瀧波ユカリ『わたしたちは無痛恋愛がしたい』5・6

 組織にとって自分はどういう人間だと思われていたのか、本当のところはよくわからない。

 だけれども、「都合のよい人間」だと思われていたんじゃないかと思う。

 別のところですでに書いたことだからここでも書くけど、額面で月20万円台の給料で50代まで甘んじ、他方で徹底した調査や文書の迅速な執筆、特にビラや広報物などは取材・執筆・DTP作業から入稿までを短時日で終えて仕上げてきた。

 それは別にぼくに限らない。

 組織の方針に忠実であることは、すなわち組織に忠実であることであり、さらにその組織を体現したと思われていた組織幹部に忠実であることは、組織の掲げる方針や理念に忠実=誠実なことであると考えてきた。

 そこには理不尽もあったし、それは違うのではないかと思ってきたこともある。

 その理不尽はいつか正されるであろうと思って、実際に正されてきたものもあったし、放置され累積されてきたこともあった。

 理不尽とたたかうのには、特に徹底してたたかうには、膨大なエネルギーが必要になる。精神と肉体と金銭その他のコストをたくさん支払わねばならない。そこまでやって乗り越えるべき理不尽ではないだろうと自分に言い聞かせながら、その理不尽にも耐えてきた。

 しかし、これはどうしても許されない理不尽、絶対に見逃せない理不尽、人生をかけてでも是正しなければならない理不尽というものが、自分に襲いかかってくる瞬間がある。

 理不尽との徹底したたたかいになった時に、理不尽を仕掛けてくる張本人たちはもちろんのこと、その周辺でその理不尽を許し、甘やかしてきた人々(ぼくもそうだったわけだが)も一緒に、その理不尽を擁護し、理不尽とたたかおうとする側を抑圧したり異常視したりする。

 

 『わたしたちは無痛恋愛がしたい』は、フェミニズム的な視点、つまり日常の生活がいかに女性が普通に生きようとするだけで生きづらい仕組みや振る舞いにあふれているかを暴いて、そこからの解放を重ねていくエピソードが重ねられている。

 その理不尽を暴いて、公正な生き方や解放を描くこと自体が、一つの正義であるから、それを「説教くさい」と思うことがあるのは、当の抑圧に苦しんでいない——というかそれを問題意識化していない側の視線だろう。女性の生き方に対する男性の視線として、ぼくも実はそちらの側に入るし、実際そう感じることがあるのだから、あまり人のことは言えないのである。

 すでにその視点については本作4巻の書評で基本点を書いた。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 だが、自分が組織から追放され、裁判を起こして、いろんな人に励まされて、女性の生き方という点においてではないが、自分も似たような気持ちを持ったという点でいっそうこうした「理不尽に怒る」「公正な解放を望む」という作品の良さを理解できたような気がする。というか連帯したい気持ちになった。

 だからドラマ「虎に翼」や本作を感動して読む一方で、それらのフェミニズムに影響された作品はどうして公正さの強調が先に立ってしまうのだろうという思いも拭えないのだが、まさしくそれは自分の当事者性が低く想像力が足りないせいなのだろうとも思う。

 

 本作5巻の終わりで、主人公のみなみは、長年の腐れ縁で付き合って都合よく扱われてきた男に「怒り」、ついに絶縁するシーンがある。そして6巻の冒頭で主人公は友人の一人と一緒にその怒りを解釈し直す。

 

 

 

 

 男から送られてきたメッセージは「いつも」の雑な扱いでしかないような気もする。しかしみなみにとっては、自分の尊厳が生じ始めてきた「仕事」に関することであって、それだけは許せないというものであった。

 尊厳の基盤がきちんと生まれ、それを脅かすものであるからこそ、怒りは正当なものであり、怒ることができたということ自身が読む人にもきちんと解放としてとらえられる。

 ああ、尊厳を脅かされた時、きちんと怒っていいんだ、怒るべきなんだ、怒ることは素晴らしいんだ、という強いメッセージがそこにある。

 「怒りは感情的なもので、負の結果しかもたらさない」というのは、まさに理不尽を押しつけている側の発言だなと思ったのは、ぼくも全く同じように言われた経験をつい最近したからである。

 数百人を前にして、ぼくがぼくに加えられたパワハラについて激しい言葉で告発した。それに対して議員や役員を名乗る男たちや女たちが、かわるがわる「紙屋は落ち着け」「なぜそんな一方的に怒りを表明するんだ」とぼくを逆に糾弾し続けたことがあったからである。

 理不尽を加えた側はすでに行為を加え、ぼくから奪い続けるだけでいい。

 抑圧され、奪いつづけられたぼくはそれを言葉で告発するしかない。告発は抑圧を客観的に叙述するだけでも激烈な調子を帯びざるを得ない。なぜなら抑圧の行為自身が激烈なものだからだ。ところが、理不尽をかばう側は一方的にぼくの言葉や態度の方を「感情的だ」と言って詰ろうとするのである。

 「あ、これって、『女は感情的にすぐ怒る』って言われているのと同じ構図だなあ」と思いながら、その非難を聞いた。

 こうした理不尽を描くことは、闘争や公正を描くことになる。

 それを説教くさいと思うのは、まさにその理不尽を生きていないからだろう、と思ったのである。逆にその理不尽を生きている人間には作品が届くことになる。

 だから、主人公が自分はちゃんと怒ることができた!と涙を流すカタルシスを描いたシーンはまるで自分のことのように読んだ。

瀧波ユカリ前掲書5巻、講談社、p.208

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