愛姑の哀れな姿は、ふだんは勇ましく「革命」とか「自由」とか言いながら、たちまちのうちに奴隷根性を発揮してしまうような人間にまことによく似ている。

 

 『阿Q正伝』には「精神的勝利法」というのが登場する。阿Qはヒマ人にからかい半分に殴られる。しかし。

 阿Qはしばらくつっ立っていて、心の中でこう思うのである。「おれはまあ息子(子供)に殴られたようなものだ。いまの世の中はまったくなっとらん……」こうして彼もまた満足し、意気揚々と引きあげて行くのである。

 阿Qは心の中で思っていることを、後にはいつも口に出すようになった。そのため阿Qを笑いものにする人々は、ほとんどみな彼にこういう精神的な勝利法があることを知った。

 負けているのに勝ったと思い込むことで、心の平穏を保つ働きだ。個人の心理としては大事な避難のための方便となりうるとは思うが、組織や社会がこれをやる・やり続けると自分たちの惨めさを糊塗し、ごまかすことになっていく。だから魯迅はここで阿Qを借りて痛烈に批判しているのだろう。

 負けているのに勝ったと自分に言い聞かせる。あるいは負けたことを直視しない。

 そういうことばかりしている組織はやがて衰退していくに違いない。

 

「藤野先生」という理想

 「藤野先生」は「馬々虎々」=「不真面目な生活態度」とは対照的な、理想の形象として登場する。

 一言で言えば、それは「真面目」ということである。「真面目」は近代化のエトスだ。

だが、なぜか知らないが、わたしはいまでもときどき彼のことを思い出す。わたしがわたしの師であると思いきめている人の中で、彼はもっともわたしを感激させ、わたしを励ましてくれた人なのである。おりにふれてわたしはいつもこう考える。彼のわたしにたいする熱心な希望、倦むことのない教えは、小にしていえば、中国のためであり、中国に新しい医学のおこることを希望してである。大にしていえば、学術のためであり、新しい医学が中国へ伝わることを希望してである。彼の人格は、わたしの眼の中と心の中において偉大である。

 「支那四億の民衆は大きな病気に罹っている。そしてその病源は例の馬馬虎虎という不真面目な生活態度であると思う」という「馬馬虎虎」の姿勢と対比的に藤野先生のノートにびっしりと書いた添削の文字がある。中国の医学をよくするという近代化の正しい課題において真面目で実直である藤野先生は、中国人が克服すべき近代化の形象として見えたのではないか。 

 

 

 藤野厳九郎の生涯を知るには、『藤野先生と魯迅: 海を超えた師弟の交流 日本と中国の絆』が面白くわかりやすかった。

 

 

 

赤旗連載の小説「つぶての祈り」のこと

 この小説(『藤野先生』)を読もうと思ったのは、「しんぶん赤旗」に連載されていた高校教師の物語倉園沙樹子「つぶての祈り」の中に、この小説が紹介されていたからである。

 

 「つぶての祈り」の中では「藤野先生」の中に「なしのつぶて」という言葉が登場するのだ、と書いてあって、自分の持っている講談社版で見たが、それはなかった。光文社版にもなかった。ネットにあった竹内訳にもなかった。

 教科書には載っているのかなと思っていたら、リモート読書会の参加者が「角川文庫にはありましたよ」と報告してくれた。

 小説の最後に藤野先生から添削してもらったノートが失われてしまい、運送屋に問い合わせたが「なしのつぶて」だったと書いてあるらしい。(竹内訳では「返事もよこさなかった」、講談社版の駒田信二訳でも「何の返事もよこさなかった」)

 ※なおこのノートはその後発見された。中国では国宝扱いされている。

 

 魯迅はその後藤野先生とは連絡を全くとらなかったのだが、藤野先生の生き様や教えは魯迅に深く影響を与えた。藤野先生から見れば、魯迅は「なしのつぶて」の教え子だったのだが、しかし、それは藤野先生が知らないところでその教えが花開いていたということである。

 「つぶての祈り」に出てくる高校教師の話は、彼・彼女たちが生徒のために、悩んで働きかけたことが一体実っているのか無駄になっているのか、全くわからない。手応えがないという苦悩を抱えている。これで正しかったのだろうかという日々迷っている姿が描かれるのだ。しかし、藤野先生の教えが、藤野先生には届かなくても、魯迅の中で生きて育っていたように、どこかで花開いているのかもしれない。そういう祈るような気持ちをタイトルに込めたのであろう。

 この「つぶての祈り」も読み応えのある小説であった。

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