自然保護や動物愛護の運動が高まっている昨今ですが、何と昨年、人里に出没した熊が4000頭も駆除されたそうです。
「駆除」ということばは好きではありませんが、人間に益を及ぼさないものは、ときに「害」という冠を付けられて殺されなければならないのです。
そんな運命の中で母熊が殺され、生まれて間もない二頭の子熊を飼育するというドキュメンタリー番組を見ました。
恐ろしいと思う熊でも、手のひらに乗る子熊は愛らしく、恐ろしいと思う人はないと思います。
飼育員はまるで、わが子のように愛情をもって必死に育て、またその姿が感動的です。
飼育員はまるで、わが子のように愛情をもって必死に育て、またその姿が感動的です。
三ヶ月が過ぎ、さらに愛らしい姿になった子熊たちは元気に走り回り、木に登るまでに成長していました。
一方では「害」であると嫌い、ある一方では「愛」すべきものであると思う私たち人間のこころであります。
一方では「害」であると嫌い、ある一方では「愛」すべきものであると思う私たち人間のこころであります。
歎異抄に親鸞聖人と唯円のやりとりがあります。「往生極楽のために人を千人殺すべし」という件があります。
唯円は驚いて、「私の器量では一人も殺すことはできません」と答えました。そのとき聖人は「わが心の善くて殺さぬにあらず」と仰せられました。世の中には残忍非道な振舞をしてはばからない人がいます。何とひどい人間だろうか、と心憎くさえ思います。
一方この私はとても人を殺めることなどできない、と思っています。しかしそうではない「害せじとおもふとも、百人千人殺すこともあるべし」と聖人は示されました。縁が整えばどのようなことをするかわからないのが、この私であるということなのです。
恐ろしいと思って熊を撃ち殺すのも私の姿であり、母を亡くして不憫に思って子熊を育てるのも私の姿であります。
こちらの都合で殺したり、保護したりすることは人間の傲慢な姿であります。深く味わい気付かせていただきたいことであります。